昭和の名選手が語る、
"闘将"江藤慎一(第9回)
前回を読む>>水原茂監督に土下座も許されず。仲裁に向かった張本勲には「お前、入るな」

1960年代から70年代にかけて、野球界をにぎわせた江藤慎一という野球選手がいた(2008年没)。

ファイトあふれるプレーで"闘将"と呼ばれ、日本プロ野球史上初のセ・パ両リーグで首位打者を獲得。ベストナインに6回選出されるなど、ONにも劣らない実力がありながら、その野球人生は波乱に満ちたものだった。一体、江藤慎一とは何者だったのか──。ジャーナリストであり、ノンフィクションライターでもある木村元彦が、数々の名選手、関係者の証言をもとに、不世出のプロ野球選手、江藤慎一の人生に迫る。

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江藤慎一の打撃技術に「ミスター・ロッテ」有藤通世は驚き。「ど...の画像はこちら >>

ロッテのユニフォームに身を包んだ江藤慎一

 野球を辞める覚悟でトレードを拒み、任意引退を選んだ江藤であったが、これを惜しんだ世論と、野球界がそのままにはしておかなかった。1970年1月10日には「江藤を復帰させよ」というデモが名古屋市内で起こった。

 鈴木竜二セ・リーグ会長も再起するよう江藤の説得にあたった。鈴木は説いた。「お前は誰のおかげでここまでになったんだ。ファンのおかげじゃないか、恩返しはまだだろう。もう少し、リーグのことも考えろ、プロ野球のことを考えろ」

 最後の言葉は重い。当時、球界は一部の選手関係者が、反社組織より金銭を授受して敗退行為をするという八百長=「黒い霧事件」を行なっていたことが表面化して、日本社会全体に大きな騒動が巻き起こっていた。

 発端は1969年10月8日の報知新聞のスクープであった。同紙は西鉄の永易將之投手が暴力団関係者に依頼されて敗戦につながるピッチングをしていたことを報じたのである。永易は当初、否定をしていたが、やがて自身の関与を認め、他にも八百長をしていたという選手の実名を公表し、さらには所属の西鉄球団から口止め料として550万円を受け取っていたことを記者会見で発表した。

 1970年3月17日には、超党派によるスポーツ振興国会議員懇談会が衆議院第一議員会館で開かれて、国会とジャーナリズムが厳しく真相を究明し始めた。中日にも余波は広がり、兵庫県警が関係したとして発表した疑惑の試合は、1968年8月11日対サンケイ戦7対8、9月22日対巨人戦2対5、10月6日対巨人戦8対9、1969年4月22日対サンケイ戦4対1、6月14日対巨人戦3対7、6月24日対広島戦8対5、7月26日対大洋戦0対2、8月24日対サンケイ戦3対7、8月26日対大洋戦1対2、9月30日対巨人戦3対5と2年にまたがって10試合に及んだ。

 中日の主戦投手であった小川健太郎も逮捕された。

容疑は野球ではなく、オートレースに関する小型自動車競争法違反(贈賄)であった。5月6日、小川は東京の警視庁に出頭を命じられた。

 マネージャーの足木敏郎は、小川をマスコミや野次馬の晒し者にしないため、名古屋の小川宅から、桜田門まで、新幹線ではなく、自家用車で送り届けている。早朝5時半からの東名高速のドライブは終始無言。その気まずさから足木がラジオをつければ、「本日、小川健太郎投手が逮捕されます」というニュースが流れて、慌ててスイッチを切った。警視庁地下駐車場で刑事のあとをついていく小川を足木は見送った。

前年に20勝をしたサブマリン投手は永久失格処分選手となった。

 このような激震のなか、球界としてもONを差し置いてセ・リーグの4番に座れる江藤を失うことは大きな損失だった。

 江藤自身もまだ32歳。野球への欲求は断ちがたく、キャンプインの2月1日になると、自然に身体がうずいた。そんな心中を察するかのようにヤクルトの松園尚巳オーナーが入団要請をしてきた。金銭でのトレードであったためにこれは成就しなかったが、ここに至って江藤も復帰を決意した。

 中日球団も移籍先を探し始めた。江藤は、コンディションを戻すために二軍練習場に行き、本多逸郎監督にトレーニングをさせてほしいと願い出た。犬山高校出身で、「犬山パラダイス」から愛称をパラさんと言った本多はハンサムな容姿と面倒見のよいことで知られている。江藤の申し出を快く引き受けてくれた。

 ところが、いざトレーニングに出向くと、このパラさんが、端正なマスクを曇らせて言った。「慎一、すまんが、もうお前にはグラウンドを使わせるなと言われたんだ」

 通達したのは一軍監督だった。

水原茂は「私は感情でトレードはしない。感情でチームを乱すようでは監督失格だ」(昭和44年12月4日中日新聞)と記者には語っていた。しかし、こんな事実を見れば、やはり放出ありきであったのか、と考えるのが、自然であろう。水原は理論派に見えてその実、占いなどで先発オーダーを決めており、その影響でこの年、新人の谷沢健一は1番から9番まですべての打順を経験している。

 江藤はキャッチボールの相手さえいない、ティーを打つ環境さえない、孤独な練習に励むしかなかった。オープン戦が終わり、シーズンが開幕した。行き先を探す江藤の移籍先には、ロッテオリオンズが浮上してきた。ここには日鉄二瀬以来の師であり、恩人である濃人渉が、指揮官として就いていた。ロペス、アルトマンと左の強打者を揃えるロッテは右のスラッガーを欲しており、一方、小川健太郎を欠いた中日は投手を必要としていた。このトレードはロッテが3年目右腕の川畑和人を用意したことで成立した。

 6月3日、大手町パレスホテルでロッテは江藤の入団記者会見を開いた。背番号12のユニフォームに袖を通した席上、江藤は「入団は嬉しいが責任も感じている」と語っている。

 江藤獲得は何より、永田雅一オーナーが熱望していた。大映の創設者で「日本映画界の父」と呼ばれた永田は、超の字がつくワンマン経営者であった。大言壮語しながら、新規事業を次々に開拓するさまは永田ラッパと呼ばれた。日本ダービーを制したトキノミノルの馬主であり、ベネチア国際映画祭グランプリ作品「羅生門」のプロデューサーでもある永田は、プロ野球球団の経営にも並々ならぬ情熱を注ぎ、1962年には私財を投じて南千住にプロ球団のための東京スタジアム(東京球場)を造り上げていた。永田がオーナーの大毎(=大映と毎日新聞)オリオンズは1964年に東京オリオンズと名前を変え、さらに1969年1月からは、ロッテをメインスポンサーとすることで、ロッテオリオンズという名称になったが、実質的な経営は大映の永田が長期に渡って担っていた。

 この名物オーナーが、江藤が野球界から去ることを惜しんだのである。「あれだけの大打者を捨てておくのは球界の損失だ。うちとしてもできるだけのことはしてやりたい」と公言し、任意引退となった早い段階から、江藤に直接電話をかけ続けてきた。当初、江藤は感謝の言葉を返しつつも「中日の江藤で終わりたい」と涙声で固辞していたという。しかし、正式にトレード相手も決まったことで名物オーナーのチームに晴れて移籍となった。

 入団が決まると、江藤はパ・リーグの視察を兼ねて東映対西鉄の観戦に後楽園へ行った。その目の前で水原との仲裁の労をとってくれた張本が目の覚めるような11号2ランを左中間に叩き込んだ。この時の感激を江藤は著書にこう書いている。「『ハリの奴、俺の球界復帰を祝ってプレゼントしてくれたんだな』試合が終わったら、乾杯しましょうと言ったあのひとなつこい顔が三塁ベースを回って来る。『ようし、わしもやるぞ!』」(『闘将火と燃えて』鷹書房)

 有言実行の男は6月4日に荒川区南千住の東京球場に向かい、身体を動かした。10日間で5キロの減量を成し遂げ、6月18日には一軍に合流した。

 移籍先には、後に「ミスター・ロッテ」と呼ばれる2年目の大型三塁手がいた。有藤通世(ありとう・みちよ)である。近畿大学から入団した前年には、打率.285、本塁打21本で新人王を獲得している。

 有藤は、シーズン途中に移籍して来た江藤のことをこんなふうに見ていた。

「僕はアマチュア時代から江藤さんのことは知っていましたから、ああ、あの人がチームに来るんだ、という思いはありましたね。ただ、まだ自分は2年目で目の前のことで精いっぱいでしたし、入団して5年くらいは周りを見られなかったので、トレードがどういうかたちで行なわれたのかもよくわからなかったです。江藤さんとは実はロッカーが隣になったんです。僕は縦社会の人間ですから、びくびくしながら、挨拶したんですが、よく気さくに『アリがんばれ!』と声をかけてくれました」

 6月28日、江藤は移籍後の8打席目に近鉄の左腕・小野坂清からホームランを放った。すでに1970年のシーズンは開幕していたが、船に乗り遅れることはなかった。この年、ロッテが濃人監督の下で10年ぶりのリーグ優勝に向けてひた走るなか、途中加入ながら、チームに馴染むのも早く、特に阪神から、山内一弘との世紀のトレードで移籍していた投手、小山正明とは、馬が合って可愛がられた。

 有藤は、ともに練習を重ねるなかで、江藤のバッティング技術の高さに舌を巻いていた。

「よく(技術を)盗ませてもらいました。僕がプロに入った時には、ロッテには榎本(喜八)さんという大打者がいました。レベルを上げたくて教えを請いに行ったりしたんですが、知らんぷりでした(笑)。それはそうです。プロは個人事業主ですから」

 榎本喜八は高卒1年目でクリーンナップを打った不世出のスラッガーで、19歳の開幕デビュー戦第4打席で早くも敬遠をされたという伝説を持つ。当時も現在もプロが習得した技術は飯のタネであり、後輩に伝授することは、下手をすれば自分の地位を脅かされることになる。新人に教える選手は稀有であった。

 ただ江藤は違っていた。見るなら見ろ、盗むなら盗めという姿勢であった。有藤は、52年前の記憶を手繰り寄せ、自身の欠点を自覚した上で解説する。

「僕がバッティングに関して参考にするのは1点だけです。俗にいうステップをしてトップを作る。その形だけを見るんです。僕はバックスイングの時に右ひじが背中に入るくせがあったのでその修正を考えていました。江藤さんを見てみると、理想的なトップの作り方なんです。だからどんな球にもどんな投手にも対応できる。ゲームではスライダー系狙いの待ち方でセンター方向にはじき返す。江藤さんが合流されてからは、本当によく盗ませてもらいましたし、リーグ優勝が懸かってきたタイミングと合わさって一緒に野球をやるのが楽しかったですね。僕らからすれば江藤さんは決して、チームの和をみだすような人ではなかったです」

 ロッテは小山、木樽正明、成田文男の投手陣に重量級打線を擁し、マジックを着実に減らしていった。やがて、これに勝てば優勝という西鉄戦を10月7日にホームの東京球場で迎えた。胴上げを目前にして硬くなったのか、ロッテは6回の表を終えて0対3でリードを許す展開だった。

 江藤はこの日、スタメンから外れていたが、西鉄先発の三輪悟を味方打線が打ちあぐねているのを見ると、濃人に直訴した。「自分に切り込みをやらせてください」口火さえ切れば、あとはアルトマン、ロペス、有藤、山崎裕之、池辺巌ら猛者が続いてくれると読んでいた。江藤の気性を長いつき合いから知る濃人もまた同じことを考えていた。「代打江藤!」を告げた。

 期待されてバッターボックスに送り出された背番号12は、カウントワンストライク、ツーボールからの4球目を捉え、左中間スタンドに叩き込んだ。1対3、江藤が風穴を開けたあとは、ダムが決壊するのを待てばよかった。アルトマン以下が打ちまくり、この回は結局、打者10人を繰り出して5対3と逆転に成功した。勢いに乗ったロッテは1点返されるもそのまま試合をクローズさせ、優勝を決めた。

 歓喜した観客はグラウンドに次々となだれ込んで来た。千住は、水道橋・後楽園や青山・神宮に比べれば、圧倒的な下町だが、その分、情に厚い。ファンの集団は背広姿の永田雅一オーナーを見つけると、取り囲んで胴上げを始めた。

 有藤は懐かしそうにこう述懐した。「確かに江藤さんのホームランで活気づいた印象がありますね。優勝の瞬間は、ファンであっという間にフィールドが埋まってオーナーが胴上げされていましたけど、僕なんか、ペーペーで永田さんがどういう人かもわからなかったですから。あとから、東京球場は永田さんが私財を投じて建設されたことを知りました。ロッテはホーム球場が変わってその後、仙台、川崎と使いましたけど、僕にとっての我が家はこの東京球場です」

 永田の意向を汲んで、メジャーリーグのキャンドルスティックパークを倣って造られたという東京スタジアムは、スロープが導入された先進的なバリアフリー設計が取り入れられ、選手ロッカーもまた従来にない広い面積が確保されていたまさにボールパークだったが、累積赤字がかさみ、1972年に閉鎖された。

 当時のパ・リーグは不人気で球団が球場を持つなどということは、現実には不可能であった。1970年のロッテの優勝は、たった11年しか存続しなかった早すぎたボールパークのフィナーレを飾る栄誉とも言えた。

 この年、ロッテはアルトマン30本、池辺22本、有藤25本、ロペス21本、山崎25本とホームラン打者を5人も輩出したが、江藤もまた6月からの加入にも関わらず11本のアーチを放った。

 移籍に至るまでは、大きな葛藤もあったが、プロに入って初めてのリーグ優勝を経験することができた。自らを追いやった者を見返すためにコンディションもまた戻ってきた。

(つづく)