野球人生を変えた名将の言動(3)
山本昌が語る星野仙一 前編

(2人目:広岡達朗から「練習に参加しなくていい」と言われた石毛宏典>>)

 指導者との出会いが、アスリートの競技人生を大きく変える。歴代最長となるプロ生活32年、実働29年をマークし、歴代最年長の42歳で通算200勝を達成した元中日の山本昌は、星野仙一、アメリカでのアイク生原との出会いが野球人生の転機となった。



 沢村賞や3度の最多勝、歴代最年長のノーヒットノーランなど輝かしい幾多の記録を残し、今年1月14日には野球殿堂入りも果たした山本に、2人とのエピソードや上司としての魅力を聞いた。

星野仙一からの通達に「なぜ自分が……」。山本昌が語る転機と新...の画像はこちら >>

1988年9月、プロ初完封で勝利した山本昌(右)を祝福する星野監督

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――最初に星野さんを知ったきっかけは?

山本昌(以下:山本) 自分が小・中・高の頃から父親が中日ファンだったので、星野さんの名前は昔からよく聞いていました。僕が中日に入団して、3年経った頃に星野さんが中日に監督として戻ってくることが決まったんです。チームの先輩たちからは「大変な人が帰ってくるから、お前らしっかりしろよ」と言われ、監督就任会見で星野さんが「覚悟しとけよ」と発言されていたのを見ていましたが、「実際はどんな人なんだろう」と思っていました。

――星野さんに初めてかけられた言葉は覚えていますか?

山本 1軍での実績が全然ないなか、就任してすぐの1軍秋季キャンプ(浜松)に呼んでいただき、その時に少しだけ話したことを覚えています。話したといっても、僕は若かったですし、「はい」か「いいえ」としか言えませんでしたけどね。


 その時はブルペンで、確か「おい34番、全力で投げてみろ」と言われたんですが、その前から僕は全力で投げていたんです(笑)。だから「これで全力です」と答えたら、星野さんはがっかりしていました。

――星野さんの監督就任2年目に、中日はロサンゼルス・ドジャースと同じ米・フロリダ州ベロビーチで春季キャンプを行なっていました。キャンプ終了後にチームメートたちが帰国する一方で、山本さんを含む複数の若手選手がアメリカに残されたそうですね。

山本 プロ入り5年目の時ですね。開幕1軍を狙っていて、「今年ダメならクビだろう。
ラストチャンスだ」と思って春から頑張っていたのでショックでした。キャンプ中の試合でKOされ、その日の晩に「11月までアメリカにいろ」と告げられたんですが、「なぜ自分が......」という思いでした。

 今でこそアメリカ野球との関係は深くなっていますが、当時はほとんど交流がなく、助っ人の外国人選手が日本に来るぐらい。僕は英語が話せないし、5年目で最後かもしれないというタイミングでしたから、かなり落胆したのを覚えています。

【アイク生原に教えられたもの】

――ドジャースのキャンプを経験できる、といったモチベーションの高まりもなかったんですね。

山本 普段はあんまり下がらないほうなんですけど、その時ばかりはモチベーションはまったく上がらなかったです。キャンプ地からみんなが日本に帰り、その翌日から本格的にマイナーリーグのキャンプに参加しましたが、アメリカのキャンプは全体練習が午前中で終わってしまうんです。

なので、最初の頃は部屋に帰って"ふて寝"していました。

――当時、日本の各チームの2軍は年間80試合程度でしたが、アメリカは試合数がその2倍ぐらいあったと思います。登板機会も増えますし、経験を積む上ではよかった部分もありましたか?

山本 4月~8月で150試合を行なうリーグに派遣されたんですが、それがよかったですね。チームの人数は25人で、ピッチャーも11人しかおらず、「勝ち試合で投げさせちゃダメだろ......」という選手もいました。ただ、それでも人が足りないんで投げるしかないんです。

 僕は150イニング以上投げましたね。
当時の中日の2軍にはピッチャーが20人弱いて、試合では1軍昇格に近いピッチャーが優先で投げていました。なので、僕が日本で4年かけて投げたイニングの倍ぐらいを、アメリカでの1年で投げたんじゃないかと思います。

 ナイターに慣れさせてもらえたこともよかったですね。日本の2軍はいつもデーゲームなので、ナイターがほとんど経験できません。4試合だけナイターで投げたんですが、キャッチャーのサインは見にくいし、小さく見えるし......。それが、アメリカで慣れてからはハッキリ見えるようになりました。


――山本さんの代名詞である「スクリューボール」も、その時に覚えたと聞きます。

山本 アイク生原(昭宏)さん(当時、ドジャースのオーナー補佐兼国際担当)との出会いがきっかけです。「新しいボールを覚えなさい」と、いろいろなピッチャーのところに連れていってくれました。当時ドジャースにいた(フェルナンド・)バレンズエラにスクリューボールの投げ方を聞き、(ドン・)ドライスデールという野球殿堂入りのピッチャーにはカーブのことを聞きました。

 結局1カ月半くらいさまざまなボールを試して、その過程でスクリューボールをマスターしたのですが、感触がよかったんです。投げたらすぐに変化して、コントロールもうまくできたのですぐに試合で使いました。

スクリューボールを覚えたあとは、敗戦処理だった僕が先発ローテーションにも入れましたし、そこが転機になりましたね。

 それだけじゃなく、アイクさんには野球をする上での基本を、メジャーの名選手たちを引き合いに出しながら教えていただきました。5年目というタイミングで、そのチャンスをくれた星野さんに感謝ですね。

【アメリカ留学させる若手の基準】

――選手を長期間預けるくらい、星野さんとアイク生原さんの間には信頼関係があった?

山本 もともと、ドジャースと交流があったのは巨人だったんです。川上(哲治)さんが監督をされている時に、フロリダのベロビーチでキャンプを張ったりしていましたし。いわば、"巨人の聖域"に中日が入っていったことになるんですが、そこが星野さんの"政治力"です。

 ドジャースのピーター・オマリー会長に最初に会った時に、(キャンプへの参加を)頼むことができたというところもすごい。当時の星野さんは40歳ぐらいでしたが、その歳でそんなことができる人はなかなかいません。そんな星野さんに「面倒を見てほしい」と頼まれて、アイクさんはプロ野球選手を託された。先ほども言ったように、僕はふて腐れていた時期もありましたが、そんなことはお構いなしにいろんなことを教えてくれました。

星野仙一からの通達に「なぜ自分が……」。山本昌が語る転機と新ボール取得秘話

山本昌を育てたアイク生原

――ちなみに、山﨑武司さんも中日に入団して1年目、アイク生原さんの指導を受けられているそうですが、若手の育成をアイク生原さんに託すという流れがあったのですか?

山本 僕は、「若手の育成」という受け取り方ではなく、「1軍の戦力にならない選手を送っている」と見ていました。今思えば、期待してない選手は送らなかったでしょうけどね。「1軍では無理だけど、伸びないかな~」という選手を託していたんでしょう。

 山﨑に関してはルーキーだったので、「ちょっと厳しいところへ行ってこい」という意味だったと思うんですけど、5年目だった自分の場合は「何かが変わらないかな?」と思われていた気がします。ダメならすぐにクビだったと思いますから、本当にギリギリでした。

――星野さんの若手への期待は、思いきった起用にも表われているように感じます。高卒1年目の立浪和義(現中日監督)さんを遊撃のレギュラーで起用したり、同じく高卒1年目の投手・近藤真市さんを先発起用したことも印象的です。しかも、近藤投手はプロ野球史上初となる、初登板でのノーヒットノーランという偉業も達成しました。

山本 真市は初登板の前の日まで、僕と一緒に2軍の試合でスコアラーをしていたんです。試合が終わったら彼が呼ばれて、「明日から一軍に行け」と。そうしたらいきなり先発して、しかもノーヒットノーラン。「昨日まで一緒にスコアをつけていたのに......」と思いましたし、歳が近くて同じ左ピッチャーということもあって心中穏やかではありませんでした。僕は肘を壊していて投げられなかったし、「ああ、これで終わったな」というのが正直な気持ちでしたね。

 真市を先発させたのは考えてやったことなのか、偶然なのかわかりません。ただ、立浪の件にしてもそうですが、見る目があったんでしょうね。「立浪ならいける」「真市ならいける」と。立浪は新人王を獲りましたけど、高卒のルーキーが新人王なんてそうそうありません。そういう"勝負強さ"を持っていた監督でした。コーチとの信頼関係もあったと思います。

 僕はアメリカ留学という形でチームから離れていたので、コーチの代わりにアイクさんが僕の状況を随時報告してくれていました。僕が最多勝争いをしている、防御率がトップだ、日本に帰ったら中継ぎぐらいから使えるかもよ、といった話を、星野さんは「うそつけ!」なんて言いながら聞いていたみたいです(笑)。でも、あとで聞いた話ですが、僕が帰国して1軍でピッチング練習をしているのを星野さんが見た時に「なんでこんなに変わるんだ」と驚いていたらしいです。

――山本さんは32年間をプロで過ごしましたが、アメリカ留学が野球人生のターニングポイントと言っていいでしょうか?

山本 間違いないです。逆に、ここしかない。それまでも練習はしっかりやるほうでしたが、やり方がわからなかったですからね。アメリカでスクリューボールを覚えて勝てるようになってから、自分でピッチングを研究するようにもなりました。

 若い頃、牛島(和彦)さんにピッチングの指導をしていただいていたんですが、その時は理解することができなくて。だけど、勝ち始めてから「そういうことだったのか」とわかるようになりました。「理解力」というのは、実践で投げていかないと向上しないことを実感しましたね。今日の僕があるのも、すべてアメリカ留学を経験できたおかげです。あらためて、星野さんには感謝してもしきれません。

(後編:「9」厳しい星野仙一が見せる「1」の優しさ>>)