スーパーエース・西田有志 
がむしゃらバレーボールLIFE(2)第1回から読む>>

中学校時代の秘蔵フォト集>>

 現在のバレーボール男子代表で、大きな期待と注目を集めている20歳の西田有志。そのバレー人生を辿る連載の第2回は、部活動、クラブチーム、高校での練習に奔走した中学時代を振り返る。



***

 小学校時代、地元の三重県いなべ市にあるバレーボール少年団「大安ビートル」で活躍した西田は、2012年4月に立大安中学校に入学した。やはり地元のいなべ市にある中学校だったが、西田は「ちょっと遠い地区に強い中学校もあったんですけど、全国の強豪というわけではなかったですし、こだわりもなかったので」と話す。

西田有志は強豪8校からの勧誘に断り。両親も悩ます厳しい道を選...の画像はこちら >>

中学2年時に三重県選抜として全国大会に出場した西田

 中学でもバレーボール部に入ったものの、チームメイトには、先輩も含めて小学校時代からバレーを経験した者がいなかった。また、監督もバレー未経験者だったため、西田が指導者の役割も果たすようになっていった。

「(実質的に)指導者がいない状態だったので、僕が教えないといけなかったんですけど、自分ができないと説得力がないじゃないですか。だから、まずは自分がさまざまなことを習得して、それを周りに教える。
そういうことを中学1年の時からずっとやっていましたね」(西田)

 1年生からレギュラーで試合に出ていた西田は、夏前に三重県四日市市にある海星高校バレー部の練習に参加する機会があった。そこでのプレーが、当時バレー部監督の大西正展、部長の藤田勝成の目に留まった。

 のちに海星高校で西田を指導することになる大西は、西田の第一印象について「そんなに覚えてないんですよ(笑)。身長もそんなに大きくなかったですし」と頭をかく。しかし、自分が指導する高校生たちに引けを取らない西田の姿を見て、すぐに「うちの学校に進学してくれないかな」と思ったという。

 同年6月には、藤田の勧めで中学生クラブチーム「NFO オーシャンスター」に入団。

部活動と並行して、海星高校で行なわれるクラブの練習、さらに海星高校バレー部の練習にも定期的に参加するなど、3つの掛け持ち状態になった。ちなみに、NFO オーシャンスターの「NFO」 とは、三重県バレーボール協会の役員を務めていた中尾聡(現ヴィアティン三重バレーボールGM)、藤田、大西と、クラブの創設者であり指導者を務めた3人の頭文字を取ったもの。西田はその第一期生になった。

 バレー漬けの生活を送っていた西田は、2013年3月に三重県・北勢地区の選抜チーム(U-14)に選ばれる。さらに、2年生になった同年8月には三重県選抜に選出され、12月に開催されたJOCジュニアオリンピックカップ(JOC杯)で全国の選抜チームと対戦した。

 西田は「レベルが高くて、すごく勉強になった」と振り返ったが、ほかの選手よりもジャンプ力が高いことに気づいたという。


「練習方法を変えたわけではないんです。ただ、『とにかくブロックの上から打ちたい』という一心でジャンプしていたからかなと思います」

 小学生の時は自宅でジャンプの練習をしていたが、中学時代は練習の掛け持ちが能力を伸ばした。海星高校バレー部の練習は、ネットの高さが2m40cmで行なわれており、中学生男子のネットより10cmほど高かった。そこに参加していた西田は、最初はなかなかアタックがネットを超えず苦労したものの、めげずに打ち続けているうちにジャンプ力が上がっていき、試合では悠々とネットの上から打てるようになっていたのだ。

 西田は3年生でも三重県選抜としてJOC杯に出場。全日本中学選抜にも選ばれて合宿にも参加したが、腰を痛めていてほとんど練習ができず、「けっこう悔しい思い出です」と西田は苦笑する。

それでも、中学卒業が近づくにつれて近隣の強豪校からの勧誘が多くなっていた。

 具体的には、現日本男子バレーの絶対エース・石川祐希を輩出した星城高校(愛知県)や、三重県の全国常連校である松阪工業高校など8校。このうち星城高校には練習を見学するため足を運んだ。

 西田は、星城高校を史上初の高校6冠(インターハイ、国体、春高を2年連続制覇)に導いた石川の大ファンになり、部屋にはポスターを貼って、髪型もシューズもマネしていた。中学の部活動では2年生から主将を務め、指導にも奔走する息子の姿を見ていた母の美保さんも、できれば星城高校に入学し、より恵まれた環境で全国を目指してほしいと密かに思っていたという。

 しかし、西田が入学する時には石川は高校を卒業しているため一緒にはプレーできない。

石川がいた高校に進むことも魅力的だったが、「勝って当たり前のチームに入るのではなく、自分の力で強くして、強豪チームを倒したい」という気持ちのほうが大きくなっていった。

 そこで選択肢に上がったのが海星高校だった。海星高校はそれまで、春高バレーなど全国大会に出場した経験がなく、星城高校に比べると力は落ちる。両親は悩んだが、中学3年の秋に海星高校の大西、三重県バレーボール協会の役員である中尾が大安中学を訪れ、西田と両親も同席した面談を行なった。

 それを踏まえて両親とあらためて相談した末に、西田は海星高校への進学を決めた。小学生の頃から持っていた「自分の力で勝つ」という思いを貫いた西田は、勧誘を辞退する形になった名門・松阪工業高校を相手に、厳しい全国への道を歩むことになった。


(第3回につづく)