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第12回ロナウダン(後編)>>前編を読む

Jリーグ在籍中にW杯で優勝した唯一のブラジル代表が語る「日本...の画像はこちら >>
 サンパウロの守備の中心選手としてトヨタカップ(現在のクラブワールドカップ)を2年連続で制した後、日本でプレーすることを選択したロナウダン。そのポジションのせいもあって、日本の皆さんはもしかしたら彼のことをあまり覚えていないかもしれない。

 しかし、ロナウダンはJリーグでプレーするブラジル人選手として、それまで誰も成し遂げなかったことをしている。1994年、彼は当時のカルロス・アルベルト・パレイラ代表監督から、W杯を戦う一員としてセレソンに招集されたのだ。

 1994年のアメリカ大会、ブラジルはすでに24年間、世界タイトルから遠ざかっており、代表チームは大きな重圧を背負っていた。セレソンは優勝しなければいけなかった。それには強固なDFが必要だった。そこで彼が選んだのがテレ・サンターナ同様、ロナウダンだった。

 この時のメンバーはそうそうたる顔ぶれだった。ロマーリオ、ベベット、ドゥンガ、ライー、カフー、クラウディオ・タファレル、ジョルジーニョ、ブランコ、アウダイール......。そのすべてがヨーロッパかブラジルのクラブチームでプレーしていた選手だった。しかし、ロナウダンだけはこの時、ブラジルでもヨーロッパでもないチームでプレーしていた。清水エスパルスだ。この時のブラジルが世界を征したのは、皆さんもよくご存じだろう。

いまだにヨーロッパと南米以外のチームに所属してW杯で優勝した選手はいない。

 彼自身もこう言っている。

「W杯で日本のクラブの選手を代表して戦い優勝できたことに、私は誇りを感じている」

 日本サッカーはまだ世界レベルに達していないと思われていた1994年の話である。

「もちろん、自分のためにも嬉しかったが、同時に日本サッカーのためにも嬉しい勝利だった。日本のチームでプレーしている選手も、セレソンでプレーでき、W杯でも優勝できる。つまり、Jリーグは本物で、強くて、リスペクトされるべきリーグであることを証明してみせることができたんだ」

 そしてそれはもちろんエスパルスのためにもなった。

エスパルスのオレンジのユニホームが、東京ヴェルディの緑、鹿島アントラーズの赤のユニホームとともにブラジルで有名となったのは、ロナウダンのおかげである。

「清水エスパルスの名前が一気に有名になった。私にとっては二重の勝利だった」

 彼は日本にいた時のエピソードも披露してくれた。中でも忘れられないのは初めて地震にあった時らしい。

「地震というものがあるのは知っていたが、実際に遭遇するまで、いったいどんなものなのか想像もつかなかった。忘れもしない、チームで遠征に行っていた時のことた。

札幌のホテルの5階の部屋でひとりでテレビを見ていると、突然テレビが揺れ出し、部屋の物がいくつか落ちた。地震の時の対処法は教わっていたが、実際に遭遇してみるとパニックだった。私は部屋を飛び出し非常階段を使って外に出ると、建物に押しつぶされないよう遠くに逃げた。しかしそこは冬の北海道であることを私は忘れていた。私は裸足で薄いシャツを一枚着ていただけだった。

「ロナウド! ロナウド! 部屋に戻れ! 凍え死ぬぞ!」

 チームメイトたちがホテルの部屋の窓から口々に私に叫んだが、私は中に戻る勇気がなかった。

凍え死ぬか、地震で死ぬか、私は究極の選択を迫られた気分だった。しばらくしてやっと落ち着き、部屋に戻ったが、その晩はほとんど眠れなかった」

◆「カズ、ジーコ...鹿島初のブラジル人監督が語る」>>

 清水エスパルスでは46試合に出場し、DFながら3ゴールを決めている。彼の人となりには言うことがなく、ピッチの中でも外でも偉大だった。日本にいたのは2年にすぎなかったが、その期間に多くのものをチームに残したと私は思う。

 W杯後、世界タイトルを獲得した選手には多くのオファーが舞い込んだ。特にフラメンゴが強固に彼を望んだ。

彼はまたブラジルに戻った。

 フラメンゴでも優勝したのち、今度はサントスに移籍。ここでもまたタイトルを勝ち取り、彼はブラジルサッカー界のレジェンドのひとりとなった。DFの選手がそこまでたどり着くのは、ブラジルでは決して簡単なことではない。

 その後はコリチーバ、続いてポンチ・プレタに移籍した後、2002年に現役を引退した。しかしチームにはそのまま残り、チームマネージャーとなった。

 現在彼は55歳。今でもポンチ・プレタ(現在セリエB)のために働いているが、それだけではない。その他にもいろいろな事業を手がけている。現役中に購入した不動産もそのひとつだが、興味深いのは彼がゴム園やゴム工場を経営していることだ。

 自分のゴム園で取れたゴムからラテックスを製造し、世界のマーケットに供給している。こうしてまた彼は世界で活躍をしているのだ。

 私生活では30歳の時にアナ・クラウディア夫人と結婚、ロドリーゴ、ロナウド、ラファエルの3人の息子がいる。彼の名前を継いだ次男のロナウドは、これまた父親の後を継いでサッカー選手となった。サンパウロやスペインのバレンシアのユースチームでプレーした経験を持つ。ただひとつ違うのは彼が選んだポジションがFWということだ。ロナウダンの息子なので、登録名はロナウダンジーニョ。(「○○ーニョ」は「小さな○○」という意味)。ロナウドが多いから仕方ないのだが、舌を噛みそうだ。

 しかし、彼は3年前から選手活動を中断し大学に通っている。実は父のロナウダンも、ブラジルでは数少ない、本当に数少ない大学出の選手なのだ。

 ロナウダンは今でも日本のサッカーを気にかけ、テレビで放送される時には必ずと言っていいほど試合を見ている。

「私がいた頃からは信じられない話だが、今の日本は世界のトップ15に入る強さを持っていると思う。女子はまぎれもなくトップ5に入るだろう。何よりの証拠が、世界中のリーグで日本人がプレーしていることだ。ヨーロッパの主要リーグでも日本人が主役になっている。若いいい選手もどんどん生まれてきている。スペインのクボ(久保建英)は世界で最も有望な若手のひとりだろう。

 また、ブラジルのセリエAにも日本人が中心にもなっているチームがある。ホンダ(本田圭佑)だ。今のブラジルリーグで最も注目されている外国人選手のひとりだろう」

 それにしても日本はどうしてこれほどの躍進を遂げられたのか? 彼はよく組織されたJリーグの功績が大きいとする。

「日本人の頭のよさと誠実さ、そして我々日本でプレーした選手たちの力も多少なりともあると思う。世界の一流に触れることで、日本のサッカーは大きく成長した。

 日本の選手はフィジカルもテクニックも成長した。メンタルも強くなった。世界のどこに行っても通用するようになったと思う。そしてなにより女子サッカーの発展には目を見張る。女子に関しては、今では我々が日本から学ぶところも多いだろう。ヨーロッパだけでなく、南米と日本のサッカーも、もっと近づくことができればうれしい」

 彼が一番恋しいのは、日本での日常だと言う。

「何はともあれ、世界で一番きちんとした国で暮らした経験は忘れ難い。日本では規律は生活の一部だ。ブラジルとはまるで違う。すべてがスムーズに進む日本の快適さを知ってしまうと、それが恋しくてたまらないね。公共サービスの質の高さ。すべてがきちんと整備されている。日本人にとっては当たり前すぎて気がつかないかもしれないけど、これほどうまく機能している国は世界でも少ないと思う。

 小さな国に多くの人が住んでいるのに、すべてがスムーズに進んでいる。選手が電車で移動をするなんて、ブラジルでは考えられないよ。お互いにリスペクトしあうことも日本で学んだ。ブラジルも日本みたいになってくれたらいいといつも思うけれど、まだまだ我々は日本のレベルには程遠い」

 ロナウダンは帰国後も、チームやそこで友人となった人々とつながっている。彼のブラジルの自宅に、何度かエスパルスのサポーターが遊びに来たこともあったと言う。そして機会があればまた日本でサッカーの仕事に携わりたいと思っている。

「また日本で仕事ができる機会があったら最高だ。もう選手はできないから、やるならチーム幹部かな。日本のチームのゼネラルマネージャーができたら嬉しいね。日本には働きたいすべてがそろっているし、何より私は日本を愛しているんだ」

ロナウダン
本名ロナウド・ロドリゲス・デ・ジェズス。1965年6月19日生まれ。地元チームのリオ・プレトから1986年、サンパウロに移籍。トヨタカップ(現在のクラブワールドカップ)連覇をはじめさまざまなタイトルを獲得した後、1994年から2シーズン、清水エスパルスで活躍。帰国後は2002年までフラメンゴ、サントスなどでプレーした。1994年アメリカW杯のブラジル代表に選ばれている。