引退するつもりなどさらさらない。

「それやったらあの12月の寒い時期にトライアウトなんか行かないですよ。

このオフは向こうでプレーしていたんで行きませんでしたが......」

 そう語る村田透はこのオフ、ニュージーランドで過ごした。かつてプレーしたベネズエラではなく、それよりはるかにレベルが落ちるオーストラリアン・ベースボール・リーグ(ABL)がその舞台になったことは、彼の置かれた立場を示していた。

巨人ドラ1→メジャー→日本球界復帰→戦力外…流浪の野球人生を...の画像はこちら >>

このオフはニュージーランドのチームで過ごした村田透(写真/本人提供)

【日本球界復帰から5年で戦力外】

 長い下積みのあと、たった1試合に先発しただけだったが、2015年に投手としては39人目の日本人メジャーリーガーとしてインディアンス(現・ガーディアンズ)でデビューを飾った村田が、日本球界(日本ハム)に戻ったのは、その2年後の2017年のことだった。

 以後5シーズン、先発もリリーフも淡々とこなす使い勝手のいいピッチャーとして日本ハムに貢献してきた。しかし2018年の6勝をピークに成績は下降していき、2021年のシーズン後に自由契約が発表された。このオフは長年チームを支えてきた西川遥輝(現・楽天)らのベテランに再契約をにおわせた「ノーテンダーFA」が通告されたが、村田に対してはそれもなかった。

「まあ、この世界にいる限りは『毎年、今年でクビかな』と思いながら戦ってきましたから。

アメリカにいる時なんて、いつも『クビにするならいつでもしてくれ』って言いながら投げていました(笑)。だから、自由契約になってもなんとも思わなかったですね」

 戦力外通告は、比較的早い時期に受けたという。

「球団からは、選手として契約するつもりはないと告げられました。それで球団といろいろお話しさせていただき、まだ(現役を)続けたいという気持ちも納得していただきました」

 退団後、村田は12球団合同トライアウトに臨んだ。先頭打者を見逃し三振に打ちとったが、残る2人の打者には安打を許した。ストレートの最速は142キロで、村田に目をむけるチームはなかった。

 それでも村田に「引退」の文字が浮かんでくることはなかった。

「2020年シーズンくらいから、自分の体をもう一度変えようと、一からやり直したんです。2017年に日本に戻ってきて、数シーズンを過ごして、なんというか......だんだん悪い方向に進んでいるなという思いがあったんです」

 村田の言う「悪い方向」は、フォームや技術面のことではなかった。

「体のキレというか、フィジカル面でもう一度リセットして、若い頃の体に戻そうということです。老いが始まっているというわけではないんですけど、年々悪い方向にいっているという実感はあったんで、数年前からやり直したんです。そのなかで、自分としては2021年くらいからすごく調子がよくなってきました。

体ができあがったというか、整った感じですね」

 だが周囲は、30代後半に差しかかったベテランのリセット過程を"衰え"と感じた。村田が「整った」と思った2021年シーズンの一軍登板はわずか8試合。勝敗もセーブもホールドもつかなかったのは、つまり戦力とはみなされていなかったのである。

「起用法については仕方ないと思っています。実際、結果も出ていませんでしたし。でもパワーとかも含めて、体の柔軟性、キレはよくなったんです。

ただ、それを扱いきれなくて......。バランスが悪くなったんですね。自分のなかでもちゃんと投げることができていないのはわかっていました。ボールがいっていませんでしたから」

 自分のなかで「?」を抱えながら過ごしたシーズンのあと、先述したように日本ハムから自由契約を言い渡された。

【1年の浪人生活でつかんだ手応え】

 2022年シーズン、どの球場にも村田の姿はなかった。ひとりで黙々とトレーニングを続けていたという。「どこで?」「誰と?」という問いに、村田は答えようとしない。

スタジアム以外のことを話そうとしないのは相変わらずだった。

 ひたすら孤独なトレーニングを続ける"浪人生活"だったが、それでも37歳のベテランに大きな可能性を抱かせた。

「昨年は自分を見つめ直すことができた1年でした。プレーしながらだとわからないことがいろいろ見えてきましたから。技術は確実に上がっています。衰えはないです。

もちろん、20代の体ではないですけど」

 そんな折、次の移籍先を頼んでいたアメリカ時代からの代理人から連絡があった。彼が持ってきた話は、オーストラリアのウインターリーグでのプレーだった。ただし、行き先はニュージーランドだった。

「えっ、ニュージーランド?」

 オークランド・トゥアタラというチーム名を聞かされて、村田は初めてこの国に野球があることを知った。

「僕もベネズエラのウインターリーグでプレーしたことはあったので、ABLというリーグ自体は知っていましたが、ニュージーランドにチームがあることは知りませんでした」

 ニュージーランド最大の都市・オークランドを本拠とするトゥアタラは、2018年秋に創設された新しい球団である。コロナ禍で一昨年はシーズンをキャンセルしたが、昨シーズンABLに戻ってきた。そもそも競技人口が少ないこともあり、選手の多くはアメリカからのマイナーリーガーだった。

「日本人もいっぱいいました。僕以外にピッチャーが2人。ひとりは日系ブラジル人(仲尾次オスカル/元広島)で、もうひとりは社会人の投手でした。野手は独立リーガーの外野手と育成選手のキャッチャーがいましたね。それに日本人トレーナーもいたので、話し相手には困りませんでした」

 開幕10日前くらいに現地にわたり、キャンプというほどでもない全体練習を行なうとシーズンに突入した。村田自身、ウインターリーグの参加は6回目ということで、グラウンドで戸惑うことはなかったが、球場を出ると戸惑うことはあった。
 
「国自体が野球に慣れていないというか、空港で野球選手って言っても理解してもらえない(笑)。遠征の時もチームの服を着ているのに、『なんのチーム?』って。説明すると『あぁ野球ね』と言われることもあるんですが、『地元ちゃうんかい!』って思わず心のなかでツッコミましたよ。球場も客入りはよくなかったですし......とにかくいろいろ勉強になりました」

【声がかかればどこでも行く】

 試合は週末の4連戦。試合翌日にオフがあって、あとの2日はチーム練習、遠征にあてられる。

 村田の出番は、敵地・ブリスベン(オーストラリア)で行なわれた開幕カードの第4戦の先発だった。実戦から1年以上経ってのマウンドだったが、村田はすぐに手応えを感じた。

「『こんなにもできるんや!』って。1シーズン、プレーしていなかったんですけど、思った以上にできたのでびっくりしましたね。夏のトレーニング中もバッターには投げていませんでしたけど、ニュージーランドに行ってからの練習でいい球を投げられていたんです。スピードガンがなかったので、球速はわかりませんでしたが、球の強さは感じました。制球もよくなっていたし、こんなビタビタに決まったことなんてなかったので。まだ半信半疑でしたが、よくなったかなという手応えはありました」

 初回、先頭打者から5連続三振。6人目の打者・陽岱鋼(元日本ハムなど)も追い込んだが、三振は奪えず。それでも陽のバットをへし折るピッチャーフライに打ちとった。

 村田はオークランドでフルシーズンローテーションを守り、9試合に先発した。勝ち星こそ1勝に終わったが、「整った」自分を感じることはできた。

 村田は今、ひとり東京でトレーニングをしている。今シーズンのことはまだ何も決まっていない。世界中のどこからか声がかかったら行くつもりでいる。

「どこでも求められるところがあればやってみたいですね」

 アメリカのマイナー時代は頭になかった独立リーグも視野に入れている。

「そこでプレーする魅力があれば行きますよ」

 とはいえ、今年5月に38歳を迎える。どこからも声がかからなければ、"引退"も現実のものになってくる。それでも村田に焦りはない。

「無理やと思ったら、とっくに(野球を)辞めています。焦っても無駄というのはわかっていますし、声がかかったらいつでも行けるように準備しておくだけです。ひとりでトレーニングって言っても、実際はいろんな仲間が手伝ってくれましたから。その人たちのためにも恩返ししないといけないですね」

 村田が大学・社会人ドラフト1巡目で巨人に入団したのは2008年。あれから15年の月日が流れたが、野球への情熱はいまだ衰えていない。それどころか"心技体"ともに充実の一途をたどっている。はたして、村田は再びマウンドに上がることができるのか。今は静かにその時を待っている。