アウェー名古屋における開幕戦での完勝から、2日後、アントラーズの指揮官ランコ・ポポヴィッチはオンラインでのインタビューに応じた。鹿島は彼にとって日本では5つ目のクラブになる。

大分、町田、FC東京、C大阪と、どちらかと言えば、若い新興チームを率いることが多かったが、今回のオファーはJリーグのオリジナル10。チームフィロソフィーの始祖とも言えるジーコ以来、ブラジル色の強いクラブへの着任に欧州カラーのポポがフィットするかどうか、疑問視する声も無くはなかったが、蓋を開けてみれば、3対0の好発進。内容もまた期待を抱かせるものであった。

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―キャプテンの柴崎に続いて、エース鈴木優磨も負傷。移籍予定だったチャルシッチがメディカルチェックから問題が見えて契約解消するなど、当初のプランはかなり崩れたように見えましたが、立て直しをどう考えましたか。

「監督の仕事は常に現実を見て考えないといけない。

サッカーにおいて選手にケガはつきもので、それを言い訳にするのは良くない。チャルシッチについては入団していれば、かなりの大きな戦力になったことは間違いないですが、今の彼にとって最も大切なことは、家族のために自身の健康を取り戻すことです。彼の回復を心から祈っています。今いる選手たちの才能を開花させてチームとしての結果を出す。そのことこそが現実的です。現有勢力でどう手当てをするのか。
その点で言えば、私は(柴崎)岳が抜けたボランチの穴を埋めるのは知念(慶)だとずっと考えていました」

―FWからコンバートした知念が見事にはまりました。佐野海舟と組んだ名古屋戦での評価はどのようなものですか。攻撃の選手がアウェーの公式戦であそこまで安定した守備を見せるとは、本職の海舟と比べて遜色が無かった。

「それを言えば、海舟も本職ではなかった。(前所属の)町田にいたときは、最初は右サイドバックの選手でした。彼も私が(町田の監督時代に)ボランチに据えました」

―そうでしたね。

知念に触れる前に海舟のコンバートから聞き起こしましょう。

「彼は高校時代は中盤を担っていたそうですが、入団した町田の一年目はサイドの選手でした。しかし、ポリバレント性を高めるメニューをやっていく中で、私は彼がライン際でアップダウンを繰り返すだけの選手ではないことに気づきました。ボールをさばくのも持ち出すのもうまかった。もちろん最初からボランチで今のようなプレーができていたわけではありません。何度、海舟に腕立て伏せをさせたか分かりません。

当時は前にボールを提供することができていなかった。町田時代は彼本来のポジションではないスリーバックの真ん中で使ったりして、気づきを与えた。今の海舟を見て欲しい、前への意識がどれだけ高いことか」

―知念の適性については?

「知念はボールを持っても落ち着いているし、試合の流れを読みながらプレーできる。常にプレッシャーがかかり、スペースも無いFWでプレーするよりも前を向けて十分に時間もあるボランチの方が向いていると考えたのです。コンバートについてのポイントは選手自身が新しいポジションを受け入れてそこで自分が出来ると思うかどうか。知念とはずっとコミュニケーションを取って来ました。

名古屋戦に関して言うと、うちのダブルボランチは、海舟も知念も互いの特徴を出し合って、良い組み合わせとなっていました。知念はインターセプトを何度も成功させていた。だから海舟は守備的、知念は攻撃的と考えるのはあくまでも先入観。私の仕事はポテンシャルに気づかせてそれを最大限に引き出すことです」

―ここで1ゴール1アシストといきなり活躍したチャブリッチについて聞かないわけにはいかない。彼はクロアチアのブコバル出身のセルビア人ですね。亡くなったフリーキックの名手シニシャ・ミハイロビッチ(ミランで本田圭佑、ボローニャで冨安健洋を指導)もそうでしたが、ユーゴ紛争時、最大の激戦地であったブコバルは多くのサッカー選手が戦争被害に遭いました。

「チャッキー(チャブリッチの愛称)は幼い頃にそこで家を失くしてセルビア本国に逃れてきました。しかし、気軽に話せるテーマではありません。木村さんも知ってのとおり、私の生まれはコソボ。コソボのセルビア人も同じような目にあっています。私たちはユーゴスラビアで戦争によって分断されて、日本で再会したと言えるかもしれません」

―どうやってチャッキーという才能を見つけたのでしょうか。

「彼の名前が鹿島の補強候補リストに入っていたのです。それを見た私は(チャブリッチが所属する)スロヴァン・ブラチスラバの前の監督(2020~2021)が私のクーム(仲人)だったことを思いだしたのです。そう、スロベニア人のダルコ・ミラニッチです」

鹿島ポポヴィッチ監督が語る「土台を理解し新しい歴史を作る」
スロヴァン・ブラチスラバの前監督ダルコ・ミラニッチ グラーツの監督時代 Photo by Yukihiko Kimura

―イビツァ・オシムが指揮を執っていたシュトゥルム・グラーツで現役時代にポポとディフェンスラインを組んでいたミラニッチですね。彼とはグラーツで会ったことがあります。クレバーな監督でしたが、直接、スロヴァンでチャッキーを指導していていたのですか。

「そうです。ダルコには、まだ私が鹿島に行くとは伝えていなかったのですが、チャッキーの評価を聞くと彼は言いました。『どの国のクラブに行ったとしてもチャブリッチは大きな結果を残すだろう。選手としてももちろん、人間性もすばらしいぞ』と。しかし、彼はブラチスラバの象徴であり、最も重要な選手でした。

 だからこそ、移籍交渉は長引きました。チャッキー本人は鹿島に行きたがっていたのですが、サポーターたちが、『絶対に出すな!』と大騒ぎになったのです。この件に関しては粘り強く最後まで交渉してくれた吉岡(宗重)さんたち鹿島の強化スタッフに本当に感謝しています。一時は不可能かと思われたものを実現してくれました。また鹿島に行くという気持ちを最後まで貫いたチャッキーの意思の強さも大きかった。スロヴァンから3年延長の契約と大幅な年俸のアップを提示されたのですが、初志を貫徹しました。

 一方、その移籍はスロヴァンのサポーターに対してずっとトップシークレットでした。キャンプに帯同していると偽っていたのですが、公式HPにアップされる写真に写っていないので、また騒ぎになり、彼は家から出られなくなったのです。10日間くらい軟禁状態で家の周りを走ることもできなくなった。だから現在のチャッキーのコンディションはまだ6割くらいなのです。まだまだこれから良くなっていきます」

―確かにフィジカルはまだ整っていない印象でした。それでもメリハリの利いた走りで点に絡んだのはさすがです。小野伸二さんが チャッキーのプレーを「高くて足元もうまい」と絶賛していました。

「経験豊富な小野選手はやはり見る目が違います。外国人選手は何のために日本でプレーするのかと考えたときに圧倒的な違いがなければいけない。チャッキーからは力強さと同時に繊細なセンスを感じるはずです。名古屋戦では3点目のアシストの場面、相手に身体を当てて強さを見せつけたあと、マークに来た選手がスリップしたのを見て中に侵入して、味方を見つけて柔らかいボールを出している。あのプレーはそう多くの選手ができることではない」

 アレキサンダル・チャブリッチの柔らかさの源はユース世代に所属したクラブに見ることができる。彼はセルビアでロマンチャリ(ロマンチスト)と呼ばれて華麗なプレーを育成世代に施すことで知られるOFKベオグラードの出身。2013年にU19欧州選手権でセルビアが優勝したときのメンバーでいわば黄金世代のひとりである。

―ポポはよく組織が個を輝かせると言いますが、開幕戦では選手たちの味方を信じたプレーが目を引きました。

「先制点は植田(直通)が競り勝つことを信じて仲間がゴール前に走った。2点目はふたりに囲まれたチャッキーを信じて安西(幸輝)はクロスを上げた。そして3点目も連動したダイレクトのパスがすばらしかった。個は信頼の上で輝くとも言えますね。互いの信頼こそがチームにとって大事です。もはや突出した選手にすべてを任せて解決してくれるという時代ではないのです。キャンプから取り組んできたオーガナイズがうまく機能しました。縦への意識と強固な守備。全員が連動すべきことです。そのためには信じる力は不可欠です」

鹿島アントラーズという常勝を義務付けられたチームを率いる上で、今後のビジョンを教えてもらえますか。

「私自身も鹿島のクラブの歴史を学びました。『ジーコイズム』というものが鹿島に根付いている。それを尊敬し、当時を思い起こさないといけない。常勝軍団と言われたころの鹿島はどうだったのか。土台となるものを理解し、その上で新しい歴史を作っていこうと思っています。世界のサッカーもどんどん変化しています。良い所を尊重し、変わることを恐れずに新しいものを加えていく。土台はブラジルですが、親和性もあります。ユーゴスラビアがかつて東欧のブラジルと呼ばれていたのを多くの人は知っているかと思います」

―他のチームを率いて対戦相手として戦っていた鹿島にはどんな印象を持っていましたか。

「勝つための方法を選手全員が理解していて、その姿勢がサポ-ターとの一体感を作っていました。大分で監督をしていたときの鹿島戦は強烈でした。質の高い日本人選手に違いを作れる外国人の選手が加わった集団。彼らは勝負にとことんこだわっていて、勝っても負けても同じというメンタルの選手はひとりもいなかった。選手だけではありません。あれはカシマスタジアムでの試合でした。1対0で鹿島がリードしていて、ボールがサイドを割った。ボールボーイが時間稼ぎで、なかなかボールを出さなかった。私が奪って出そうとしたらその少年は他のボールボーイにパスをした。これは日本ではありえなかった。スタジアム全員が勝ちに対して貪欲でした。私が大分の監督時代に、鹿島と優勝争いをしていた川崎に勝ちました。するとJリーグアウォーズで(当時鹿島を指揮していた)オリベイラ監督からお礼を言われたのです。『川崎に勝ってくれてありがとう。あなたが鹿島にタイトルをもたらしてくれた』と。他者への気遣いも忘れない王者の風格を感じたものです」

―ヨーロッパ各地でプレーをし、指揮も執ってきたポポから見た鹿島の町、そしてサポーターについてはどう感じていますか。

「鹿島の町は私が監督をしたスペインのサラゴサに似ていると思いました。サッカーが生活の真ん中にある町。至る所でチームのレプリカや旗があり、走っている車にもそれを見ることができる。サポーターについては、毎日多くの熱心な人たちが練習場に来てくれます。私にとって気持ちがいいのは、その人たちが声をかけてくれることです。レストランでもスーパーマーケットでもどこでもいいのです。話をしたり、感情を伝えあったり、それは大切なこと。監督とサポーターがお互いにクラブのために気持ちを出し合って、勝利の喜びもまた分け合う。それがいい関係だと思っています」

―5月になればオシムさんが亡くなってちょうど2年になります。シュワーボ(オシムの愛称)は生前、鹿島についてどんなことを語っていましたか。

「オシムさんと比べていただいても私はまだ足元にも及びません。けれど私は彼の教え子のひとりとしてサッカーにかける魂を引き継いでいきたい。シュワーボが日本にもたらした大きな功績を忘れてはいけない。彼は鹿島についてそのクラブの在り方に大きなリスペクトを持っていました。大企業がバックにいるわけでもなく、人口の多い町でもない。けれど地域に密着していい選手を輩出している。そのフィロソフィーをとてもすばらしいと言っていたものです。私もこのクラブのために100%の力を出し切りたいと思っています」

■Profile
ランコ・ポポヴィッチ
今期より鹿島アントラーズを指揮するユーゴスラビアのコソボ自治州(当時)生まれのセルビア人。現役時代はパルチザン・ベオグラード、シュトゥルム・グラーツでプレー。グラーツではイビツァ・オシムの薫陶を受け、チャンピオンズリーグにも出場。Jリーグの指導者としては大分トリニータを皮切りに町田ゼルビア、FC東京、C大阪で監督を務める。