ふたつ以上の機械類から部品を集めてひとつに組み上げることを「ニコイチ」といい、実は横須賀の「三笠」も、ある意味ニコイチで復元されました。これに貢献した、知られざるチリ戦艦と「三笠」の、不思議な縁を感じさせるお話。
神奈川県横須賀市の観光名所のひとつ、三笠公園は、岸壁にある旧日本海軍の戦艦「三笠」を中心に整備されています。同艦は太平洋戦争終結後、一時、荒廃していましたが、様々な人物や団体の尽力によって復元され、1961(昭和36)年5月27日には復元記念式が挙行されました。以後は往時を彷彿とさせる姿で保存展示されています。
1961年5月27日の復元記念式典当日、満艦飾に彩られた記念艦「三笠」(画像:アメリカ海軍)。
この「三笠」の復元整備に、地球の反対側で使われていた、ある1隻の軍艦が下支えしました。その艦はチリ海軍の戦艦「アルミランテ・ラトーレ」です。
「アルミランテ・ラトーレ」は、「三笠」から遅れること13年、1913(大正2)年11月27日にイギリス北東部にあるアームストロング社のエルスウィック造船所で進水しました。
進水の8か月後、ヨーロッパにおいて第1次世界大戦が勃発したため、同艦はイギリス本国に買い上げられ、戦艦「カナダ」として1915(大正4)年9月に就役します。いったんイギリス海軍所属としてドイツ海軍と戦ったのち、大戦後の1919(大正8)年にチリへ改めて売却されました。
1921(大正10)年2月にチリ戦艦として運用が始まった「アルミランテ・ラトーレ」は、同国屈指の近代的戦艦として30年以上にわたり活動を続け、第2次世界大戦後の1958(昭和33)年10月に退役します。
「アルミランテ・ラトーレ」は鉄くずとして売却されることになり、これを買い取ったのは日本の商社でした。こうして退役翌年の1959(昭和34)年、同艦は曳航されて来日します。
チリ戦艦「アルミランテ・ラトーレ」は、「三笠」とは進水時期で13年の開きがありましたが、1950年代末に残存していた戦艦のなかでは、唯一、第1次世界大戦に従軍した艦でした。なおかつ「三笠」と同じイギリス製ということで、各種装備や部品に高い互換性を持っていました。

復元された「三笠」の前に並ぶ日本とアメリカの関係者。奥に小銃を持って整列するのは海上自衛隊の儀じょう隊(画像:アメリカ海軍)。
チリ政府も、解体に際して「アルミランテ・ラトーレ」から外した様々なパーツを「三笠」復元のために使用することを承諾してくれます。
太平洋戦争後の荒廃によって、数多くの部品が行方不明となっており、しかも「三笠」は20世紀初頭に建造された艦のため、イギリス本国でもすでに製造されていない部品が多かったため、入手困難な部品や装備をこのような形で入手できたことで、「三笠」の復元作業ははかどるようになりました。
こうして、一時はダンスホールや水族館として使用されていた「三笠」でしたが、わずか2年ほどで現役時代の姿に戻され、冒頭に述べたように1961(昭和36)年5月27日に無事、復元記念式が挙行されるに至ったのです。
歴史にifはありませんが、仮に「アルミランテ・ラトーレ」が第1次世界大戦で戦没していたら、もし「アルミランテ・ラトーレ」を日本の商社が買い付けなければ、「三笠」の復元作業は難航し、費用ももっとかかっていたことでしょう。
太平洋戦争後に一時荒廃したことは「三笠」にとって災難でしたが、その復元というある意味絶妙のタイミングで「アルミランテ・ラトーレ」が約1万7000kmの距離を超えて横須賀に来て、そして鉄くずになり失われるはずだったその一部が「三笠」に残されたというのは、もしかすると両艦は見えない運命の糸で結ばれていたということかもしれません。