あの人は今~「オッツェ」インタビュー中編
フランク・オルデネビッツ(ドイツ/元ジェフユナイテッド市原)

◆あの人は今「オッツェ」前編>>1994年Jリーグ得点王に会いにブレーメンまで行ってきた

 盟友ピエール・リトバルスキーからの電話で、ジェフユナイテッド市原でのプレーを決めたフランク・オルデネビッツ「愛称=オッツェ」。Jリーグでプレーするなかで覚えた、いまだに残っている違和感もあるという。

「加入当初から『ちょっとヘンだな』と思って、日本を離れる最後まで慣れなかったのは、試合をして負けても、みんな一生懸命、拍手してくれることですね。それはドイツではありえなかったので......」

◆あの人は今「オッツェ」今昔フォトギャラリー>>

オッツェがわずか1年半で帰国したのは、家庭の事情だけじゃなか...の画像はこちら >>
 チームメイトとのコミュニケーションにおいても、ドイツとの違いを感じることはあった。

「試合後のロッカールームも、雰囲気はとてもよかったですね。僕は機嫌の悪い日本人を知りません。もちろん、ピッチの上ではニコニコしているだけでなく、しっかり戦っていましたけど。チームは決して強いほうではなかったですけど、それでもチームメイトたちとは仲がよくて、いつも楽しかったです」

 負けても怒ることのないファンの姿勢、いつでも仲よしなチームメイトのメンタリティは「日本人そのものだ」と、オッツェは滞在1年半の短い期間で感じたそうだ。

「ファンが負けても怒らないように、日本人は決してネガティブなことを言わない、いつでも笑っています。申し訳ないけれど、僕は最初『なんにも怒らないこの人たちは、ちょっと大丈夫なのかな?』って思ってしまいました。でも1年半ほど日本にいる間に『日本人はそういうメンタリティを持っているんだ』と理解していきました」

 さらにオッツェは独自の分析を続けた。

「そう思ったのは、お互いフレンドリーに規律正しくしないと、あれだけの人数が共生できないからではないかと。東京には、ものすごい人がいるじゃないですか。あのフレンドリーさ、規律がなかったら、東京はパニックになってしまうと思うんです。

だからこそ、いつでもニコニコしているんじゃないかとね」

 日本を懐かしむように、笑いながら持論を披露してくれた。

【帰国の理由は家族の事情だけではなかった】

 1993年の夏にジェフに加入し、1994シーズンには40試合出場30得点を記録してJリーグ2代目・得点王に輝いた。ただ、当時を振り返る喜びの言葉は少ない。

「チームメイトがよかったから得点王になれただけです。Jリーグは始まったばかりで、多くの(主に日本人)選手よりも僕のほうが経験があったので、そこはちょっとアドバンテージがあったんだと思います」

オッツェがわずか1年半で帰国したのは、家庭の事情だけじゃなかった「またドイツで活躍できると思ってしまって...」
オッツェは1994シーズンの得点王にも輝いた photo by Getty Images
 名だたるスター選手たちと得点王争いを演じたが、「あまり昔のことを覚えていないタイプなんですよ。昔の集合写真を見ても、名前を思い出せない選手もいるくらいだし。ライバルのことなんて、もっと覚えていないんです」とそっけない。

 だが、記憶に残っているのは、意外なことだった。

「Jリーグの日本人キーパーの質は、たしかによくなかったですね。『もしかしたら両方とも左手(利き手ではないくらい不器用)なんじゃないか』って思うくらい下手でした。でも、当然だったかもしれません。Jリーグはスタートしたばかりで、ちゃんとしたキーパートレーニングなんて知らなかったのかもしれないし」

 得点王になったそのシーズン後、オッツェはドイツに戻ってしまう。理由とされたのは「家庭の事情」だった。

だが、帰国の理由はそれだけではなかった。

「日本に1年半ほど住んで、妻と長男もちょっとドイツが恋しくなった、という理由もありました。僕も『再びブンデスリーガで十分できる』って思っちゃったんですね。日本で30点も取ったことで、またドイツでも活躍できるって思ってしまったんです」

 キャリアの終盤を飾る思いで日本に来たオッツェだったが、異国の地で再起のきっかけを掴んだことで、1994-95シーズン後半からハンブルガーSVに加入する。

「ただ、ドイツでもできると思ったけど、そうでないことはすぐにわかりました。ハンブルガーSVにはブレーメン時代のチームメイトだったベノ・メールマンが監督をしていて、呼ばれて戻ったのですけど、シーズン途中(1995年10月)に解任されてしまって。

そして次に監督になったのが、フェリックス・マガト。それでもう、僕の体はついていかなくなってしまって......」

 オッツェがマガトと言っただけで、「それは仕方ないね」と苦笑いするしかなかった。

 マガトと言えば、長谷部誠内田篤人が「鍛えられた」という鬼軍曹ぶりで知られた存在。理不尽なほどのハードなトレーニングは、1990年代当時であれば長谷部らの時代よりも格段にきつかっただろうと、同情するほかはない。

【引退の決断は難しいものではなかった】

 しかし、さすがにもう引退かと思われた矢先、ハンブルガーSVでの2シーズン目のウィンターブレイクにもう一度、オッツェは日本に行くことになる。1995年末に再びリティ(リトバルスキー)から誘いを受け、今度は当時JFLのブランメル仙台に赴いた。

「今度はJFLですけど、妻を説得して行くことにしました。僕はアキレス腱のケガを抱えていたのですけど、結局、最後は体が持たなくて仙台で現役選手を辞めることにしました。

 引退の決断は難しいものではなかったです。強度が高まると、すぐにアキレス腱に痛みが出てしまったので。その後、ドイツに戻ってから小さなクラブでプレーしましたけど、もうプロサッカー選手として動ける状態ではなかったです」

オッツェがわずか1年半で帰国したのは、家庭の事情だけじゃなかった「またドイツで活躍できると思ってしまって...」
オッツェに現役時代の晩年についても語ってもらった photo by Minegishi Shinji
 1997年以降はドイツのアマチュアクラブでプレーを続けながら、2005年からはブレーメンでスカウトの仕事を行なうようになる。

 オッツェがプレーした30年前と比べて、現在の日本サッカーは信じられないほど進化・成長を遂げた。

「もう私たちがプレーした頃とは、まったく比べものにならないですよね。今の日本を見ていると、私たちより進んでいるんじゃないかって思ってしまいます。ドイツ代表は日本代表に2022年カタールワールドカップでも2023年の親善試合でも負けましたし。

 今の日本は『サッカー大国のひとつ』になっていると思います。僕が日本にいた当時は野球と相撲ばっかりに注目が集まっていたのに、すっかり変わりましたよね」

 現在のオッツェはブレーメンのスカウトとして日本を担当しているものの、しばらく足は遠のいているという。

「また日本に行きたいですね。コロナの前に行ったのが最後で、そこから行けてないのですよ。もしかしたら、いい日本人選手をまた見つけられるかもしれません」

 半分真顔、半分冗談といった風情で、にっこりと笑いながらそう言った。

(後編につづく)

◆あの人は今「オッツェ」後編>>敏腕スカウトが獲得したかったのは「遠藤航」

◆あの人は今「オッツェ」今昔フォトギャラリー>>


【profile】
フランク・オルデネビッツ(オッツェ)
1965年3月25日生まれ、ドイツ・ドルフマルク出身。ブレーメン時代は奥寺康彦と一緒にプレーし、1987-88シーズンにはブンデスリーガ制覇に貢献した。1993年のセカンドステージよりジェフユナイテッド市原に加入し、1994シーズンは30ゴールを記録して得点王を獲得。翌年は家庭の事情でドイツに戻るも、1996年には旧JFLのブランメル仙台でもプレーして20ゴールをマークする。西ドイツ代表として2試合出場。ポジション=FW。身長180cm。