前編:河村勇輝のアメリカ挑戦1年目総括
アメリカ挑戦1年目の河村勇輝がメンフィス・グリズリーズの2ウェイ契約選手として、2024-25シーズンに何をつかんだのか。河村は昨年10月25日、ヒューストン・ロケッツ戦で初出場を果たし、日本人史上4人目のNBAプレーヤーになった。
【当初の予想を覆し、快進撃を続けた1年】
1年目の河村がアメリカで確かな爪痕を残したことは間違いないだろう。メンフィス・グリズリーズと9月にキャンプ参加を前提にしたエグジビット10契約を結んでも、当初はプレシーズン中の解雇が規定路線であり、"10月12日前後にカットされる"とおおよその日程まで決まっていた。それにもかかわらず、キャンプとオープン戦で力を見せることで評価を上げ、サバイブ(survive)し続けていった。開幕前に2ウェイ契約を結ぶと、10月26日には早くも田臥勇太(現・宇都宮ブレックス)、渡邊雄太(現・千葉ジェッツ)、八村塁(ロサンゼルス・レイカーズ)に続く日本史上4人目のNBAプレーヤーになった。
今季のNBAでは最も小柄な173cmという体躯ながら、上昇気流に乗ったかのような快進撃は見事としか言いようがない。これほどのスピードで当初の大目標を達成できたことに関し、河村自身も「NBAはずっと夢の舞台でしたし、まずはそこのメンバーの一員になれたことは光栄なことです」と素直に喜びを語っていた。
NBAデビュー後も健闘を続け、特にGリーグでは平均12.7得点(FG成功率38.3%、3P成功率36.5%)、8.4アシストをマーク。Gリーグのオールスターにも選ばれ、今季は同じくGリーグで奮闘した盟友・富永啓生(インディアナ・マッドアンツ)と"夢の球宴"の舞台でフロアをシェアしたことは、ハイライトのひとつにもなった。
こうして躍進を続ける過程で、24歳のダイナモ(PG)は"メンフィスのカルトルーキー"として人気の存在になっていく。まだ新大陸ではほとんど実績がないルーキーだったにもかかわらず、大きな知名度を得たのはほとんど異例のことだった。
「私がこれまで見てきた選手のなかでも、コートでみんなの目が引き寄せられるような存在はほんのわずかしかいない。それがユウキなんだ」
TC・スワースキーヘッドコーチ(HC)は今季終了後、Gリーグの公式YouTubeチャンネルで公開された動画内でそう述べていた。それは指揮官が自軍の選手に肩入れしたがゆえの言葉ではなかったはずだ。
Gリーグでの数字がすばらしいだけでなく、一瞬でディフェンダーを置き去りにするスピード、ノールックパスなどの派手なプレーには一見の価値があった。意外性に満ちあふれたパスワークは話題となり、お金を払っても見たいとファンに感じさせる稀有なファンタジスタだった。実際に河村の自由奔放なプレーと卓越した存在感に魅了されたのは、その活躍を楽しみにする日本のファンだけではなかった。
「コート上でも人々がなかなか見慣れないことができる。クイックネス、パス能力、創造性。チームを第一にするところもありがたい。チーム重視であることでも、みんなに感謝されている。周囲のみんなもそんな彼の姿を見て、自分もチーム第一でいなければいけないと感じられるんだ」
そういったスワースキーHCの言葉に、グリズリーズ、ハッスルでの軌跡を追いかけた者なら、誰もが納得するはずだ。
【取材を通して感じた河村の責任感と自覚】
個人的に今季の河村を見ていて感じたのは、自分自身を日本、アジア、そして小柄な選手の代表ととらえる責任感、自覚だった。
日本語だけでなく、発展途上での英語でのコミュニケーションも抜群にうまかったことも忘れてならない。Gリーグではマオ・ペレイラ、NBAでもグリズリーズのエース、ジャ・モラントとは非常に親しい関係になった。こうしてチーム内外で人気者になったのは、背後の努力ゆえであることは河村本人のこんな言葉からも伝わってくる。
「英語をもっと話せないと、より深いコミュニケーションを取れるようにならないとPGとしてやっていけない、というふうに思っていました。英語のコミュニケーションのための時間の割き方もしっかりと考えて、これまで生活してきました」
アメリカを拠点にするプロバスケットボール選手としてできることはすべてやり、駆け抜けていった1年間。NBAとGリーグを行き来し、研鑽を積む日々がハードだったことは、4月27日に日本メディアを相手に行なわれた今季最後の会見での河村の言葉が物語っている。
「アメリカに来てからは本当に1日1日、無駄にすることなくというか、このNBAという厳しい世界で、カットされるかもわからない状況のなかで、後悔だけはしたくないって気持ちは常に持っていました。
その気持ちを常に持ち続けて今シーズンやってきたのもあってなのか、この1シーズン、本当に早く感じました。アメリカに来たのがつい数日前のような感覚。それくらい充実した毎日を送ってきたんだなっていうのは昨日、シーズンが終わってからあらためて感じました」
Bリーグ出身の選手として初のNBAプレーヤーになるとともに、さまざまなことを吸収していったシーズンだった。
つづく