J1リーグ2024シーズン
天野 純インタビュー(横浜F・マリノス/MF)◆前編

横浜FMの天野純が味わった歓喜と辛酸 韓国での「最高のシーズ...の画像はこちら >>
 韓国Kリーグでのプレーを経て3年ぶりに横浜F・マリノスに復帰した天野純。30歳で日本を飛び出し、2022年には蔚山現代を優勝に導くプレーを見せ、2023年には全北現代で苦しい1年を過ごした。
歓喜と辛酸をなめる経験からプレーヤーとして自信を膨らませた天野に、韓国で手にしたものが何だったのかを聞いた。

――2022年、韓国の蔚山現代への移籍を決めました。なぜあのタイミングで韓国だったのですか。

「あの時、30歳だったんですけど、2021年のシーズンは結構途中出場が多くて、サッカー選手として『それじゃダメなんじゃないか』と。海外修行じゃないですけど、もう1回、厳しい環境でプレーすることで、その先、右肩上がりになるのか、右肩下がりになるのか、変わってくるのかなと思ったので、移籍を考え、韓国に行くことを決めました」

――2021シーズン、F・マリノスではリーグ戦34試合出場3ゴール。チームは2位という成績でした。

特段、悪い成績ではなかったと思います。

「このシーズン、試合では後半に相手が疲れてきたところで、僕や(水沼)宏太くんが出て、ゲームを決定づけるという流れができていたんです。それはそれでいいんですけど、サッカー選手としては、やはり90分試合に出たい。でも、90分出た時、圧倒的なパフォーマンスを発揮できた試合があったかというと、そんなに多くなかったんです」

――後半に出場チャンスを与えられるのは、必要な選手の証だと思うんですけど、それでもなお、何かを求めてマリノスを出ないといけないと思ったのですか。

「たぶん、普通の人なら行かないでしょうね(苦笑)。でも、自分はサッカーに対してドMというか、厳しい環境でやらないとダメになるって思ったんです。

それに、ベルギーでの経験(2019-2020シーズン、ベルギーのロケレンでプレー)も大きかったですね。

 ベルギーでの挑戦は成功とは言えないですけど、厳しい環境に身を置いたことで、帰国後、パフォーマンスが上がったのを感じたんです。そういう成功体験があったので、もう1回、挑戦したい。このまま終わっていくのは嫌なので、知らない環境に飛び込んでプレーしたほうがいいと思ったんです」

 韓国のKリーグは、日本のJリーグのサッカーとはスタイルが異なる。伝統的にフィジカルを前面に押し出し、前に蹴って走るサッカーが主流だ。一方、天野のスタイルはボールをできるだけ多く触り、スルーパスやコンビネーションで攻撃の形を作っていく。

"蹴るサッカー"が主の韓国で、天野のプレーが活きるとはあまり思えなかった。

――韓国では、今も中盤の頭の上を(ボールが)越えていくサッカーがメインですよね。そういうサッカーに天野選手のスタイルとの親和性があるのか、すごく不思議に思ったのですが。

「確かに韓国の90%以上がそういうスタイルなので、自分も行くと決めたけど、本当にいいのかなって何回も思いました。実際に韓国に行くと、イメージどおりのサッカーでしたね。試合は普通に肉弾戦ですし、(試合中に)柔道の技をかけられるんですよ。

なので、自分はうまく逃げていました(苦笑)。

 でも、蔚山だけは違ったんです。日本に近いというか、洪明甫(ホン・ミョンボ※)さんが監督なんですけど、戦術的でパスをつなぐサッカーでした」
※1990年代~2000年代前半にかけて活躍した韓国を代表するトッププレーヤー。W杯4大会に出場。Jリーグのベルマーレ平塚、柏レイソルでもプレー。

――韓国における外国人選手への視線はいかがでしたか。

「日本より外国籍選手への風当たりは厳しいですね。活躍すれば本当に温かく応援してくれるんですけど、ダメだと異常に冷たい(苦笑)。試合で調子が悪かったりすると、もういらないよ、みたいな感じになるんです。

 しかも、練習に参加させてもらえなくなる。日本じゃそんなこと絶対にないじゃないですか。もう結果がすべて。

めちゃくちゃシビアでした」

――評価基準は、得点やアシストですか。

「FWはもうそれしかないですし、僕ら中盤の選手は、プロセスを評価してくれる部分もあるんですけど、やっぱり数字ですね。個人的にはスコアポイントをどれだけ取れるかというところにこだわってやっていました」

 蔚山現代では、公式戦38試合に出場し、12ゴールを挙げた。主力選手として活躍し、リーグ優勝にも貢献した。

――1年目にこれだけ結果を残せたのは、何が要因だったのでしょうか。

「蔚山のサッカーに自分がハマったのが大きいですね。中盤を含めて、うまい選手が多くて、僕がパスを出すとそれを理解してくれるというか、フィーリングがめちゃくちゃ合ったんです。だから、試合はすごく楽しかったですし、自分のよさを活かせたかなと思います」

――プレーしていくなかで、自分のスタイルに成長も感じられましたか。

「日本でやっていた時はチームの構造もあったし、得点は外国籍選手任せになっていたところがありました。でも、蔚山は中盤から飛び出していってゴールを決めるのが重要で、シュートをすごく意識していました。ボックス内に入っていく際のスピードが速く、運動量は日本にいた時よりもはるかに多かったです」

――大きな手応えがあったのですね。

「韓国に来て、僕を知らない仲間に自分を理解してもらい、試合に出て、ファン、サポーターの心をつかまないといけないという思いでプレーし、徐々に応援されるようになったのは、本当にうれしかったです。

 試合を重ねていくなかで、『認められた』みたいな瞬間があるんですよ。それを勝ち取れたのはすごく達成感が大きかったです。結果を残して、優勝もできた。僕のプロのキャリアのなかでも最高のシーズンでした」

 蔚山で最高のシーズンを送った天野は、翌年、全北現代に移籍する。

――蔚山で最高のシーズンを送ったら、また同じところで「さらに」という思いも出てくると思うのですが、そうは思わなかったのですか?

「僕は、普通じゃないんですよ(苦笑)。サッカーに対してドMな性格が出てしまった」

――全北のサッカーは、ご自身にフィットするスタイルだったのですか?

「いや、結構ボールを蹴るサッカーだったので、自分が活躍できるスタイルではないなと思ったんです。でも、代表選手が多かったですし、(クラブ側が)僕のことが必要だと熱く語ってくれたので、その挑戦に自分がワクワクしたのもあります。スタイルは蔚山と違うけど、そのなかで自分がどれだけやれるのか、そこを楽しみにしていました」

――実際に行かれて、何が一番厳しかったですか。

「生活ですね。ベルギーも、蔚山も、住んでいた地域は都会だったので、日本人も多くて家族も快適に暮らせていたんです。でも、全北は地方で英語は通じないし、日本人もいない。かつ、地方の人はせっかちで閉鎖的なところもあり、妻はいろいろ苦労したと思います。海外組は『環境で苦しむ』ってよく言われますけど、それを本当に感じました(苦笑)」

 韓国の地方にあっては、日本人がいれば好奇の視線にさらされ、昔ながらの人も多いとなれば、毛嫌いされることも多い。言葉が通じないので、買い物など日常生活も大変だ。だが、そういう厳しい生活を送ったことで、「これ以上、大変なことはないよね」と家族で話をしていたという。

――全北現代では、公式戦26試合出場で2得点でした。

「生活もサッカーもキツかったですね。ベルギーの時と同じぐらい苦しみました。監督が2回変わって、ふたり目が完全に直線的なサッカーだったんです。僕のプレースタイルがフィットしなくなって、そこからスタメンを外れることが増えました。

 簡単に言うと、"合わなかった"で終わってしまうんですけど、いい選手はそれでも起用される。どんな監督にも起用されるのは、やっぱりいい選手の条件ですし、自分もそうありたいと思いましたね」

――2年間で韓国での挑戦を終えるわけですが、自分の成長につながる何かを得られたのでしょうか。

「蔚山での時間は、もともと点が取れるタイプの選手じゃないのに、デビュー2戦目で初ゴールを取ってから覚醒したというか、シーズンを通して結果を残し、優勝に貢献できたという実感がありました。

 僕はずっと『うまくなりたい』『強くなりたい』と思っていて、それを求めて普通の人が取らない選択をして韓国に行ったんですけど、ひとつ正解を得られたので本当によかったですし、自信になりました。何度も言いますが、蔚山での1年間は、自分のプロサッカー人生で最高のシーズンでした」

(つづく)後編◆天野純「凄みのあるプレーを見せて、チームを優勝に導き、MVPを獲る」>>

天野純(あまの・じゅん)
1991年7月19日生まれ。神奈川県出身。横浜F・マリノス所属のMF。2014年、順天堂大から横浜F・マリノス入り。2019年夏、ベルギーのロケレンに期限付き移籍するも、経営悪化で同クラブが破産。2020年には横浜FMに復帰した。2022年、韓国の蔚山現代へ期限付き移籍。チームのリーグ優勝に貢献した。翌年は同じく韓国の全北現代でプレー。そして今季、横浜FMに戻ってきた。