かつて鹿島アントラーズのFWとして活躍した田代有三さんをインタビュー。現役生活の最後をオーストラリアでプレーしたが、引退後そのまま現地でビジネスを立ち上げ、暮らしている。

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【シドニーでサッカースクールを経営】

 南半球の明るい日差しを浴びて、その男は現れた。端正な顔立ち。身長181cmの長身で、均整がとれた美しいスタイルは現役時代と変わらない。

 田代有三という名前を聞けば、強靭なフィジカルと空中戦の強さを生かしたアグレッシブなプレーを思い起こす人が多いのではないか。2005年に鹿島アントラーズでプロデビューして以来、12シーズンをJリーグでプレーし、日本代表にも選ばれた。

 田代さんがオーストラリアに渡ったのは2017年。それから2シーズンをナショナル・プレミアリーグ(オーストラリア2部相当)のウロンゴン・ウルブスFCでプレーした後に引退。

永住権を取得し、現在はシドニーで暮らしている。

「ウロンゴンで2年間プレーし引退を発表した時に、実は日本からいいお話をいただきました。『僕でいいんですか?』みたいな役職で声をかけてくださったところもありました。でも、『もし、ここで日本に帰ったら、オーストラリアでプレーした日々に何か意味が生まれるのだろうか?』と思ってしまった。

 それで、引退した後も引き続きチームに関わりたいと相談したら、アシスタントコーチ就任を依頼されました。英語を覚えるのにもいいし、人脈を作るのにもいいと思って、1年間は選手の指導に関わりました」

 現役時代の田代さんは、どんなボールにでも合わせることができる万能ストライカーに見えた。

しかし、大卒で加入した鹿島で厳しい現実に直面していたという。そして、その時の経験が今、セカンドビジネスに生きているという。

 大学生時代から人生を共に歩んできた妻の明日香さんは「彼の強みはコミュニケーション能力」と強調する。子どもが中学校に上がるタイミングでウロンゴン・ウルブスFCから離れシドニーに引っ越した。

「引退後に、僕がサッカーで経験してきたものをお返しできる場所を作りたいと思ってサッカースクール・MATE FCを始めました。日本人と日系人の生徒が7割くらいです。

オーストラリアは多民族社会。スクール生には韓国人もいるし、中国人もいる。オーストラリア人もサッカーを一緒に楽しんでいます」

【オーストラリアの永住権を取得】

 オーストラリアの2023年冬(南半球)はFIFA女子ワールドカップでサッカーブームに沸いた。ただ、以前から、プレーするスポーツとしてサッカーの人気はあった。街ごとに地域コミュニティとなっているフットボールクラブが存在する。

元鹿島FW田代有三はオーストラリアで引退後になぜ現地で起業? 日豪「いいとこどり」とは
田代さんはシドニーでサッカースクールを経営している(写真/田代さん提供)
 田代さんがサッカースクールを立ち上げたのは2020年。対象年齢はU-5からU-13まで。
将来は大人の年代のチームにまで拡大し、クラブチームに育てることを目指している。

 三浦知良本田圭佑小野伸二、太田宏介......元Jリーガーがオーストラリアに渡るケースは少なくない。しかし、田代さんの場合は、そのスタンスが一味違う。オーストラリアで引退し、帰国せずにそのままオーストラリアでサッカースクール事業を立ち上げたのだ。

「プレーしている時にチームから勧められ、永住権を取ることができました。僕自身は、これまで、けっこう普通のサッカー人生をおくり大きなチャレンジをしてこなかったんですよ。

このまま引退して帰国してしまったら、なんか面白くないと思っていました」

 35歳になって初挑戦した海外で、これまでに経験してこなかった価値観に触れた。

 例えば、オーストラリアでは、会話のなかで相手を褒めることが多い。そして、「Sorry」と謝罪されることはあまりない。でも「Thank you」と言われ感謝されることはかなり多い。

「家の契約書を送付してもらっておらず、まだサインしていないのに、実は契約が更新されていた」みたいな、日本では起きるはずのないようなことも起きるが、自分を迎えてくれたオーストラリアでの日々を重ねるうちに、「細かいことを気にしても仕方ない」と思うようになった。「この社会のいろいろなところを見て、もっと刺激を受けたい」と考えるようになった。

そして「日本の当たり前」を当たり前と思わなくなった。だから新たなチャレンジに踏みきれた。

「以前は『変わっている』は褒め言葉ではないと思っていました。でも、今は『変わっている』と言われたいです。新しい道を拓いて面白い存在になる。自分の価値を高めたいと考えています」

 ほかのJリーガーと違うオンリーワンの道を選ぶことができた理由は、家族の協力と現地カルチャーへのアジャスト(適合)が大きい。

「例えば日本で人とすれ違う時に目があったら、ちょっと目をそらすことが大半だと思います。でも、こちらは目があったら挨拶してくる。オープンマインドなカルチャーです。すごく暮らしやすいし、人も温かい。お互いに『ありがとう』の気持ちを持って良いところを評価し、自分に取り入れ合う社会です」

 移籍当初は英語が苦手だった田代さんだが、試合に臨む姿勢や念入りな準備、チームに溶け込もうとするコミュニケーションが高く評価され、加入からたった半年でチームから永住権取得の勧めを受けた。

 田代さんによると、オーストラリアでプレーしたJ1経験選手のなかで、オーストラリアの永住権を取得した人はいないという。実は、そのコミュニケーション能力は鹿島に加入した際に磨いた。

【コミュニケーション能力を生かす】

「僕はプロサッカー選手のなかではうまいほうじゃないです。鹿島アントラーズに加入した時に、どの選手もうまいので『不満を漏らしていたら僕にはパスが来ない』とわかりました。僕の特徴を理解してもらい、生かしてもらわなきゃいけない。だから、いかに周りを盛り上げ、気持ちよくサッカーをしてもらうかを考えました。

 欲しいパスを要求するにしても言い方一つで、相手の受け取り方が全く変わるから、要は、もう褒めまくっていましたよ。それから、アシストしてくれた選手に、ちゃんと感謝の気持ちを示せる選手にならなきゃいけない。ずっとそれを考えながらプレーしてきました」

元鹿島FW田代有三はオーストラリアで引退後になぜ現地で起業? 日豪「いいとこどり」とは
鹿島でプレーしていたころの田代さん photo by Getty Images
 選手生活を引退しセカンドビジネスに挑戦するにあたっても、そうしたコミュニケーションの姿勢は変わらなかった。現地で暮らす日本人のビジネスパーソンとの親交を深め、プレゼンテーション資料の作り方から事業の計画まで、たくさんのことを教わった。ビジネスの進め方について、相談できる相手が何人もいるという。

 そして、最近は、田代さんが多くの日本人を自分のビジネス・パートナーに引き入れ、彼らに活躍できる舞台を提供している。サッカースクールのコーチは13人。その多くはJリーグ、海外クラブ、なでしこリーグなどで、出場機会を得られない厳しい世界を味わった経験を持つ。

「僕が『一緒にやろうよ』と誘っています」

 田中景子さんは田代さんの下、MATE FCで子どもたちにサッカーを指導しているコーチの一人。日本では東京電力女子サッカー部マリーゼ(なでしこリーグ)でプレーし、東日本大震災により所属チームが活動停止になった経験を持つ。

「田代さんは憧れの選手でした。とてもフレンドリーな方で、今、一緒に仕事をできているのは私にとって最高の環境です。田代さんの方針で、スクール生には挨拶や礼儀、日本の心を忘れないことも指導しています。でも、同時にオーストラリアの良いところも生かしています。スクール生からコーチに対して意見してもらうことは歓迎。意見にはコーチが回答するようにしています」

 そして今年、田代さんは鹿島のアカデミーをシドニーに招いた。アカデミーのスタッフにはかつてのチームメイトである小笠原満男テクニカルアドバイザー、柳沢敦監督、曽ヶ端準GKコーチがいる。アカデミーの選手たちにも、シドニーでサッカーを楽しむMATE FCの子どもたちと親御さんにも忘れられない体験を提供したに違いない。

【オーストラリアから見た日本サッカーは?】

 コロナ禍の行動制限が解除され、日本とオーストラリアの交流が活発化している。過去4シーズンのJ1を横浜F・マリノスにおいて2人のオーストラリア人監督(アンジェ・ポステコグルー/現トッテナム監督、ケヴィン・マスカット/現横浜FM監督 )が制し、日本でも、かつてないほどオーストラリア・サッカーへの注目が集まっている。

 オーストラリアで生活する田代さんは、今の日本サッカーを南半球からどのように見つめているのだろう。

「日本の選手はうまいです。でも、攻撃でリトリートしすぎかな。ちょっと守備者に寄せられただけでボールを後ろに戻したら面白さが感じられなくなると思います。オーストラリアのサッカーはレベルが高くないディビジョンでも、ちょっと崩しながら縦に速い。ファンは、このスポーツのダイナミックな動きを見に来ています。

 同じAFCの日本とオーストラリアの双方のスタイルがミックスして『いいとこどり』できれば、共に世界と対等に戦えるレベルになる。両国のサッカーにとっても僕にとっても、大きな可能性を持っている日本とオーストラリアの関係だと思っています」

 改めて話を聞くと、オーストラリアで暮らす田代さんの生き方は「変わっている」。おおらかな空気が漂いながら高層ビルの立ち並ぶスタイリッシュなシドニーの街並みにマッチして、40歳を超えた今もみずみずしく感じる。国境を飛び越えて人と人とをつなげる田代さんの挑戦が次のステップに進んだら、きっと南半球から日本にニュースが届くだろう。

田代有三 
たしろ・ゆうぞう/1982年7月22日生まれ。福岡県出身。福岡大学時代に特別指定選手として大分トリニータサガン鳥栖でプレー。2005年鹿島アントラーズに加入し、FWとして活躍。モンテディオ山形ヴィッセル神戸セレッソ大阪でもプレーし、Jリーグ通算248試合出場65ゴールの記録を残した。日本代表国際Aマッチ出場3試合。2017年にオーストラリアへ移籍し翌年に引退。現在はシドニーでサッカースクール事業を行なっている。