旧日本海軍で、いわゆる戦闘艦を支える裏方の役割を担っていた工作艦「明石」は当時、アメリカ軍にとって「重要目標」だったといいます。実際のところ、そう認識されてもおかしくないほどの、ハイスペックを誇った艦でした。

最新機材満載の「動く万能修理工場」

 1942(昭和17)年8月、アメリカ海軍は日本海軍の拠点であるトラック島に、特異な艦が出現したことを察知します。停泊したこの大型艦の両舷には、大小何隻もの艦艇が横付けされています。この大型艦こそ、連合艦隊を裏から支える工作艦「明石」でした。アメリカ海軍は「厄介な奴」が現れたと、「明石」を重要目標としてマークするようになったといわれています。

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1939年、終末公試(海上での性能テスト)で佐世保を出港した際に撮影された「明石」(画像:アメリカ海軍)。

「工作艦」は海軍所属の艦艇ですが、厳密には軍艦ではなく、特務艦に分類されます。

戦艦や巡洋艦のように直接戦闘するのではなく、後方で支援を行なう「裏方のスタッフ」です。

 艦船は平時でも保守や修理は必要ですし、戦闘を交えれば損傷します。そして保守や修理を行うには、工作設備のある造船所や工廠に入る必要があります。本土近くで行動していれば帰還することもできますが、外洋に遠征していくと必要な設備が必ずしも近くにあるとは限りません。本土に戻るのは往復だけでも時間がかかりますし、前線の戦力もダウンします。そこで遠征先でも保守や修理ができるよう、工場設備を積み込んだのが工作艦です。

敵のアメリカ海軍にしてみれば、軍艦に損害を与えてもその場で修理してしまう「厄介者」でした。

本土の工廠にもない充実の設備

 太平洋戦争の開戦以前より、工作艦の必要性を日本海軍は痛感していましたが、貧乏でした。まず空母や戦艦、巡洋艦などの戦闘艦を揃えることを優先せざるを得ず、工作艦には旧型戦艦を改造した「朝日」や、商船改造の特設工作艦で我慢していました。とはいえ「朝日」は鈍重で扱いにくく、特設工作艦としては能力不足でした。

 1939(昭和14)年になって、ようやく工作艦として新造された「明石」が就役します。1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まって、さらに工作艦2隻の新造計画が立てられますが、貧乏の悲しさ、戦闘艦が優先されて中止となり、工作艦として新造されたのは結局「明石」のみでした。

裏方専業の「工作艦」はなぜ米軍に狙われたのか 旧海軍「明石」が脅威たりえたワケ

1943年2月にトラック島で撮影された「明石」、右から4隻目(画像:アメリカ海軍)。

「明石」の船体は工場として使いやすく床面積を確保できるように、船体の乾舷(満載喫水線から上甲板までの垂直距離)は高くなり平甲板型で、上甲板も作業スペースを確保できるよう構造物は最小限とされました。艦内には旋盤やフライス盤などで機械部品を作る機械工場が2、機械を組み立てる仕上げ組立工場が2、兵器工場、高温の金属を急冷処理し、強度を向上させる加工を行う焼入工場、溶かした金属を型に流し込んで目的の形状に固める鋳造工場が3、金属を鍛錬する鍛冶(かじ)及び鈑金工場、鍛冶工場、銅製品を扱う銅工場、溶接工場、木製品を扱う木具工場、電気部品を扱う電機工場、青写真室、工具室の17もの工場がありました。そのなかには、本土の海軍工廠にも配置されていないドイツ製最新工作機械もありました。

 艦内で働く工員は最大定員434名で、艦自体の乗員299名の約5割多い人数が乗り込んでいました。工場で必要な電力をまかなうため、交流600kVA、450Vのディーゼル発電機8基を搭載していましたが、これは戦艦「大和」と同等の発電能力です。

補給無しでも3か月間行動でき、あらゆる修理工事が可能で、当時の連合艦隊の平時における年間所要作業量の4割が「明石」だけで処理できる能力があったとされていますので、まさに動く万能修理工場でした。

期待通りの仕事ぶりも…

 1941(昭和16)年12月、開戦を決意した日本は艦隊の動きを本格化させます。「明石」も太平洋戦争が始まる2日前の1941(昭和16)年12月6日に、当時、日本の委任統治領だったパラオへ到着、連合艦隊と緊密に連携して行動していることが分かります。ここで連合艦隊艦艇の整備、損傷艦補修の支援にあたることになります。

 1942(昭和17)年6月4日にはミッドウェー攻略部隊支援のため、日本海軍の拠点であるトラック島に入りましたが、ミッドウェー海戦に惨敗して攻略作戦も中止され、任務が無くなってしまいます。しかしトラック島にとどまって常に4隻から5隻の艦船修理を担当し、戦力維持に多大な貢献を果たしました。

修理を受けた艦艇数は戦艦「大和」を始め空母「大鷹」、重巡「青葉」、軽巡「神通」など300隻を超えると言われています。

 1944(昭和19)年、戦局が悪化してトラック島も空襲を受ける可能性が高いと判断した連合艦隊司令部は、2月4日から艦艇の脱出を始めますが戦闘艦が優先され、「明石」など特務艦や民間船は後回しとなります。アメリカ軍は2月17日と18日にトラック島を空襲し、「明石」は爆弾1発を被弾したものの不発で、やっとの思いで脱出してパラオにたどり着きます。

裏方専業の「工作艦」はなぜ米軍に狙われたのか 旧海軍「明石」が脅威たりえたワケ

1944年3月30日、パラオ空襲で被弾し炎上する「明石」(画像:アメリカ海軍)。

 避難先パラオでも脱出は戦闘艦優先でした。結局3月30日のパラオ空襲までに「明石」は脱出することができず、アメリカ海軍艦載機の爆撃を受けて炎上大破着底してしまいます。

敗色の色濃い日本海軍にとってはとにかく戦闘艦が大切であり、もはや特務艦、民間船まで気を回す余裕は無くなっていたのです。

「明石」の喪失によって、事実上、南洋での艦船の修理拠点は失われ、戦闘艦の保守や修理効率は悪化していくのですが、皮肉にも修理すべき艦船は次々と戦没し、戦線も縮小して日本本土に迫ってくると、工作艦のニーズは少なくなっていきました。