人口減少が続く日本で、なぜタワーマンションが増え続けるのか。ライターの小川裕夫さんは「タワマンは自治体にとって、人口減対策の“劇薬”のような存在だ。
武蔵小杉も豊洲も、人口増という恩恵と引き換えに、通勤ラッシュや学校不足という深刻な代償を払ってきた」という――。
■大都市でも逃れられない「人口減少」

2026年5月29日、総務省統計局が国勢調査の結果を発表した。前回2020年の調査と比べて、今回の調査では日本全体の人口が約309万人も減少。この減少数は大阪府大阪市の人口よりも多い。
2015年の同調査によって日本の総人口は初めて減少へと転じ、その傾向は現在進行形で続いている。
初の減少となった2015年頃、まだ大都市部の自治体関係者は「うちは安泰」と事態を軽く捉えていた。その理由は都心回帰現象が強まり、東京・大阪といった大都市部周辺では、むしろ人口増が起きていたからだ。
しかし、自治体関係者の思いはすぐに打ち砕かれる。人口減少の波は都市圏にも及び始め、今回の国勢調査では全国20ある政令指定都市のうち神奈川県横浜市や兵庫県神戸市など13の政令指定都市で人口が減少した。
今後は加速度的に人口減少が進むことが予想されるため、2030年の国勢調査では政令指定都市の多くが軒並み人口を減少させることになるだろう。
前述したように都心回帰現象によって、自治体関係者は「うちは安泰」と楽観視していたわけだが、そうした見方を強くしていた理由のひとつにタワーマンション、いわゆるタワマンの存在が挙げられる。
■意外と知られていないタワマンの定義
すでにタワマンの存在は広く認知されているが、明確な定義はないので、人によってタワマンに対する認識は微妙に異なっている。

一般的に背の高いマンションもしくは大規模な集合住宅を一律的にタワマンと見るような傾向が強いが、不動産業界・住宅業界では「高さ60メートル以上、おおむね20階建て以上の超高層住宅」が共通見解になっている。通常の住居は階高が3メートルのため、単純計算で20階建てのマンションは約60メートルとなる。
そのほかタワマンは建物の中央部にエレベーター・階段・配管スペースなどを集中させる構造であるため内階段になりやすく、そうした特徴をタワマンの条件と認識する人もいるだろう。
また、タワマンと聞くと高級のイメージが強く、民間の大手が建設・分譲したマンションと思いがちだが、港区には2018年に完成した都営住宅のタワマンがあり、竣工当時は話題を集めた。公営住宅だけではなく、URや住宅供給公社のタワマンもある。つまり、タワマンは事業体を問わず、必ずしも高級とは限らない。
国内初のタワマンは1976年に埼玉県与野市(現・さいたま市)に完成した与野ハウスが嚆矢とされている。ここからタワマンの歴史が幕をあけた。それから半世紀が経過し、タワマンは特に目新しいものではなくなった。それでも優越感を得られる物件のため、いまだ不動産業界では根強い人気を誇る。
■マイホームの夢が生んだ「ニュータウン」
なにより人口減少に直面する地方自治体が人口対策として消極的ながらもタワマンを奨励していたフシもある。それは1980年代から巻き起こったバブル景気の住宅政策が結果的に失敗したという反省の側面もある。

バブル期は日本全土の地価が高騰し、サラリーマン世帯は都心部にマイホームを構えることが現実的ではなくなった。昨今、終の住処にマンションを選択する世帯は珍しくないが、当時は一戸建て住宅がマイホームの理想とされていた。
そうした庶民の一戸建てマイホームという夢を叶えるべく、住宅会社は地価の安い郊外に戸建住宅を多く供給することを計画。それらの多くは行政主導で計画されてニュータウンと命名される人工都市を生み出していった。
ニュータウンの戸建てに住み、主にお父さんが片道に2時間弱の通勤に耐えるというライフスタイルがバブル期には当たり前になっていく。
バブルは図らずも郊外化という現象をもたらし、過疎化に悩まされている地方都市ではチャンスとばかりに子育て世帯を中心に移住促進の旗を振った。広々とした戸建住宅が格安で手に入ることに飛びついたファミリー層は決して少なくない。
バブルは1980年代末には終焉していたが、1990年代に入っても余熱は残っていた。というよりも、「一時的に景気が停滞していても、すぐに景気はよくなる」というバブルの熱狂を忘れられない人が多く、それは自治体も住宅会社も同じだった。
■「灰色の街」から一変した武蔵小杉
しかし、バブル崩壊から10年前後が経過すると、さすがに現実を直視せざるを得なくなる。それと同時に、少しでも都心部に住みたいという需要が増えて都心回帰が加速した。東京の都心部は商業的価値が高いため、それまでオフィスや商業店舗といったビジネス利用が大部分を占めていた。
住宅地に割く余地はない。
そこで最初に白羽の矢が立てられたのが都外ながらも東京に隣接する神奈川県川崎市だった。
川崎市は高度経済成長期に日本を代表するような企業がこぞって進出し、大規模な工場を構えた。環境問題への意識が低かった高度経済成長期、工業都市として発展した川崎は大気汚染・水質汚濁といった公害が社会問題になり、そのイメージから「灰色の街」と揶揄された。
それでも大規模工場の操業する川崎は多くの労働者を受け入れ、経済的には活気に溢れていた。高度経済成長を牽引した大規模工場の多くは歳月の経過とともに更新期を迎える。それが都心回帰タイミングと合致した。
武蔵小杉駅周辺に櫛比していた大規模工場は郊外に広い敷地を求めて移転し、広大な工場跡地にはタワマンが建設されていく。こうして武蔵小杉駅の周辺を手始めに、川崎はタワマン街へと変貌を遂げていった。
武蔵小杉駅の周辺は川崎のタワマン街化を象徴する街といえるが、現在でも昔ながらの商店街も残っていて、昭和期から営業を続けている店もある。また、長らく住み続ける地元民もいる。
■通勤に便利とは言い難い街だった
筆者は2000年頃に夫の仕事関係で武蔵小杉に引っ越してきたという女性に話を聞いたことがある。
当時は、まだ都心回帰が鮮明とまでは言えず、武蔵小杉もタワマン街と認識されていなかった。
つまり、その彼女は昔ながらの住民とタワマン民の中間層にあたる住民ということになるが、当時の彼女は「(東急東横線一本で移動できる)中目黒や自由が丘のようなオシャレ感はない。いたって普通の街」という認識で、タワマンに居住していたものの、それを特に誇るような素振りはしなかった。
武蔵小杉駅は東急の東横線のほか、2000年に東急目黒線の電車が発着するようになって利便性が向上。その一方で、JR線は南武線だけしか利用できなかった。
南武線は東京の立川駅―神奈川県の尻手駅とを結ぶ本線や臨海部に支線を擁する路線だが、都心部に直通する路線ではない。東横線で渋谷駅まで直通できるとはいえ、動線面から見れば都心部で働くビジネスマンにとって通勤至便な街とは言い難かった。
そうした都心へのアクセスに難点を抱えていた武蔵小杉駅だったが、2010年に横須賀線のホームが新増設されたことで取り巻く環境は大きく変わっていく。もともと横須賀線の線路は武蔵小杉駅をかすめるように敷設されていたがホームは設置されておらず、電車は通過するだけだった。
■便利になった一方で、深刻化した駅の混雑
ホームが設置されたことで、武蔵小杉駅には横須賀線と湘南新宿ラインの電車が発着するようになり、横須賀線で東京駅まで、湘南新宿ラインで新宿駅まで一本で移動できるようになった。この鉄道移動の利便性向上は武蔵小杉のタワマン街化を語る上でも欠かせないターニングポイントといえる。
鉄道路線の充実によってタワマン街となった武蔵小杉には多くのニューファミリー層が住むようになり、通勤時間帯には駅改札に入場できない人が駅外の通路にまで溢れる光景が日常的になった。

駅の混雑は事故を誘発するリスクを伴い、事故は列車の遅延といった輸送障害をもたらす。輸送障害が起きれば線路でつながった離れた駅にも伝播する。武蔵小杉駅の混雑は単に武蔵小杉だけの問題にとどまらず、遠く離れた横浜や平塚、果ては総武線で船橋市や千葉市、湘南新宿ラインでつながるさいたま市にも影響を及ぼす。
そのため、行政も駅の混雑対策を講じる必要性に迫られることになる。川崎市は分散出社や駅の入場規制といった対策を講じているものの、目立った効果はあげられていない。
タワマンは一棟完成すると、居住人口は500~1000人単位で増加する。タワマンに居住するニューファミリー層は共働きのパワーカップルが多く、ゆえに居住者の大半は通勤者でもある。武蔵小杉の事例は鉄道という交通インフラで露呈したが、上下水道やゴミの処理といった面で表出することもある。
■街のにぎわいと引き換えにある負荷
こうした局所に負荷が集中してしまうタワマンは自治体にとって社会に混乱を与える厄介な存在だが、人口増という恩恵もあるので自治体にとってタワマンを即座に否定できない部分もある。
人口の増加は住民税・固定資産税の増収に直結することが大きな理由で、それに付随して街がにぎやかになることも期待でき、街がにぎやかになることで商業店舗が増えることにもつながる。
商業的に活性化すれば、在住者だけではなく通勤・通学、来街者が街で消費してくれる。その経済的なメリットも大きい。

こうしたことを理由に、地方自治体はタワマンが引き起こすマイナス面に目をつぶってきた。
そして、それがタワマンの増大という現象をもたらしていく。大規模集合住宅はデベロッパーにとっても効率的に多くの住宅を整備できるので収益面でプラスが多い。また、高層階は資産価値が高くなることもデベロッパーにとって都合がよかった。
そして都心回帰を追い風に、タワマンは東京へと押し寄せていく。そのターゲットになったのが東京都江東区の豊洲エリアだった。
豊洲がタワマン街へと変貌を遂げる端緒は、1979年に当選した鈴木俊一都知事(当時)が7番目の副都心として臨海副都心を計画したことだった。
鈴木都知事は臨海副都心開発に弾みをつけるべく、お台場をメイン会場とする世界都市博覧会(都市博)を誘致。1996年に開催が決まっていた都市博は、後任の青島幸男都知事が中止したことで開発が一時的に停滞する。
■幻の博覧会が変えた豊洲の運命
お台場の対岸に位置する豊洲は都市博中止の影響を受けることは少なかったが、それは豊洲が工場街で副都心としての開発を期待されていなかったことが幸いしている。
豊洲は江東区の最西端に位置し、中央区晴海とは晴海運河を隔てて隣接している。晴海運河には豊洲と晴海を直接的に往来できる橋がなく、両区を結ぶ道路は限られていた。そのため、豊洲は都心に近いながらも都心まで出づらいという難点を抱えていた。
豊洲の再開発は晴海運河に架橋計画が持ち上がったことから機運が高まっていく。晴海運河への架橋計画は2006年に晴海大橋として結実するが、豊洲で造船業を営むIHIは晴海大橋が完成することで建造船の荷出しができなくなってしまうことを理由にドックを閉鎖。その跡地は2006年に複合商業施設「アーバンドック ららぽーと豊洲」へと生まれ変わった。
「アーバンドック ららぽーと豊洲」が誕生したことで、同地周辺の住環境が整い、それが周辺の宅地化を促していく。2008年には地下通路を介してつながる「アーバンドック パークシティ豊洲」が竣工。3棟で構成されるパークシティ豊洲は総戸数が1481もある巨大タワマンだった。こうして豊洲は短期間にタワマンの街へと走り出していく。
■急増する子どもの数に追いつけない課題
江東区は昭和末期までに人口40万人を擁する自治体だったが、1997年には約36万8000人まで減少した。そこから再び人口増へと転じ、2003年に大台の40万人を突破。2016年には人口50万人の壁もクリアして、2020年にはご当地ナンバーが認められて江東ナンバーの交付が開始した。
従来、江東区域は足立ナンバーの交付エリアだったが、江東ナンバーとして独立が叶ったのは居住人口が増加したことに伴って自動車の登録台数が増加したからにほかならない。人口を急増させていた頃、筆者は江東区職員や区議会議員といった関係者に取材をしたが、豊洲にタワマンが並ぶようになった当初は人口増を単純に歓迎していた。
しかし、一気に人口が増加したハレーションも起きてしまう。豊洲エリアはタワマンの林立で爆発的に人口を増加させたが、その大部分は子育て中のニューファミリー層だった。それが多子高齢化という江東区独自の現象を生じさせる。子どもの人口が急増する一方で、高齢者人口も増加していたことから、行政では「多子高齢化」と呼ばれる状況となった。
多子高齢化という現象は、ほかの地域では見られなかった行政課題のため、江東区は手をこまねいていた。特に、小学校が足りないという問題は江東区にとって大きな課題になった。
小学校の建設は計画策定から予算の確保、実際に着工してから完成するまでのスケジュールは短く見積もっても5年。通常なら10年前後の歳月を要する。通常なら、江東区で生まれた子が小学校に入学するまでに6年の猶予がある。
■義務化した条例で子育て世代を誘引する
しかし、いきなり子育て世帯が転入してくる豊洲では小学校建設に時間的余裕がなく、緊急的な措置として既存の校舎に継ぎ足す形で増築することで凌ぐしかなかった。
その間、江東区は条例で人口増を抑制する“受入困難地区指定制度”を制定。これにより、指定されたエリアは2003~2007年までの4年間にマンションを建設できなくなった。
2007年に条例が失効すると、再びタワマン建設が活発化する。江東区は人口が急増した際にインフラ整備で後れをとった反省から、新しく「タワマンを計画する際は事前に届け出る」ことを条例として制定。
同条例では、「151戸以上の集合住宅を建設する際には保育所などの公共的施設を併設する」ことなどを事業者に義務付けた。2018年からは大規模マンションに一定数のワンルームマンションを整備する義務も加えている。
これらの措置は一定の効果をもたらしたが、しだいに思わぬ作用が起きることになる。前述の「151戸以上の集合住宅を建設する際には保育所などの公共的施設を併設する」を義務付けたことが保育所の充実につながり、かえって子育て世帯から人気を得ることになった。
そのため江東区には再び子育て世帯が流入するようになり、2025年には江東区の人口は約54万1000人にまで達した。
■専門家の予想が外れた東京の不動産市場
人口減少という時代において、東京でも土地が余り、不動産価格は下落するという考え方が支配的だった。特に東京五輪2020が閉幕したあたりで東京の不動産市場は下落傾向に転じると予想する専門家やデベロッパーは多かった。
筆者も「五輪後、東京の不動産市場は落ち着くので、慌てて晴海フラッグを買えば損をする」という意見を何度も耳にした。しかし、それらの予想は大きく裏切られた。
五輪後も東京都心部の不動産価値は高騰を続け、中古で1億円を超えるマンションが話題になり、すでに新築マンションは庶民に手が出せる代物ではなくなった。
そうした状況を見越して、タワマンは都外に主戦場をシフトしつつある。といっても、バブル期のように通勤で2時間という郊外ではなく、所要時間は40分から1時間前後が目安になっている。
そうした諸条件からデベロッパーが導き出したのが埼玉県川口市だった。埼玉県川口市は東京23区に隣接し、玄関となる川口駅から東京駅までは京浜東北線一本で移動ができる。なにより川口市は昭和期から鋳物の街として栄え、それらの工場は2020年前後から次々と建て替えのタイミングを迎えた。
川口市を取り巻く環境は、タワマン街化した武蔵小杉や豊洲と同じ構図で、すでに川口駅では朝ラッシュ時の混雑が激しく入場を規制する措置が頻発している。
■混雑解消を阻む複雑な事情
川口駅は京浜東北線しか走っていないため、これを緩和する措置として川口市は以前より中距離電車を停車させることを要望していた。
中距離電車という表現は一般的には耳慣れないが、これは上野東京ラインと湘南新宿ラインの2つを指す。2つを停車させることになれば、利用者を分散させることができ、ホームで電車を待つ人たちの混雑緩和が期待できる。
しかし、JR東日本は首を縦に振らなかった。その理由は明快で、川口駅に中距離電車を停車させれば、川口駅から乗車する乗客によって上野東京ラインと湘南新宿ラインの混雑率が上がってしまう。それによって中距離電車が輸送障害を起こす可能性が高まる。
また、中距離電車の停車駅が増えれば速達性が失われて、所要時間が増えてしまう。これは上野東京ラインが京浜東北線化することを意味している。
中距離電車を川口駅に停車させる案は、川口駅の利用者にしかメリットがない。JR東日本が渋るのは当然だった。
中距離電車の停車を実現したい川口市は、湘南新宿ラインの停車を取り下げて上野東京ラインの停車に要望を絞った。これは川口市にとって妥協案だったが、妥協案が示されたことでJR東日本も歩み寄る姿勢を見せるようになる。最終的に川口市が停車によって発生する費用の大部分を負担することで合意した。
■タワマンは都市を破壊する
合意したのも束の間、2026年2月に川口市で市長選が投開票されて、新市長が就任した。新市長は上野東京ラインの停車に約430億円という莫大な負担が発生することを疑問視し、同計画の見直しを表明した。これにより、上野東京ラインの川口駅停車問題は再び揺らぎ始めることになった。
武蔵小杉・豊洲、そして川口といった東京圏におけるタワマンの興亡盛衰を概観してみると、行政の人口政策とも密接にリンクし、そして交通問題をはじめとするインフラ整備にも影響を及ぼすことが明確になっている。
筆者はタワマン取材を通じて、タワマンは過大な負荷をもたらしながら都市を破壊するモンスターのように受け止めているが、今のところタワマン規制を打ち出している自治体はわずかで、マイナス面を直視して旗色鮮明にしているのは兵庫県神戸市ぐらいだ。そのため、まだまだタワマンは大都市部で増えるだろう。
しかし、都市は常に新陳代謝を続けながら変化している。かつて理想郷とされたニュータウンの多くが少子高齢化によって限界集落化している現実を踏まえると、半世紀の歴史を超えたタワマンにも遠からず廃タワマン・限界タワマンといった問題が表出することになる。それでも自治体関係者に危機感は広がっていない。

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小川 裕夫(おがわ・ひろお)

フリーランスライター

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経てフリーランスのライター・カメラマンに転身。「東洋経済オンライン」「デイリー新潮」「NEWSポストセブン」といったネットニュース媒体で定期的に取材・執筆・撮影。取材テーマは、旧内務省や旧鉄道省、総務省・国土交通省などが所管する地方自治・都市計画・鉄道など。また、官邸で実施される内閣総理大臣会見には、史上初のフリーランスカメラマンとして参加。著書に『鉄道がつなぐ昭和100年史』(ビジネス社)、『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『東京王』(ぶんか社)、『封印された東京の謎』(彩図社文庫)、『路面電車の謎』(イースト新書Q)など。共著に『沿線格差』(SB新書)など多数。

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(フリーランスライター 小川 裕夫)
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