2019年、女子ゴルフ界最大のニュースと言えば、渋野日向子の全英女子オープン制覇だろう。年の瀬を迎え、あの感動を今一度呼び覚まそうと、今回、彼女の快挙達成を最も近くで見ていた村口史子プロに、歓喜の瞬間をあらためて振り返ってもらった――。



渋野日向子は「根っからの勝負師」。村口史子が振り返る「奇跡の...の画像はこちら >>

全英女子オープンを制した渋野日向子

 2019年8月、AIG全英女子オープンの最終日、最終組、最終18番ホール。入れば優勝、外したらプレーオフという約5mのバーディーパットを、渋野日向子さんは強気でねじ込んで、日本人として樋口久子さん以来、42年ぶりとなる海外メジャー制覇を成し遂げました。

 これまで、全英女子オープンや全米女子オープンなど、海外メジャーのラウンドレポーターを何度も経験させていただきました。そのなかで、日本人選手が勝ちそうな大会もいくつかありましたが、なかなか優勝することはできませんでした。

 私がラウンドレポーターを務めたなかで、最も優勝に近づいたと思うのは、2008年の全英女子オープンでしょうか。3日目を終えて、不動裕理さんが首位に立って最終日を迎えました。
1打差の2位には申ジエさん。そのふたりが最終日、最終組で回ったんですが、お互いに優勝を意識し合ってか、ともにパットが決まらず、最終日はスタートホールから非常に空気が重かったことを覚えています。

 そして、最終的には申ジエさんが逆転優勝。その時に海外メジャーを勝つことの難しさを、あらためて痛感させられました。そうやって、日本人選手が悔しい思いをしてきたシーンを何度も見てきたので、渋野さんには申し訳ないのですが、今回も最終日を前にして、少なからず彼女の優勝に半信半疑な部分はあったと思います。

 でも、2008年の全英女子オープンの時とはまるで違って、今年の全英女子オープンの最終日、最終組からは、重苦しい空気が一切伝わってきませんでした。
渋野さんが、メジャー優勝への重圧を感じている様子もなく、明るく、ハツラツとプレー。ニコニコしながらメジャーを勝った選手は今まで見たことがなく、他の選手や関係者に、いい影響を与えたと思いますね。

 渋野さんは、自然体を貫いていました。最終日も、いつものようにニコニコしながら18ホールを回っていました。もちろん、ミスもたくさんありましたが、彼女は”やられたらやり返す”くらいの強い気持ちをもって、そのミスを帳消しにしていきました。

 全英女子オープンの1カ月前、彼女にとって国内2勝目となった7月の資生堂 アネッサ レディスオープンでも、私はラウンドレポーターとして、彼女の組についていました。

あの頃は、そこまで強いゴルファーだという印象は抱かなかったんですが、流れを引き寄せる”運”は持っているな――そう感じていました。

 そうして、全英女子オープンでは、日本でプレーしている時以上に笑顔を振りまいてラウンドしていた渋野さん。子どもたちだけじゃなく、大人たちにもハイタッチしながら、次のホールに向かっていきました。周囲を引き込んで、彼女を応援したくなるようなムードを作り出し、私は会場の空気が徐々に変わっていくのを感じました。その結果、大勢のギャラリーが見知らぬ日本人選手をいつしか応援するようになっていったんです。

 初めての海外の大会で、こんな立ち居振る舞いができる日本人選手は、これまでに見たことがありません。
メジャー大会となれば、海外のトッププレーヤーでも、そうはいきません。みんな、ピリピリして、声もかけられないような状態ですから。その点、彼女はプレーではもちろんのこと、そうした振る舞いによって、ギャラリーまで味方につけていった。その様子を見て、私もすごくうれしくなったし、「がんばれ」という気持ちが強くなりました。

 渋野さんとは、練習日にも会話を交わしました。今大会の開催コース、ウォーバーンGC(イングランド)が英国特有のリンクスコースではない点について、その感想を訊ねると、「リンクスコースだったら、端から予選落ちですわ、ハハハッ」と、笑い飛ばしていましたね。


 事実、あまり絶好調という感じには見えず、アイアンの練習でも、ミスしては考えて、また打って、また考えて……その繰り返しでした。そして、まだ大会が始まっていないにもかかわらず、「早く日本に帰りたい」と最初から言っていたようです。

 はっきり言って、メジャー大会での勝利に向けて、ひたむきな様子はまったくありませんでした。まさしく”無欲”。それが、よかったんですかね……。

 プレーに集中し、気負いもなく臨んだ初日は2位タイ発進。

風もなく、天気も安定していて、飛ばし屋の渋野さんにはとっても回りやすいコンディションだったと思います。

 2日目も単独2位でフィニッシュ。さすがの渋野さんも、3日目にはこれまでとは違った緊張に包まれるだろうな、と思っていました。「ムービング・サタデー」と言われるように、決勝ラウンドに入れば、各選手がスコアを意識しますし、実際にスコアがよく動きます。そうした状況にあって、普通なら「(スコアを)伸ばさなきゃいけない」とか「ミスできない」といった雑念が、頭の片隅に入ってくるものですから。

 しかし、彼女の様子は2日目までと、何ら変わりませんでした。ミスして、ボギーを叩いたとしても、次のホールでは”ピンに当ててやる!”くらいの強気で、アグレッシブに攻めていました。それで、普通はバックナインではあまりスコアは伸びないのですが、渋野さんの場合は、むしろバックナインのほうがバーディーが多く、バックナインでスコアを伸ばしていました。

 こうした性格は、ゴルファーとして培ってきたものではなく、(学生時代にやっていた)ソフトボールの経験が生きているのかもしれません。根っからの”勝負師”なのでしょう。

 2位と2打差の単独首位に立って迎えた最終日は、3番(パー4)で4パットを喫してダブルボギー。優勝を争っている選手にとって、ダブルボギーは致命傷になりかねません。このまま下位に沈むことが脳裏をよぎりましたが、この時も彼女はその後、積極的にピンを狙っていったんです。

 過去の大会でも、そういう選手が頂点に立っていました。メジャーで勝つには、そうでなければいけないと強く印象に残っていたので、渋野さんが同様の姿勢でプレーしているのを見て、これまで(日本人選手)とは何かが違う、という雰囲気を感じたのは確かです。現に、渋野さんは5番(パー4)、7番(パー5)とバーディーを奪って、ミスを帳消しに。

 渋野さんも、ミスした時は自らへの怒りをあらわにします。ところが、すぐに気持ちを切り替えて、次のショットに(冷静に)向かうことができる。これって、なかなかできることではありません。

 最終日を最終組で回るうえで、私が心配したのは、プレーのリズムでした。決勝ラウンドに入ると、2サムで行なわれます。最終日ともなれば、前の組との間隔が詰まるし、さらに優勝を争っていれば、一打、一打により時間をかける選手が出てきます。そういう環境のなかで、誰よりもプレーが早い彼女ですから、待っている間にイライラしたりして、ゴルフのリズムが崩れてしまうことを恐れていました。

 ただ、幸いだったのは、渋野さんと同組だったのが、前日も一緒に回ったアシュリー・ブハイさん(南アフリカ)だったこと。プレーのリズムがわかっていた分、回りやすかったはずです。彼女自身も、待っている時間をうまく使っていて、リラックスできていましたよね。

 得意とするバックナインに入ってからは、圧巻のプレーでした。まずは、10番(パー4)ではカラーからバーディーパットを沈め、12番(パー4)では果敢にワンオンを狙っていって、グリーンをぎりぎりでとらえました。イーグルこそ逃すも、難なくバーディー。さらに続く13番(パー4)でもスコアを伸ばして、再び首位に並びました。

 トップで並走したのは、最終日にスコアを伸ばしたリゼット・サラスさん(アメリカ)。通算17アンダーで彼女が先にホールアウトし、渋野さんが同スコアで並んで最終18番(パー4)を迎えました。

 見事なティーショットを決めたあと、彼女の背後には大勢のテレビカメラのクルーがついていきました。あれって、ゴルファーには結構プレッシャーがかかるんですよ。でも、それをものともせず、彼女はきっちりセカンドショットを打って、チャンスにつけました。

 ウイニングパットは、決してやさしくはありませんでした。2パットかな……、プレーオフかな……。彼女には申し訳ないけれど、私はプレーオフまでもつれる覚悟をしていました。ですから、彼女のパッティングの際は、グリーンの奥から、なんとなくボーッとした感じで眺めていたいんです。

 そして一瞬、強いかなと思ったボールは、勢いよくカップイン。その瞬間は「えっ、勝っちゃったの!?」――私は、グリーンを取り囲んでいたギャラリーと同じように「やったぁ!」と喜んでいました。それからしばらくして、彼女の偉業達成に、心と体が震えました。

 メジャーの優勝争いという緊迫した状況のなかで、彼女はひとりだけニコニコして、ギャラリーまで惹きつけて、優勝を引き寄せた。もし私が同じ立場だったら、あんなに笑っていられないし、のどがカラカラに乾くような状況で、あんなにしょっぱいお菓子を食べることなんてできません(笑)。

 プレーに感心するだけでなく、大勢のギャラリーから祝福されている彼女の姿を眺めていたら、同じ日本人として、とても誇らしかったです。

村口史子(むらぐち・ふみこ)
1966年8月30日生まれ。東京都出身。1990年春にプロテストに合格。翌年、ツアー本格参戦1年目でツアー2勝を飾って、注目を集める。以降、シード選手として活躍し、1999年には年間3勝を挙げて、賞金女王に輝いた。2004年、シード権を得ながら、同シーズンを最後にツアーから電撃引退。現在は、トーナメントの解説、レッスン番組への出演など、さまざまな分野で活躍している。