田中順也インタビュー(3)

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(2)田中順也のポルトガル時代「お荷物みたいに扱われ」→悩んだ末に「夢を諦めた」>>

「ふざけんなよ、自分の体!」――田中順也が「娘から辞めないで...の画像はこちら >>
 田中順也にとって3つ目のJクラブであるとともに、現役最後の所属クラブとなるFC岐阜へ移籍したのは、2022年のことだ。

 その移籍はすなわち、J1でもJ2でもなく、J3でプレーすることを意味していたが、「とにかく岐阜を上に上げていきたいという将来的なビジョンが興味深くて、そこにはJ2のチーム以上の熱量がありました」。

「小松(裕志)社長をはじめ、強化部が一番熱心に誘ってくれた」こと。そして、「同い年の(柏木)陽介もいて、一緒にサッカーをやろうと言ってくれた」ことが決め手になった。

「僕はJ1、J2と優勝しているので、J3のタイトルが欲しかった。自分が行ったすべてのチームでタイトルを獲ってきた経験があったので、岐阜も優勝させられると思っていたんです。そうしたらコンプリートできるなって。自信満々で岐阜へ行きましたね」

 とはいえ、そこはJ3のクラブである。

「練習場も(専用グラウンドがないため)何カ所か行かなきゃいけないし、そのすべてにクラブハウスがあるわけじゃない。青空の下で着替えもしました」

 それでも田中は、「ポルトガルでも、めちゃくちゃなスタジアムで試合をしたことがあるし、施設がすごく整っていたわけじゃない。環境面は気になりませんでした」。

 ただ、そんな田中でさえも「やっぱり少し苦しみましたね」と振り返るのは、「サッカーの違い」について、である。

「まず立ち位置から違うとか、プレー中に目が合わないとか、そういう(基本的な)違いをどう教えていくか。そこは常に考えなきゃいけなかった。

そのギャップはやっぱり苦しいっていうか、難しいっていうか......。それがまだわからない若い子たちがたくさんいたので、教える側になっていたのは確かです。そこを落とし込んでいかないと、年間通して勝つことはできないよ、っていうことはよく言っていました」

「経験を伝えるっていうのは、そういうことだと思う」と語る田中は、いわば指導者目線で若いチームメイトを見ていた、と言ってもいいのかもしれない。

「レベルの違いはもちろんあったけど、だからといって、『なんでこれができないの?』っていうアプローチは絶対にしちゃいけない。どうしたらそれができるようになるかを言語化して教えなきゃいけませんでした」

 とりわけ田中が気になったのは、「メンタル面」である。

「J1で活躍する人たちって自信をなくす時間がもったいないから、ミスっても落ち込まない。

だから、先輩に叱責されても『は~い、次やりま~す!』っていうくらいの反応がほしいんですけど、(岐阜の若い選手は)シュンとなっちゃう。逆に僕のほうが『違う、違う。怒ってないから、落ち込まなくていいよ』ってフォローする、みたいな(苦笑)」

 田中は岐阜へ移籍するにあたり、はなから指導者半分の気持ちだったわけではない。あくまでも選手として活躍することを第一に、「あわよくば10点以上取りたいと思っていました」。

「点を取るのが年々難しくはなっていましたけど、フィットネスは落ちても技術レベルは落ちてないので、昨季(2023年)に関しては中盤でボールを受けてアシストすることにフォーカスしようと思って臨んでいました。シーズン序盤から(自身のアシストによるゴールが)ポンポンと取れたんで、よし、いけるぞと思っていたんですけど......」

 しかしながら、たとえ現状ではベテラン選手のほうが結果を残せるとしても、将来性を考えて若い選手を使いたい。

どんなチームであれ、そんな流れは多少なりともあるものだ。

 あるいは、ベテラン選手を使うにしても、先発ではなく、切り札としてベンチに置いておきたい。そんな考えもあるだろう。

「そこはちょっと難しかったですね。自分の思いどおりには(監督が)采配を振ってはくれないので。もっと信頼して使ってよっていう気持ちは、たぶん永遠に選手のなかにあるものだと思うんですけど、でも、自分がそれだけの信頼を勝ち取れていないのも事実。

そのジレンマは感じながらやっていましたね」

 ならば、自分から身を引いて、下支えに回ったほうがチームのためになるのかな――。田中は自然と、そんなことを考えるようになっていた。

 その一方で、「筋肉系のケガが増えてきた」ことも、引退を考える引き金となっていた。

 田中はもともと「細心の注意を払って体のケアを行ない、自分の体を繊細にわかっているタイプ」である。だからこそ、「このくらいまでは体を動かしても大丈夫っていう、その感覚値も高かった」という。

 ところが、従来なら「まだ大丈夫」だったラインが、歳とともに「これくらいでダメなの?」に変わっていく。

「練習の負荷にちょっとずつついていけなくなったり、それこそ自分が一番調子よかった時の7、8割の強度しか出せていないのに、筋肉は先に反応してしまう。それが許せない、って言うんですかね......」

 実のところ、現役引退を発表した次の日にも、田中は思わぬケガに見舞われていた。

「(練習中に)ボールを奪うために左足をパッと伸ばした時に、右の内転筋を肉離れしてしまって......。引退するまでの残り4試合は全部出るつもりで、『1点でも多く取れるように頑張ります』って宣言した翌日にケガをして、『ふざけんなよ、自分の体!』と(苦笑)」

 田中によれば、初めて肉離れを経験したのは、「32歳の時」。それまで筋肉系のケガとは縁がなく、「とにかく年間を通してほとんどケガをしない。メディカルにお世話にならない。それでずっとやってきた」にもかかわらず、である。

「初めて肉離れをしてからは、それ(体の変化)とつき合いながら、って感じでした。だから僕の予想では、たぶん無理してもう1年(現役で)プレーしても、やっぱり1年間のどこかでそういうことが起こりうるだろうなっていうのがあって、それを起こさないためには1日のすべてをかけてケアをしてっていう未来が見えるようになっていた。だから、ここらへん(で引退)かな、と。

 たぶん僕のトップフォームは、2013年とか、2014年とか、そのあたりだったので、ちょうど10年前か......。あの感覚のまま、ずっとサッカーをやりたかったですね(笑)」

 もちろん、引退の決断は、発表前に家族には伝えていた。

「妻とは日々コミュニケーションが取れていたし、日々悩んでいたのも隣で見ている。僕の感情の起伏みたいなものを常に感じてきていたので、引退すると言っても驚かなかった。『ここまでよくやったね』って感じでした。

 スポルティングへ移籍する時にも、一緒に行くって言ってくれて、当時は妻も仕事をしていたのに、そうやって自分のためについてきてくれるのはありがたかった。僕が移籍するたびに引っ越ししても、全部ついてきてくれたのは本当にうれしいことです」

 ただ、9歳の娘からは「辞めないでって言われた」という。

「学校で男の子たちに一目置かれるらしくて。父親がサッカー選手は、結構"使える"って言ってました(笑)」

 だが、そんな願いも虚しく、自慢のお父さんは「気持ちはやりたいんだけど、体がね」と苦笑。愛娘の引き留めも、翻意にはつながらなかったわけだ。

 2023年12月に引退発表の記者会見を開いてから、1カ月あまり。まだ現役を退いて日は浅いが、「しっかり肉がついてきました」と言って腹周りをさする田中は、「新しい仕事が始まったら、ちゃんと鍛える時間も確保しないと」と苦笑する。

 今後もクラブアンバサダーとして岐阜に残り、魅力あるクラブを作っていきたいと考える田中が、さしあたって取り組むのは育成部門の活動である。

「岐阜はまだ地元の子どもたちがそんなにトップチームに上がっていない。もっと子どもたちを育てて岐阜を強くするっていうのは、完全に長期的なプランになるんですけど、でもトップチームだけを応援してくださいって言うんじゃなくて、とにかく岐阜の子どもたちをサッカーで育てて、それこそ自分が経験した海外(クラブへの移籍)までたどり着かせる。そんな子どもを岐阜から育てましょう、っていうことをプロジェクトとしてやりたいと思っています。

 ちょっと下(南)の名古屋へ行ったら、(名古屋グランパスのアカデミーから育った)吉田(麻也)がいて、菅原(由勢)くんがいるのに、同じような選手が岐阜から生まれないわけがない。だから、まず育成を強くして、それがトップチームを強くしますから、っていうことを岐阜の人たちに話しています。

 そのためには、子どもたちのための環境を整えたい。まず取り掛かるべきは、専用グラウンド(を持つこと)ですね」

 偶然にも田中と小松社長、そして昨季限りでともに現役を引退した柏木は、全員が同い年。そして、「どうにか岐阜を上に上げたい」と考える同志でもある。

「社長にすごく熱量があるのはもちろん、スポンサーさんにもやっぱり同じくらいの熱量がある。岐阜県にはJクラブがひとつしかないので、県内の42市町村がすべてホームタウン。だからもっと(県全体で)力を注げるんじゃないかって思うし、ひとつに集中して力を発揮したら、絶対に魅力的なチームになるよねって思っています」

 そう話す田中から、現役に別れを告げるがゆえの湿っぽさは微塵も感じられない。

 それどころか、これからの未来を語る様子は、ワクワクを隠しきれないほどに楽しげだ。

「今はそこにやりがいを感じてひた走ろうかなって。僕らは今、ほぼロマンだけで動いています(笑)」

(文中敬称略/おわり)

田中順也(たなか・じゅんや)
1987年7月15日生まれ。東京都出身。順天堂大4年時に特別指定選手として柏レイソルでプレー。翌2010年、柏入り。同年のJ2優勝、翌年のJ1優勝に貢献した。2011年には日本代表にも選出され、2012年2月のアイスランド戦で代表デビューを飾る(国際Aマッチ出場4試合)。2014年夏、ポルトガルのスポルティングCPに移籍。2016年、期限付き移籍で古巣の柏に復帰し、2017年にヴィッセル神戸に完全移籍。2022年からはJ3のFC岐阜でプレー。2023年シーズンを最後に現役引退。2024年、FC岐阜のクラブアンバサダーに就任し、同クラブのアカデミーコーチとしても活動する。