野球人生を変えた名将の言動(5)
松永浩美が語る上田利治 前編

(連載4:大洋の監督になった古葉竹識に、高木豊が「残念」と感じた理由>>)

 指導者との出会いが、アスリートの競技人生を大きく変える。かつて"史上最高のスイッチヒッター"と称され、長らく阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)の主力として活躍した松永浩美氏は、日本シリーズ3連覇を果たすなど阪急の黄金時代を築いた上田利治監督との出会いが、自身の野球人生に大きな影響を与えたという。

 現在は子供たちへの野球指導やYouTubeなど活躍の場を広げる松永氏に、上田監督との出会いや、プロ入り直後のコンバートやスイッチヒッターへの転向について聞いた。


阪急の練習生だった松永浩美が、キャンプで場外弾を17連発。上...の画像はこちら >>

阪急に練習生として入団した後、球界を代表するスイッチヒッターとして活躍した松永氏

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――上田監督と初めて会った時の第一印象はいかがでしたか?

松永浩美(以下:松永) 私は幼い頃にサッカーをやっていて、中学1年生の途中から軟式野球を始めましたが、野球の試合はほとんど見たことがありませんでした。プロ野球選手への憧れもなかったですね。高校2年生の時に阪急が日本シリーズを戦っているのをテレビで見て、初めて阪急というチームを知ったくらいです。

 私は2年時に高校を中退し、ドラフト外で阪急に入団しましたが、上田さんと初めてお会いした時も「テレビで見た人だ」くらいの印象でした。入団してから、コーチを通じてけっこう声をかけてくれるようになったので、「こんな自分にも声をかけてくれる人なんだ」と感じました。


――どんな会話をされていましたか?

松永 上田さんは野球の話はほとんどしませんでした。新人の頃だけでなく、ずっとそうでしたね。プライベートのことをよく話してきて、「(プロ入りを機に引っ越してきた)大阪には慣れたか?」「どっかに遊びに行ったか?」といった感じでした。

――積極的に選手とコミュニケーションをとる監督だったんですね。

松永 そうですね。私は監督として選手と接する際に大事なのは、技術指導などを通してではなく、練習以外の時も含めていかにコミュニケーションをとるかだと思っていますが、上田さんは気さくに声をかけてくれる方でした。

私も今は小・中学生に野球を教える立場になっていますが、選手たちの視点からも、年上の指導者とコミュニケーションをうまくとれるかどうかは成長のための大事な要素だと思います。

 上田さんからは、技術的なことよりも、人間的な部分に関して教わったことのほうが多いかもしれません。エラーした時には、「もう仕方がないんだから、くよくよするな。悩んでる時間がもったいないから次に進め」と声をかけられたり、「失敗をしても反省はしなくていい。すぐに改善するように心がけろ」と言われたりもしました。

――試合中にもよく声をかけられた?

松永 試合の時に関しては、私は"怒られ役"でした(笑)。
例えば、ベテランの選手がミスをしても、上田さんはその選手には怒らない。私は上田さんの前に座っていたのですが、必ず私の座っているイスを蹴りながら「声を出さんか!元気ないぞ!」と喝を入れられました。

 そうして2年くらい経ったあとに、上田さんに怒る理由を聞いたことがあったんです。そうしたら、「何人かの選手を怒って試してみたけど、お前が一番怒られ役に適していた」と(笑)。他の選手は怒られるとシュンとするらしいんですが、私の場合は怒られたことを力に変えて結果を出していたので、「怒ったほうがマツは伸びるし、チームにも喝が入るし、一石二鳥だ」と言っていました。私もどんなときに怒られるか、だいたいわかっていたので、そういう場面になると「これは怒られるかな」とニヤニヤしていたことを思い出します。


――主にサードを守っていた松永さんも、打ち込まれているピッチャーのところに行って声をかけるシーンが多かったように思います。それは上田監督の影響もあったんですか?

松永 そうですね。監督はマウンドになかなか行けないので、キャッチャーが監督の代わりにならなきゃいけませんが、内野を守っている私もその役割をしようと思っていました。「たぶん、監督はこんなふうに考えてるだろうな」と考えて、「どうしたの?」「何を焦ってんだ?もうちょっとじっくりやればいいじゃないか」といったように声をかけていました。

 上田さんは、どしっと構えているように見えて「いらち(関西で使われる方言。せっかち、イライラするなどの意)」なところもありますから(笑)。

それを感じた時に、私がマウンドに行って代弁するという感じでした。

――他に印象に残っていることはありますか?

松永 すごいと思ったのは、ホームの西宮球場で試合をする時に、絶対にベンチに座らずに立っていたことです。逆にビジターでの試合の時は座るんですよ。その理由を聞いたことがあるんですが、本拠地での試合は相手チームを"迎えている"ので、自分が座るのは失礼だと。相手への敬意の表れだったんです。

――選手に対してはいかがでしたか? 松永さんは"マツ"と呼ばれていたようですが、最初からそういった距離感だったんでしょうか。



松永 最初の2年ぐらいは「アンタ」と呼ばれていましたよ(笑)。名前を知っているはずなのに、なんでアンタって呼ぶのか不思議だったんですが、ある先輩から「上田監督が名前で呼ぶ時は、ある程度認められた時だから。上田監督はそういう人だよ」と聞いて。「ああ、まだまだ自分は"ひよっこ"なんだな」と思いましたね。

――上田監督は熱血漢というイメージがある一方で、頭脳明晰な方でもありました。学生時代は成績がとても優秀で、弁護士を目指していた時期もあったようですね。

松永 そうですね。選手の技量や年齢によって意図的に会話を変えている感じはありました。私が一軍でデビューした頃の若い時は、怒るのではなく「失敗を恐れずに、お前らしくやれよ!」と、背中を押してくれるような声をかけてくれましたから。

 あと、上田さんは二軍の試合も必ず見に来るんです。一軍の監督が見に来る時は、当然ですがみんな張り切っていましたよ。私はプロ入り3年目の20歳の時に初めて一軍に呼ばれましたが、同時に同じ歳の石嶺和彦、関口朋幸も昇格したことを覚えています。

――松永さんは、練習生として入団した1年目のキャンプの時に、上田監督の方針で内野手に転向されたとのことですね。

松永 それまではピッチャーと外野手でした。私は練習生として入団したので、1年目のキャンプでは30分間バッティングピッチャーをやって、そこから自分のバッティング練習というのが基本的な流れでした。

 転向の話は、単純に内野手の若手が少なかったからだと思います。阪急は私が入団する数年前に、パ・リーグで初めて4連覇(1975年~1978年)をしましたが、その時はすでに内野手の平均年齢がちょっと高くなっていた。それで、「若手で誰かイキのいいやつはいないのか」という話になり、私に白羽の矢が立ったんです。

 上田さんから「内野手をやれ」って言われたらやるしかないですし、頑張れば使ってもらえる確率もチャンスも増えるだろうと思って気合いが入りました。コンバートされることに対して抵抗は全然ありませんでしたね。私は入団時から「5年経っても一軍に上がれなかったら野球をやめよう」と決めていたので、いろいろなことを受け入れやすかったのだと思います。

――松永さんが練習生だった時、キャンプ中の打撃練習で場外に打球を何本も飛ばしていた様子を上田監督が見ていたと聞きます。どんな反応でしたか?

松永 高知市営球場でのことでしたかね。その時はまだ右だけで打っていたんですが、レフトの場外に17本連続で打ったんですよ。上田さんはマイクを持ってそれを見ていたのですが、私の打球が場外に飛んでいくたびに「おい!また、いったぞ!」と驚いていたことを覚えています。その様子が新聞などで取り上げられて、「阪急に(上田監督の)孝行息子が現る」みたいに書かれました。

――その後、入団3年目でスイッチヒッターに転向しますが、そのきっかけは?

松永 当時、広島で打撃コーチをされていた山本一義さんの進言です。ある時期から左打ちの練習もするようになったんですが、山本さんがそれを評価してくれたようで、当時の阪急の二軍の打撃コーチだった住友平さんに「松永がスイッチやったら面白いんじゃない?」と勧めたんです。

――転向することに迷いはなかったんですか?

松永 当時、日本のスイッチヒッターといえば、左打席ならちょこんと当てて三遊間に転がして......というのが定番でしたが、住友さんからは「そういうスイッチヒッターはいらない」とハッパをかけられました。上田さんにも「左でも右でも大きいのが打てるスイッチヒッターを目指せ」と言われ、必死で取り組むようになったんです。

(後編:阪急の黄金時代を築いた上田利治。長時間抗議など負けん気は強いが、選手やコーチに対しては「忍耐」の監督だった>>)