NBAレジェンズ連載49:ペニー・ハーダウェイ
プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。
第49回は、アンファニー"ペニー"・ハーダウェイを紹介する。
【ドラフト当時のトレードでシャックとのデュオ誕生】
1971年7月18日、テネシー州メンフィスで生誕したアンファニー・ハーダウェイは、9年生(日本の中学3年生)まで祖母ルイーズによって育てられ、途中メンフィスを離れていた母フェイが戻ると3人で暮らした。
ニックネームの"ペニー"は、ルイーズが孫の可愛さから「プリティ」と言っていたのをハーダウェイの友人たちが聞き間違えたことがキッカケで定着したという。幼少期を過ごしたビングハンプトンはメンフィスでも危険な地域だったが、祖母の献身的な支えもあってドラッグなどの悪事に手をつけることなく育っていった。
マジック・ジョンソンやラリー・バードのプレーを参考にノールックパスなどアシストすることを楽しんでいたハーダウェイは、地元トレッドウェル高校時代にはテネシー州の年間最優秀アスリート賞に2度も選出されるほど注目を浴びる存在となった。その一方で、勉強へ熱心に打ち込んでいなかったため、大学からの奨学金をもらえず自費でメンフィス・ステイト大学(現メンフィス大)へ進学した。
1年次は学業成績不振により試合に出られなかったものの、2年次に満を持してデビュー。平均17.4得点、7.0リバウンド、5.5アシスト、2.5スティール、1.3ブロックと1年目の鬱憤を晴らす活躍を見せた。
2年次を終えて迎えた1992年夏。バルセロナ・オリンピックで招集された"ドリームチーム"との練習相手に選抜されたハーダウェイは、マジック・ジョンソンから「まるで自分を鏡で見ているようだ」と称賛された。すると3年次には平均22.8得点、8.5リバウンド、6.4アシスト、2.4スティール、1.2ブロックと、全米有数のオールラウンダーとなり、1993年のNBAドラフトへアーリーエントリーする。
1巡目全体3位でゴールデンステイト・ウォリアーズから指名されたハーダウェイは、その当日に全体1位指名のクリス・ウェバーと交換でオーランド・マジックへ移籍する。
1989-90シーズンにNBAへ参入したマジックは前年、ドラフト全体1位で "シャック"ことシャキール・オニールを指名。それまで一度も勝ち越しがなかったチームがシャックの加入で前シーズンより20も勝ち星を上乗せし、さらなる飛躍を狙っていた。そのためにはインサイドのシャックとコンビを組めるガードプレーヤーがほしかった。それゆえの戦略的トレードだった。
そのビッグマンと映画『Blue Chips』(邦題:ハード・チェック)で共演していたハーダウェイは、1年目の1993-94シーズンから良好な連係を見せ、平均16.0得点、5.4リバウンド、6.6アシスト、2.3スティールを残してオールルーキーファーストチーム入り。
「シャック&ペニー」のコンビが中心となったマジックはイースタン・カンファレンス4位の50勝32敗(勝率61.0%)という成績を残して残して球団史上初のプレーオフ出場を果たした。プレーオフはインディアナ・ペイサーズに3連敗で1回戦敗退(当時の1回戦は3戦先勝)となったが、チームは、1994年9月に穴だったパワーフォワードにシカゴ・ブルズの1990年代前期3連覇に大きく貢献したホーレス・グラントを補強。本格的に王座獲得へ向かい始めたが......。
【全盛期を迎え頂点に近づいたが......】

プレーオフでもマジックの快進撃は続き、カンファレンス準決勝では1995年3月に現役復帰したマイケル・ジョーダン率いるブルズを4勝2敗で撃破。カンファレンス決勝ではペイサーズを最終第7戦の末に倒し、球団創設わずか6年目でNBAファイナルに進出した。
飛ぶ鳥を落とす勢いで頂上決戦へ足を踏み入れたマジックに対し、ウェスタン・カンファレンスでは第6シードのヒューストン・ロケッツが上位チームをなぎ倒す下克上を起こしてファイナルに進出。
ハーダウェイはこのシリーズで平均25.5得点、4.8リバウンド、8.0アシストにフィールドゴール成功率50.0%、3ポイント成功率45.8%、フリースロー成功率91.3%と、初のファイナルで堂々たる数字を残すも、のちにこう回想している。
「僕らはうぬぼれていた。彼らのことはレギュラーシーズンで倒していたし、サンアントニオ(スパーズ/ウェスト第1シード)のほうがタフなマッチアップになると見ていたんだ。それにロケッツはベテランチームだったけど、自分たちのほうが優勢だと感じていた。レギュラーシーズンとプレーオフは違うものだったんだ」
1995年夏。ハーダウェイは、長身を駆使したポストプレーをさらに生かすべくウェイトトレーニングに励み、19ポンド(約8.6㎏)の増量に成功してトレーニングキャンプへ登場する。
チームはシャックがケガのため1995-96シーズン序盤戦の出場が絶望的となるも、ビルドアップしたハーダウェイがトップスコアラーとなって大暴れし、シャック不在の期間を17勝5敗の好成績で乗りきる。
シャック復帰後は再び超強力デュオを中心に白星先行で進み、今もなおフランチャイズ史上ベストとなる60勝22敗(勝率73.2%)を記録。プレーオフでも順調に勝ち上がったのだが、カンファレンス決勝で完全復活を果たしたジョーダン率いるブルズのリベンジに遭い、またもや4連敗のスイープでシーズンを終えることになった。
【ケガでキャリアが暗転も全盛期の輝きは今も変わらず】
するとシャックは1996年夏にFA(フリーエージェント)でロサンゼルス・レイカーズへ移籍。マジックはハーダウェイ中心のチームとなって1996-97シーズンの開幕2、3戦目にはジャパンゲームズでニュージャージー(現ブルックリン)・ネッツに2連勝を飾るも、その後"エース"が左ヒザの関節鏡手術を受けて離脱することになる。
マジックは1997、1999年にハーダウェイ中心の体制でプレーオフへ進むも、どちらも1回戦敗退。それでも、1997年は2連敗で追い込まれた第3戦で、ハーダウェイがプレーオフ自己最多の42得点、続く第4戦でも41得点の大活躍を見せて2連勝。逆王手に持ち込む。第5戦で敗れたとはいえ、ハーダウェイ自身は33得点の大暴れで相手を震え上がらせた。
だが、相次ぐヒザのケガが身体を蝕み、全盛時のキレは失われていったハーダウェイ。1999年夏のトレードでフェニックス・サンズへ移籍すると、ペニーの立ち位置はスーパースターから先発の一角、シックスマン、ベンチプレーヤーへと変わっていき、2007年12月にマイアミ・ヒートからウェイブ(保有権放棄)されて表舞台から去った。
レギュラーシーズン通算704試合出場でキャリア平均15.2得点、4.5リバウンド、5.0アシスト、1.6スティールをマーク。オールスターに4度、オールNBAチームに3度選ばれ、マジック時代の1990年代中盤はリーグを代表するスーパースターのひとりだったことは誰もが認めるところだ。
得点・リバウンド・アシストの3拍子そろったオールラウンダーとして一世を風靡した長身PGは、甘いルックスとしなやかな肢体から繰り出すノールックパスや鋭いパスさばき、豪快なダンク、ポストプレーで見せる華麗なステップワーク、流れるような美しいジャンパーなど、どれも華やかでシルエットも絵になった。
2017年1月。ハーダウェイはマジックで球団殿堂入りを果たし、2023年12月末には2024年のバスケットボール殿堂入りの追加候補としてノミネートされた。現在は母校の指揮官を務める男は、2021年に『スポーツ・イラストレイテッド』とのインタビューでこう話していた。
「選手として、私はおそらくトッププレーヤーのひとりではありません。ケガをしてしまいましたから。けど、歴代屈指の選手のひとりなんだと知らしめるために十分やっていました」
一時はNBAチームの新たな指揮官候補にも挙がっていたハーダウェイは、Xアカウントで約10.9万人、インスタグラムでは約46.4万人のフォロワーがいるように今でも人気を博している。
相次ぐヒザのケガによって全盛時こそ短期間に終わってしまったが、"ペニー"のプレーには華があり、観たことがある人ならば誰もが一度は酔いしれたはず。引退から15年以上が経ってもSNSで定期的にハイライトが流れていることは、この男がどれだけ愛されているかを十分に表わしていると言っていいはずだ。
【Profile】アンファニー"ペニー"・ハーダウェイ(Anfernee"Penny" Hardaway)/1971年7月18日生まれ、アメリカ・テネシー州出身。1993年NBAドラフト1巡目3位(ゴールデンステイト・ウォリアーズ)。
●NBA所属歴:オーランド・マジック(1993-94~1998-99)―フェニックス・サンズ(1999-2000~2003-04途)―ニューヨーク・ニックス(2003-04途~2005-06)―マイアミ・ヒート(2007-08)
●NBAファイナル進出1回: 1995年/オールNBAファーストチーム:2回(1995、1996年)
●五輪代表歴:1996年アトランタ大会(優勝)
*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)