西野カナさんのコンサートをめぐり、思わぬ騒動が起きています。一部のファンが周囲の来場者に対し、一緒に歌ったり声援を送ったりするよう求める行為が問題となっているのです。

善意の強要? 西野カナ騒動に見る「同調圧力」

 これは「アンコールサプライズ」と呼ばれ、アンコール前にファン同士でヒット曲を歌い、アーティストの再登場を盛り上げる恒例の演出だといいます。しかし、その参加を見ず知らずの来場者に半ば強要するようなケースがあり、西野さんの公式サイトは「周囲のお客様への歌唱や声援の強要はおやめください」と声明を発表。節度ある行動を呼びかけました。

 ネット上では、「ライブにはそれぞれ違う楽しみ方がある」「アンコールサプライズ自体を知らない人もいるのだから、公式が注意喚起したのはよかった」といった意見が多くの支持を集めています。

 同様の問題は以前から存在していました。たとえば、特攻服姿の私設応援団による矢沢永吉さんの「永ちゃんコール」をめぐっても、一緒にコールをするよう周囲へ圧力をかける行為がたびたび議論になっています。

 もちろん、こうした強要は論外です。見ず知らずの他人に、自分たちのルールや楽しみ方への同調を求めることは、法的な問題以前に常識の問題でしょう。その意味では、西野さん側の声明はかなり穏やかな表現であり、本来であれば、もう少し厳しい言葉で注意しても不思議ではありません。

感動は作れるのか? 本当の音楽に「指示」は不要

 ただ、この問題にはもう一つ、あまり語られていない側面があります。それは、こうした「アンコールサプライズ」のような呼びかけが、本当にライブの感動や盛り上がりを生み出しているのかという点です。

 たとえば、ポール・マッカートニーが『ヘイ・ジュード』を歌えば、曲の終盤にある「ナーナーナーナナナナー」の大合唱は、誰かが音頭を取らなくても自然に始まります。サッカー・ワールドカップでも、ハーフタイムなどにボン・ジョヴィの『リヴィン・オン・ア・プレイヤー』が流れれば、スタジアム全体が自然と歌い始める光景は珍しくありません。

 本当に人を動かす音楽には、それだけの力があります。
観客は「盛り上がらなければならない」と指示されるから歌うのではなく、歌わずにはいられないから歌うのです。感動は、音楽そのものが持つエネルギーから自然に生まれるものであり、一部のファンの熱意によって作り出されるものではありません。

 そう考えると、西野カナさんのアンコールサプライズや、「永ちゃんコール」を他人に強要する行為は、皮肉なことに「音楽だけでは足りない」と、最も熱心なファン自身が認めてしまっているようにも見えます。

主役は自分? 承認欲求が招く独りよがりな悲しさ

 もっとも、「自分たちがこのライブを盛り上げた」という達成感や、それによってアーティストが喜んでいる姿を見たいという必死な承認欲求もあるのでしょう。しかし、そうしたファン心理は得てして良い結果につながりません。なぜなら、そこで生まれているのは感動ではなく、「面倒だから合わせておこう」という大人の社交性だからです。それは心からの賛同ではなく、その場の空気を壊さないための配慮に過ぎません。

 音楽の力を信じているのであれば、人それぞれが自由に楽しんだ結果として、一体感は自然発生的に生まれるはずです。しかし、「盛り上がるためのイベント」をあらかじめ用意し、それを全員で再現しなければライブが成立しないという発想になった瞬間、主役は音楽ではなくなります。

 それは、コンサートという空間を盛り上げるための台本であり、演出です。観客は音楽を味わうのではなく、「盛り上がっている自分」を演じ、その姿をアーティストに見てもらうことが目的になってしまいます。

 もちろん、ライブで声を合わせたり、一体感を楽しんだりすること自体を否定するつもりはありません。
問題なのは、それが自発的なものではなく、周囲への同調圧力として機能してしまうことです。

 アーティストを誰よりも支えていると思っている人たちが、実は音楽そのものへの信頼を損ない、他の観客が自由に楽しむ権利まで奪ってしまう。そこに、アンコールサプライズを他人へ強要する行為の、何とも皮肉で独りよがりな悲しさがあるのではないでしょうか。

文/石黒隆之

【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。X: @TakayukiIshigu4
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