愛媛県伊予西条市は、東海道新幹線計画を推進した第4代国鉄総裁、十河信二ゆかりの地です。十河信二の記念館と、彼の蔵書を収蔵した西条図書館を訪ねました。
愛媛県西条市、JR予讃線の伊予西条駅に隣接して「鉄道歴史パーク in SAIJO」があります。鉄道展示施設「四国鉄道文化館」のほか、「十河信二(そごうしんじ)記念館」と「観光交流センター」から成ります。
「四国鉄道文化館」は四国の鉄道にゆかりのある車両や鉄道部品を展示する施設です。しかし、四国では走らなかった東海道新幹線の0系電車が展示されています。その理由は、隣の建物「十河信二記念館」にあります。
東海道新幹線の0系電車(画像:写真AC)。
十河信二は第4代国鉄総裁として、東海道新幹線の建設を決定、推進した人物です。国鉄総裁になる以前は第2代西条市長でした。
その十河の功績を称えるため、0系が西条市に運ばれ展示されました。ちなみに、愛媛県と高知県を結ぶJR予土線にも、0系を模した「鉄道ホビートレイン」が走っています。「四国には新幹線がないからって、こんな車両を作ってしまうなんて」などと揶揄されがちですが、「四国が生んだ十河信二が手がけた新幹線」を記念して走らせています。
ところで、四国鉄道文化館にはもう1台、四国とは縁のない車両が保存展示されています。C57形蒸気機関車44号機です。実はC57形は四国を走ったことがありません。44号機は北海道の岩見沢第一機関区に所属していました。一説によると、蒸気機関車の引退に当たり、十河が「こっちにも1台くれないか」とひと声かけたとか。元国鉄総裁であり新幹線建設の功労者の要望ということで、西条市の市民公園で静態保存されたようです。
市民公園で風雨にさらされたC57形は、市の依頼を受けた機関車愛好家の大山正風さんがコツコツと整備し、現役時代の姿に復元したうえで四国鉄道文化館に移設されました。このC57形は、十河の雅号(俳句を読む時の名)にちなみ「春雷号」と呼ばれています。
十河信二はどんな人? 鉄道院総裁から声がかかる十河信二の生涯を簡単に振り返ります。出身地は西条市の隣、現在の愛媛県新居浜市です。愛媛県尋常中学校東予分校(現・西条高校)を卒業後に上京し、正則英語学校(現・正則学園高等学校)に入学。その後、第一高等学校(現・東京大学教養部)に進学し、東京帝国大学法科大学政治学科(現・東京大学法学部および東京大学大学院法学政治学研究科)に進みます。
ところが縁あって、当時の鉄道院総裁の後藤新平にスカウトされ、鉄道院に就職しました。この時、25歳。国鉄との関わりが始まります。
十河は鉄道院総裁の後藤新平、技術幹部である島 安次郎の影響を受けます。鉄道の輸送力を改善するために、狭軌(線路幅が1435mm未満のもの)の鉄道を標準軌(線路幅が1435mmのもの)に改造すべきだと。しかしこの議論は政治的な意味合いで採用されませんでした。一方、十河は上京した西条出身者のために学生寮を作るなどの活動もしていました。故郷を盛り立てたいという思いは変わらず、自分の代わりに故郷に貢献する人材を応援しようと思ったのかもしれません。
一時は総理大臣も薦められた1923(大正12)年9月1日、関東大震災が起きると、十河は復興院に移り、役目を終えて鉄道院に戻りました。ところが復興工事に関する収賄の嫌疑で逮捕されます。結果的には無罪でしたが、十河は逮捕された時に鉄道院を辞職しました。
1945(昭和20)年7月、十河は西条市の実力者に請われて市長に就任します。61歳。無報酬でした。これは十河が望んだことでした。無報酬と知った市民からは毎日のように魚や柑橘類などが届いたそうです。しかし、十河は1年にも満たない期間で辞職します。占領軍より「8月の終戦以前から自治体の長を務めていたものは自主的に退任せよ」と通知されたからでした。
十河は市長退任直後、身体に障害を負った鉄道職員などを救済・援護する鉄道弘済会の会長に就任します。この時期、十河は内々に総理大臣にならないかと説得されます。しかし十河は固辞。
1955(昭和30)年、十河は71歳。とっくに隠居しても良い歳です。しかし、十河は国鉄を心配していました。戦後復興が進み日本の経済は成長期に入ろうとする一方、国鉄は不祥事が続いていました。1951(昭和26)年の桜木町事件など、相次ぐ列車事故で総裁が次々と引責辞任していたのです。

四国鉄道文化館に展示された0系の先頭車。JR西日本で最後まで走った4両編成のひとつ。反対側の先頭車は英国のヨーク博物館に寄贈された(2019年11月、杉山淳一撮影)。
総裁の適任者がいない。
国鉄総裁となった十河は、支社制度を発足させて本社の権限のいくつかを移管するなど組織改革、経営改革を断行。その一方で、後藤や島が果たせなかった広軌鉄道(新幹線)敷設に着手します。
国会を欺いてまで広軌鉄道を敷設 それは新幹線まずは島の息子、秀雄を国鉄に呼び戻します。秀雄は桜木町事件当時に国鉄車両局長でしたが、事件後に国鉄を引責辞任し、住友金属工業の取締役を務めていました。
技術と現場は島、政府との交渉や資金調達は十河が担当しました。十河はさっそく鳩山総理に直談判し、広軌鉄道の調査費初年度分として100億円を獲得します。十河信二と島 秀雄が「新幹線の父」と慕われる所以がここにあります。
この後、広軌鉄道の敷設に対する十河の活躍は破天荒そのものです。島が見積もった建設費用は5年間で約3000億円。しかしこのままでは国会で承認されないと考えて、なんと、1972億円の予算と説明し、国会の承認を得ます。予算さえ通せばこっちのもの、あとはなんとでも見繕ってやろう、と腹をくくったわけです。いわば国会を騙した。それは「国民のため、日本のため、広軌鉄道・新幹線は絶対に必要だ」という信念があるからでした。
政界の重鎮が十河信二と新幹線を応援いま、こんなことがバレたら国会は紛糾、内閣総辞職まで持って行かれそうな事案です。事実、反対する議員はたくさんいたようです。十河の国鉄総裁の2期目続投を阻止する動きもありました。しかし、政界のフィクサーの鶴の一声で反対派を黙らせ、十河は続投、新幹線建設は続けられました。鶴の一声を発した人物、それは十河が国政を託した人物、吉田 茂でした。
さらに援軍が現れます。当時の大蔵大臣で鉄道省出身の佐藤栄作です。佐藤は十河に「世界銀行からの資金調達」を助言します。「新幹線は長期にわたる事案だ。政権が変わるたびに是非が問われ、予算が増減されるようでは進まない。世界銀行から調達すれば、新幹線建設は世界との約束になる。政権に左右されない」

十河信二に贈られた勲一等瑞宝章。長年の鉄道への貢献が認められた(2019年11月、杉山淳一撮影)。
こうして新幹線の建設は進められました。しかし、2期目の終盤になって、建設費の不足が明らかになります。しかし、世界銀行から借り、完成も見えた新幹線工事は止められません。国会は新幹線に人質を取られたかのように予算を差し出しました。その一方で、国鉄は大幅な赤字を計上します。そのようななか、1962(昭和37)年に三河島事故が発生。十河は引責辞任こそしなかったものの、3期目は就任できませんでした。この時、十河と運命をともにしてきた島も辞任しました。
1964(昭和39)年10月1日、ついに東京~新大阪間で東海道新幹線が開通します。しかし、テープカットの場に十河と島の姿はありませんでした。出発式に招待もされなかったようです。
国鉄の十河総裁には公式資料が多数贈呈された十河信二記念館には、十河の経歴、実績を称える展示のほかに、十河の人柄を紹介する展示もあります。たとえば「名言集」の展示。常日頃から、怒鳴りつけるように部下に叱責していたようですが、「僕のカミナリは春の雷で、音は大きくても実害はないよ」と語っています。これが雅号の「春雷子」の由来です。
ところで、西条市にはもうひとつ、十河の足跡を学べる施設があります。西条図書館です。十河の死後、家族から蔵書や国鉄総裁時代の資料が寄贈されました。蔵書のほとんどが開架書庫にあり、誰でも手に取って読めます。鉄道分野は復刻版時刻表、日本国有鉄道百年史、大手私鉄各社の社史など、国鉄総裁職の十河に贈呈されたと思しき公式歴史資料がたくさんあります。政治家の自伝、評伝、歴史書なども貴重です。鉄道雑誌のコーナーは十河総裁時代のバックナンバーがそろっています。
さらに、貴重な図書の閲覧コーナーがあります。誰でも司書に申告すれば、鍵を開けて入室できます。ここには十河が自ら記した備忘録、回想録があります。生原稿を複写して製本しているとのこと。国鉄総裁を引退してから、思い出した順に書いていたようです。このなかに、とても興味深い記述があります。
手記に残された十河総裁就任裏話それは国鉄総裁就任時の様子です。前述のように、鳩山総理の腹心、三木武吉が「故郷とも言うべき国鉄の窮地に……」と説得し、十河が「線路を枕に討ち死にする覚悟」と承諾したという話が伝わっています。この逸話はいくつか変種もありますが、十河が殺し文句に屈服したという要旨は通じています。

新幹線に関する国鉄理事会資料。島 秀雄が作成した書類もある。これらは非公開で、東京大学の協力を得て資料整理が行われている(2019年11月、杉山淳一撮影)。
しかし手記には、三木の言葉として「そんなに命が惜しいのか、多年国士として敬仰していた君が、そんな卑怯者だったのか」とあり、かなり辛らつでした。それを十河は「罵言と叱咤と激励」だったと記しています。そしてこの時、十河はその場で返事をしていません。「昭和30年3月20日の昼、三木は拒否の返事を待たずに席を立った」と手記にあります。ここまで言われても十河は固辞するつもりでした。もしかしたら三木は、これ以上たたみかけると十河に反発されると察したのかもしれません。
新幹線建設の貴重な資料が図書館に保管されているしばらくして、「もう一度話し合おう」と運輸大臣であった三木武夫に東京駅ステーションホテルに呼び出され、行ってみるとそこには記者会見場が作られており、テレビやラジオのセットが整っていたとのこと。だまし討ちのような状況を見て、病み上がりの十河はどう考えたでしょうか。不祥事続きの国鉄の人事は世間から注目されています。十河が最有力候補と漏れ伝わっていることでしょう。国民から期待されたという重みを感じ、「やらない」とは言えません。「線路を枕に……」は、三木武吉へ伝えた返事ではなく、就任会見で述べた言葉です。しかしその直前、鳩山総理に「新幹線を作るならやる」という約束を取り付けていたとも書かれています。

西条図書館の外観(2019年11月、杉山淳一撮影)。
十河の遺品はこれだけではありません。会議室、倉庫にもたくさんあります。たとえば国鉄時代のポスター、チラシ、開通記念品などは書庫に置けず、展覧会を開かないことには展示できないほど。なによりも目を見張る資料は、新幹線建設に関する会議資料、議事録です。車両、工法、予算などを報告するために作られた資料で、これを見れば、新幹線が政府や国鉄のなかでどのように検討されたか、その推移がわかります。
これらの資料も含めて、膨大な鉄道資料は東京大学の協力を得て整理され、閲覧可能になる予定です。かなり時間はかかりますが、完成すると、東海道新幹線建設の全貌、国鉄分割民営化の経緯まで明らかになると思われます。
鉄道史研究家は西条市にあつまれ?筆者(杉山淳一:鉄道ライター)の西条市訪問は2度目。実は十河信二記念館、四国鉄道文化館も2度目の訪問でした。再訪したきっかけは「西条市経営戦略部シティプロモーション推進課」からのお招き。この部署は、西条市に移住したい人を支援しています。
そこでちょっと意地悪く「西条市と言えば十河信二ですね。鉄道ファンが移住したくなるような魅力を教えてください」と尋ねたところ、四国鉄道文化館の加藤圭哉館長、西条図書館の安藤文昭副館長をご紹介いただきました。十河信二記念館では、十河の人物像や西条市との関わりを詳しく伺いました。また、十河関連の資料が西条図書館にあることを知りました。
十河信二、そして新幹線建設や国鉄については、まだまだたくさんのエピソードがあります。図書館には膨大な資料があり、地元の鉄道ファンからの資料も受け入れています。とても1日では読み切れる量ではないでしょう。このまま資料が充実すると、西条図書館は鉄道史の一大拠点になるかもしれません。いっそ近隣のビジネスホテルと提携して、「西条図書館に通える2泊3日宿泊パック」と題したツアーでも募集してほしいと思ったほどです。
※誤字を修正しました(1月14日14時50分)。