空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第7回
(第6回:K-1の原点、ニールセン戦の1ラウンドKO 頭突きには批判も「果たし合いに反則も何もない」>>)
現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。
59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第7回は、ウィリー・ウィリアムスとの一戦と、その後のリングス参戦について語った。
【憧れの"熊殺し"との一戦】
1990年6月30日、初のキックボクシングへの挑戦で、ドン中矢ニールセンを1ラウンドKOで下してから1年。佐竹は伝説の空手家に挑んだ。
対戦相手は、極真空手のウィリー・ウィリアムス。劇作家の梶原一騎が1976年に制作したドキュメンタリー映画『地上最強の空手 PART2』で巨大グリズリーと戦い、"熊殺し"の異名で注目を集めた空手家だ。
身長2m01cm、体重130㎏という体格を活かした圧倒的なパワーで、1979年の世界選手権では3位。1980年2月には、格闘技世界一決定戦でアントニオ猪木と対戦してドクターストップによる引き分けと、空手以外の領域でも強さと存在感を発揮した。
他ならぬ佐竹も、映画で見たウィリーの"熊殺し"に魅了されたひとりだった。闘いの舞台は1991年6月4日、国立代々木競技場第二体育館。ウィリーが所属する「USA大山空手」と、佐竹の「正道会館」が激突する「5vs5全面対抗戦」の大将戦だ。
空手界で他流派同士の対抗戦が行なわれるのは初めてのこと。
「石井(和義)館長から、『今度、ウィリーとやるぞ』と言われた時は『ウソでしょ』と思いました。他流派と対抗戦なんて、あり得ないことでしたから。ただ、石井館長には感謝ですよ。USA大山の大山茂先生をうまく引き込んで、僕の憧れだったウィリーとの対戦を実現させてくれたわけですからね。
ただ、対戦が決まったら、過去の憧れや尊敬などは消え去って『絶対に勝たないといけない』と思いました。そして、ニールセンを破って、ウィリーにも勝ったとなれば、目標とする前田日明さんとの闘いにつながる、とワクワクしましたよ」
【試合が楽しすぎて「笑けてきた」】
25歳の佐竹に対し、ウィリーは40歳。試合は2分3ラウンドで行なわれることになった。2年連続で格闘技界の注目と話題を独占することになった一戦にも、佐竹はニールセンの時とは違って気持ちに余裕があったという。
「ニールセンとのキックボクシングの試合とはまったく逆の気持ちでした。空手の試合で、顔は殴らないから恐怖感がない。当時はスタミナもあって、縦横無尽に動けました。今振り返っても、僕が一番強かった時期だったと思います」
太鼓の音と共に決戦の火ぶたが切られた。
そこから優位に立ったのは佐竹だった。突きの連打、右の中段回し蹴り、左上段回し蹴りと多彩な技で"熊殺し"を追い詰める。その攻撃に、ウィリーの手数が少なくなったところで1ラウンドが終わった。
「ニールセンとの試合で精神的プレッシャーを乗り越えたから、この時の自分は闘うことが楽しくて仕方がなかったです。しかも、子どもの頃から憧れ続けた"神様"のような存在だったウィリーが目の前にいる。夢にまで見た選手と、対抗戦の最後に闘える現実がうれしすぎて、なんか笑けてきました」
2ラウンド、佐竹はさらに躍動し、右下段回し蹴りでウィリーを崩していく。続く最終3ラウンドも同じ攻撃を続け、ウィリーは左足を前に出せなくなる。強烈な蹴りに、顔面が苦悶でゆがむ場面もあった。佐竹は一本こそ奪えなかったが、判定で憧れの空手家に圧勝した。
「ウィリーの突き、蹴りは、さすがでした。40歳になっても強烈で痛かったですよ。ただ、こっちは、キックボクシングの試合をした経験があったからフットワークができていて、ウィリーの技をかわして攻めることができたんです。
だけど、ウィリーは意地でも倒れませんでしたね。そんな闘いが楽しくて仕方なくて、試合では最後までニコニコしていたと思います。『もうちょっと時間があれば倒せたかな......』とも思いましたけど、至高の時間でした」
【前田が旗揚げしたリングスに参戦】
アントニオ猪木とも闘った"熊殺し"に完勝したことで、「佐竹雅昭」の名前は、空手界、格闘技界にとどまらず広く世間に知られることになった。
「あのウィリー戦で初めて、『佐竹、熊殺しに勝つ』と東スポの一面になったんですよ。そこから注目度がグッと上がりましたし、ウィリーというレジェンドとの闘いは僕の格闘技人生での財産です」
ニールセン、ウィリーを退けた佐竹は、ついに前田日明に挑むための舞台に立つ。それは、前田が主宰するプロレス団体「リングス」への参戦だった。
リングスは、新生UWFを1991年1月に解散した前田が、同年5月にたったひとりで旗揚げした。ただ、衛星放送有料テレビ局「WOWOW」と放映契約を締結したことで、資金面は潤沢。オランダを中心にヨーロッパと格闘技ネットワークを構築し、格闘家を招聘するなど徐々に勢力を広げていった。
日本人の目玉選手が前田だけだったリングスにとって、ウィリーを破り、実力だけでなく人気も飛躍的に上昇していた佐竹は、是が非でも欲しい人材だった。紆余曲折を経て、佐竹は「正道会館」の他の空手家と共に、1991年12月7日の有明コロシアム大会からリングスに参戦することになった。
「本当は、前田さんは僕だけが欲しかったようです。僕も同じ気持ちだったんですが、結果的に『リングスvs正道会館』という図式になりました。自分の目的は、前田さんに挑戦して勝って、格闘王になること。だから、細かいことは気にしないでやっていこうと気持ちを切り替えました」
注目の初陣。対戦相手はオランダ人空手家、ハンス・ナイマンだった。顔面へのパンチなしの空手ルールで、2分5ラウンド。佐竹は空手着ではなく、両拳にバンテージを巻き、シューズと脛にレガースを着用したハーフスパッツ姿で登場した。
試合は、1ラウンドから右のローキックを軸に攻め続けた佐竹が、KOこそ奪えなかったものの圧倒。当時は判定勝ちでの決着がなかったため、「5ラウンド時間切れ引き分け」となった。
「寝技抜き、ということであのルールになってドローで終わったんですが、ガチンコの試合だったから面白かったです」
本格的なプロとしてのスタートを切り、前田との一戦へ思いを高めていったが......それは思わぬ形で"終わり"を迎えることになる。
(第8回:前田日明に「勝った」と思った瞬間 石井館長が激怒したリングス最後の試合の内情>>)
【プロフィール】
佐竹雅昭(さたけ・まさあき)
1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。