四国に海上自衛隊の艦艇部隊は配置されていませんが、香川の金刀比羅宮には自衛艦の錨と、その傍らに吉田 茂元首相揮ごうの石碑が設置されています。そこには、戦後日本の海上安全にまつわる歴史が大きく関わっていました。
「こんぴらさん」の愛称で知られる香川県琴平町の金刀比羅宮(ことひらぐう)は、年間数百万人が参拝する、四国を代表する名所旧跡です。もともと「海上交通の守り神」として祀られており、全国の海事関係者からの信仰を集めています。
長く続く参道の石段は1368段あり、その中ごろの一角に、海上自衛隊の自衛艦で使われていた古い錨(いかり)がひとつ置かれています。もともと掃海母艦「はやせ」が装備していたものでした。
金刀比羅宮の一角に安置されている掃海母艦「はやせ」の主錨(柘植優介撮影)。
「はやせ」は1971(昭和46)年6月に進水し、2002(平成14)年12月に退役した艦で、それから2年後の2004(平成16)年に金刀比羅宮へ、前述の錨が奉納されています。なぜ金刀比羅宮に「はやせ」の錨が奉納されたのか、それには、その奥にある「掃海殉職者顕彰碑」が関係しています。
掃海殉職者顕彰碑とは、その名のとおり掃海作業における殉職者の功績をたたえるための石碑です。「掃海作業」とは、海のなかに潜む機雷を除去、処分する作業のことで、「機雷」とは水中に敷設され、船が接触したり接近したりするとこれを感知し爆発する兵器です。
太平洋戦争末期、当時敵であったアメリカは、島国である日本で艦船の運航を不可能にするため、周辺海域や港湾などに多数の機雷を設置しました。その数は1万2000個以上といわれます。
そして機雷は、戦争が終わったからといって自動的に無力化するわけではありません。
機雷を除去、処分する掃海作業は、1945(昭和20)年8月の終戦から全国の主要航路や港湾で開始されます。安全宣言が出された1952(昭和27)年6月まで7年弱のあいだ続きましたが、その作業中に爆発事故などで78名が命を落としました。

2019年の掃海殉職者追悼式で弔銃(空包)を発射する海上自衛隊儀じょう隊。写真左奥に見える高い石碑が掃海殉職者顕彰碑(画像:海上自衛隊)。
この尊い犠牲を追悼し、なおかつ掃海作業の苦難と偉業を称え後世に伝えるために、全国の32港湾都市の市長らが発起人となり、1952(昭和27)年6月に建立されたのが前述の「掃海殉職者顕彰碑」です。揮毫(きごう)は当時、首相であった故吉田 茂氏によるもので、同年から掃海殉職者追悼式が毎年行われています。
なお同碑には、1963(昭和38)年の掃海訓練において事故死した海上自衛官1名も追記されたため、2020年現在は79名の殉職者の名前が刻まれています。
掃海母艦「はやせ」は、そのような危険な任務に従事する掃海部隊の中心となる旗艦として建造されました。1991(平成3)年には、日本から遠く離れたペルシャ湾の掃海任務に従事するために編成された派遣部隊の旗艦も務めています。その業績をたたえ、国際平和と海上交通の安全を祈念する象徴として、前述の錨は安置されています。
ちなみに掃海殉職者追悼式は、1952(昭和27)年以降、毎年5月の最終土曜日に顕彰碑の前で催されています。