地図を見ると、上野を出た常磐線は日暮里を経由して急カーブを描き南千住へと向かっています。まっすぐ北へ進めば良いものなのに、なぜ遠回りしているのでしょうか。

背景には、東京の鉄道の発展と、石炭輸送の歴史が関係していました。

常磐線は上野~南千住間で大きく遠回り

 東京から茨城県の土浦、水戸、福島県のいわきなどを経由して宮城県の仙台までを結ぶ常磐線。2011(平成23)年3月の東京電力福島第一原子力発電所事故の影響で福島県内の富岡~浪江間がいまも運休中ですが、2020年3月には復旧し、全線の運転を再開する予定です。

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特急「ひたち」が走る常磐線(2016年9月、草町義和撮影)。

 常磐線の東京側ターミナルは、東北本線(宇都宮線)と同じ上野駅です。地図を見ると、上野駅から日暮里駅までは、山手線・京浜東北線・宇都宮線の線路に並走。

そして日暮里駅から急なカーブで東へ向きを変えて、三河島駅や南千住駅などを通り、水戸・仙台方面を目指すルートを描いています。

 そのため、上野~南千住間は直線で2.5kmくらいなのに対し、常磐線は倍以上の5.6kmで、大きな迂回(うかい)ルートになっています。一見すると不自然ですが、これは常磐線の起点が最初は上野駅ではなく、山手線・京浜東北線が通る田端駅(現在の東京都北区)だったためです。

 上野のエリアに初めて鉄道が開業したのは1883(明治16)年のこと。日本初の本格的な私鉄・日本鉄道が上野~熊谷間の鉄道路線を開業し、のちに高崎方面と青森方面に線路を延ばしていきました。現在の東北本線と高崎線に相当しますが、当時はいまの京浜東北線と同じルート(田端経由)を通っていました。

常磐線の当初の起点は、なぜ田端だったのか?

 続いて1885(明治18)年には、現在の山手線と埼京線の一部になる赤羽~品川間を日本鉄道が開業し、先に開業していた国鉄の東海道本線に接続。関東北部から横浜方面に抜ける鉄道ルートが構築されています。

 ちょうどこのころ、いまの茨城県日立市から福島県富岡町にかけての一帯では、大規模な炭鉱開発が行われていました。そこで日本鉄道は、常磐炭田で産出された石炭を消費地である東京や横浜に運ぶ鉄道を建設することにしたのです。

 こうして1896(明治29)年から1898(明治31)年にかけ、田端駅から常磐炭田のあるエリアを通り抜けて仙台に至る、現在の常磐線が整備されました。

 単に東京へ石炭を運ぶだけなら田端駅ではなく上野駅を起点に整備して良かったかもしれません。

しかし、当時は上野駅から南下して東海道本線につながる線路がありませんでした。その一方で赤羽~品川間を結ぶ鉄道路線がすでにあったため、上野駅よりもこの路線に近い田端駅を起点に常磐線が整備されたといえます。

 その後、1903(明治36)年には田端~池袋間の鉄道も日本鉄道の手により開業し、田端駅が赤羽~品川間の鉄道に直結。横浜方面から途中で方向転換することなく常磐炭田に向かう石炭輸送ルートが構築されました。

「後付け」で方向転換なしの短絡線を整備

 一方、東京と仙台を常磐線経由で結ぶ旅客列車も、常磐線が全通したころから運転されていました。しかし、旅客列車の東京側ターミナルは東北本線と同じ上野駅だったため、田端駅で進行方向を変えなければならず、手間と時間がかかりました。

 そこで日本鉄道は1905(明治38)年、上野方面と水戸方面を方向転換することなく直通できる短絡線を、現在の日暮里~三河島間に開業。既設の路線に“後付け”で整備したため、急なカーブになったといえます。

常磐線「遠回り」の謎 上野~南千住で大迂回状態なぜ? 日暮里寄り道の鍵は田端と石炭

田端~三河島間の貨物線を走る団体列車(2015年4月、草町義和撮影)。

 その後、日本鉄道は国有化を経て、現在はJR東日本の路線に。常磐線は上野方面から水戸方面に直通する旅客列車が大多数を占めるようになりましたが、田端駅から水戸方面に向かう線路も貨物線として残り、1日に数本の貨物列車が走行。たまに臨時や団体の旅客列車が走ることもあります。

 田端駅とその前後の線路の配線が変わったため、いまは折り返しをせずに新宿方面から田端駅と貨物線を経由して常磐線に乗り入れる列車を運転することはできません。ただ、1980年代後半から1990年代前半にかけては、貨物線経由で新宿駅と常磐線方面を直通する旅客列車の運転も検討されたことがあったようです。実際、JR東日本が「上野を経由せずに東京、新宿へ乗り入れられる新規ルートの開発を目指している」(1989年5月18日付けの朝日新聞東京地方版/茨城)と報じられたこともありました。