NBA伝説の名選手:ホーレス・グラント 歴史に残るスーパース...の画像はこちら >>

NBAレジェンズ連載44:ホーレス・グラント

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。

世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第44回は、シカゴ・ブルズをはじめ強豪チームでスーパースターたちを支え続けたホーレス・グラントを紹介する。

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【双子の弟と切磋琢磨し全米レベルの選手に】

 1991年からシカゴ・ブルズが3連覇を成し遂げたとき、ホーレス・グラントはスコッティ・ピッペンとともに、チームに欠かせない選手だった。フィジカルの強さを武器にディフェンス、リバウンドに奮闘し、中距離のジャンプショットで得点できるパワーフォワードとして地位を確立。ブルズを離れてからもその存在感を発揮し続け、NBA選手として17年間プレーした。

 ジョージア州にある小さな市で生まれたグラントは、一卵性双生児の弟ハービー(現在ポートランド・トレイルブレイザーズに所属するジェラミの父)とともに幼少期からバスケットボールに対する強い情熱を持っていた。質素な家庭だったこともあり、グラントは両親から規律とハードワーク、忍耐の価値というものを学び、裏庭でのハービーとの1対1で競い合う日々を過ごす。強い競争心は、この頃に身についたと語る。

「ハーベイと私は毎日競争していた。互いに最も厳しい競争相手になることで成長した。レベルアップするためにお互いをプッシュしたことが、私たちの、のちのキャリアに引き継がれたんだ」

 グラントとハービーの外見はほぼ同じだったが、ふたりのプレースタイルは異なっていた。グラントはディフェンスとリバウンドで知られていたが、ハービーはスコアラーとして活躍。ともにハンコック・セントラル高で注目されるようになると、グラントはクレムゾン大、ハーベイはクレムゾン大に進んだあとにオクラホマ大に転校という大学キャリアを過ごした。

 4年生となった1986-87シーズン、グラントはアトランティック・コースト・カンファレンス(ACC)史上初となる得点(21.0)、リバウンド(9.6)、FG成功率(70.8%)の3部門で1位を記録。クレムゾン大の選手として初めて、ACCの年間最優秀選手賞を受賞した。NCAA屈指のパワーフォワードとして成長したグラントは、1987年のNBAドラフトでシカゴ・ブルズから1巡目10位、ハーベイは翌年のドラフトでワシントン・ブレッツ(現ウィザーズ)から12位で指名された。

「ブルズに入ることは人生におけるハイライトのひとつ。そこでマイケル・ジョーダンと一緒にプレーすることを知って、マジか! っていう信じられない気分になった」

【ブルズ3連覇時をはじめ自身の地位をNBAで確立】

 ブルズに入団した当初、グラントと同じポジションにはリバウンドで絶対的な強さを持ち、ジョーダンからの信頼度も厚かったチャールズ・オークリーがいた。しかし、ルーキーシーズン終了後にオークリーがニューヨーク・ニックスにトレードされたことにより、グラントは2年目から先発の座に定着。ドラフト同期のピッペンと構成するフォワード陣として成長し続けたことにより、ブルズは、NBA3連覇を目指していた宿敵デトロイト・ピストンズをカンファレンス決勝で倒し、1991年から3連覇達成するのに貢献したのである。

 グラントはオールディフェンシブ・セカンドチームに4度選出されるなど、すばらしいディフェンスと泥臭い仕事でチームを支えるタフなビッグマンとして、ジョーダンとピッペンを支えた。しかし、ディフェンスのスペシャリストというわけではなく、中距離のジャンプショットを着実に決めるなど、オールスターに選ばれた1993−94シーズンの15.1得点を最高に、9シーズン連続(1988-89~1997-98)で12得点以上のアベレージを記録している。

 チームを勝利に導くプレーができるバスケットIQの高さも、グラントの強みだった。特に印象的だったのはフェニックス・サンズを倒し、3連覇を果たした1993年NBAファイナルの第6戦。2点ビハインド、試合時間残り数秒の土壇場でジョン・パクソンが逆転の3Pショットを決める直前、グラントはドライブしたピッペンからゴール近くでボールをもらった。そのとき、ヘルプディフェンスが来たこと(自分をマークしている選手以外の選手がやって来てふたりがかり守ろうとすること)を瞬時に、冷静に察知すると、オープンになっていたパクソンを見つけアシストしたことだ。

そのプレーはまさにグラントが賢い選手であること、そしてチームメイトを信頼していることを証明するプレーだった。

 1980年代、マジック・ジョンソンを軸にショータイムと呼ばれたロサンゼルス・レイカーズとラリー・バードを擁したボストン・セルティックスがNBAを牽引。この2チームを倒したあとにピストンズが2連覇を成し遂げたが、3連覇を達成することはできなかった。

 それゆえ、レイカーズ、ブレイザーズ、サンズを倒しての3連覇に貢献したグラントは、その道のりの大変さを次のように語っている。

「最初のチャンピオンシップを獲得したあとは、対戦したどのチームよりも2倍、時には3倍以上タフに戦わなければならなかった」

【マジック、レイカーズでも存在感を発揮】

NBA伝説の名選手:ホーレス・グラント 歴史に残るスーパースターの成長に欠かせなかった最高のロール・プレーヤー
ゴール下の泥臭いプレーを担うことで、オニール(右)などのスター選手を支えた photo by Getty Images

 メジャーリーグに挑戦するためにジョーダンが引退した状況で臨んだ1993−94シーズン、グラントはピッペンとともにブルズを牽引。しかし、プレーオフではカンファレンス準決勝でニューヨーク・ニックスに敗退した。

 グラントはその年の夏にフリーエージェントになるとブルズから去ることを決断し、シャキール・オニールとペニー・ハーダウェイという新時代のワンツーパンチを擁するオーランド・マジックと契約し、話題を呼んだ。人生のなかで下した最も困難で難しい決断というグラントだったが、「シャックとペニーというすばらしい才能を持つ若いチームに、私の知識と経験をもたらす絶好の機会だった」という理由で、ブルズを去ったのである。

 グラントの心身両面でのタフさと経験値は、マジックがプレーオフを勝ち上がるために欠かせない要素となった。1995年のカンファレンス準決勝では、メジャーリーグ挑戦を断念してNBAに復帰したジョーダンがいるブルズと対戦。フィル・ジャクソンコーチはグラントにショットを多く打たせる戦略を採用したが、グラントはその心理戦に負けず、FG成功率64.7%という高確率で平均18得点、11リバウンドという大活躍でシリーズの勝利に貢献したのである。

 カンファレンス決勝でインディアナ・ペイサーズを倒してNBAファイナルに進出したが、マジックはアキーム・オラジュワンを擁するヒューストン・ロケッツにまさかの4連敗。

この敗退をきっかけにマジックは、それまでの機運が下がり始める。

 次のシーズンもカンファレンス決勝まで勝ち上がったが、グラントは第1戦でひじを痛めた影響でプレーの質が落ちてしまう。そのような状況のなか、前年の雪辱に燃え、このシーズンの公式戦を72勝10敗と史上最高成績(当時)を残していたブルズに太刀打ちでずに4連敗でシーズン終了。1996年夏にオニールがFAでレイカーズに移籍し、新たな転換期を迎えるなか、グラントはマジックの中心選手としてフロントラインを牽引したが、ロックアウトで短縮された1998−99シーズン終了後にシアトル・スーパーソニックスに移籍した。

 2000年9月に4チームが絡んだトレードにより、グラントはレイカーズに移籍。ブルズ時代の恩師であるジャクソンHCのもと、再びオニール、そしてコービー・ブライントらを支える役割を担い、35歳ながら77試合に先発して平均8.5点、7.1リバウンドを記録した。フィラデルフィア・76ersとのNBAファイナルでも24.8分間で5.2点、5.6リバウンドと堅実な働きで、自身4度目となるチャンピオンシップリングを獲得。その後はマジックで2年、レイカーズで1年在籍したあと、2004年のNBAファイナル後に38歳で現役を引退した。

 決して派手ではなく、主役になる選手ではなかった。だが、キャリアを通して、ジョーダン、オニール、ハーダウェイ、コービーらの歴史に残るスーパースターたちの成功に欠かせないロールプレーヤーとして役割を果たしたことは間違いない。

NBA伝説の名選手:ホーレス・グラント 歴史に残るスーパースターの成長に欠かせなかった最高のロール・プレーヤー
2001年にはレイカーズで自身4度目の優勝を経験 photo by Getty Images

【Profile】ホーレス・グラント(Horace Grant)/1965年7月4日生まれ、アメリカ・ジョージア州出身。1987年NBAドラフト1巡目10位指名。


●NBA所属歴:シカゴ・ブルズ(1987-88~1993-94)―オーランド・マジック(1994-95~1998-99)―シアトル・スーパーソニックス(1999-2000)―ロサンゼルス・レイカーズ(2000-2001)―オーランド・マジック(2001-02~2002-03)―ロサンゼルス・レイカーズ(2003-2004)
●NBA王座4回(1991~93、2001)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

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