【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.3
瀬古利彦さん(前編)
陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。五輪の大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。
そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回はマラソン戦績15戦10勝と無類の強さを誇った瀬古利彦さん。全3回のインタビュー前編は、一浪の末に入学した早稲田大学での恩師・中村清監督との出会い、宗兄弟とのライバル関係、そして、日本のボイコットにより出場が幻に終わったモスクワ五輪までの歩みを振り返ってもらった。
【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶
【恩師との出会い。いきなりマラソンを勧められた】
瀬古利彦は四日市工業高校を卒業後、1年間の浪人生活を経て、1976年に早稲田大学に入学した。
高校時代は中距離がメイン。インターハイでは800m、1500mで2年連続二冠を達成した。早大でもトラック種目をメインにと考えていたが、入部直後、中村清コーチ(当時、のちに監督)に「君、マラソンをやりなさい」と勧められた。「マラソン?」と困惑する瀬古に、中村コーチはこう続けた。
「君は脚が長くない。脚の長い欧米人にスピードで勝てるわけがない。でも、マラソンで800mのスピードを生かせば世界一になれるから、私についてきなさい」
とはいえ、瀬古も「はい。
「浪人している間に体重が8㎏も増えて、それでも運よく早稲田に受かって、競走部に入れたけど、もともと800mがメインじゃないですか。マラソンなんて想像もつかないんですよ。ただ、太ったまま陸上をしても潰れるなって思っていたので、どうせ潰れるならコーチの言うことを聞いてみようかなと思ったんです。でも、体重が増えていなかったら、たぶん反発していたでしょうね(笑)」
マラソンをやると決めたが、その前にやることがあった。浪人生活でなまった体と増えた体重を、陸上競技ができる体に戻していく必要があった。
「3カ月で8㎏落としたんですけど、食事は昼抜きで、朝夕のみ。米はほとんど食べず、毎日、2、3時間のウォーキングをしていました。腹が減ってどうしようもなかったけど、とにかく体重を減らしたいので必死でしたね。体重が落ちてきた6月くらいから箱根駅伝に向けての練習を始めたんです」
【早大1年時にマラソン初挑戦】
地元の四日市がコースの一部で、高校時代に補助員をした全日本大学駅伝にはなじみがあったものの、当時まだテレビ中継のなかった箱根駅伝は、瀬古にとって「聞いたこともない」大会だった。
11月に中村コーチが監督に昇格すると、瀬古は箱根駅伝の2区を走ることに決まった。初の箱根は直前にケガをしていたこともあって区間11位に終わった。そこから2月13日の京都マラソンに向けての練習を始めた。
「(初めての)マラソンまで1カ月ちょっとしかない。なんとかしなきゃいけないっていうので、40kmを2回走ったんです。それでレースに出たんですが、マラソンなんてどう走っていいのかわからない。30km過ぎから足がキツくなって、39kmあたりからフラフラでした。こんなにつらいことは二度とやらない。100回ぐらいそう思いました」
タイムは2時間26分00秒。瀬古いわく「失敗レース」だった。
「でも、それがよかったです。マラソンをなめたらいけない。しっかり練習をしないといけないとわかった。それから気持ちを入れ替えて練習をするようになりました」
大学2年になると、中村監督の指導は厳しさを増していった。競走部の練習が休みの月曜日も、明治神宮外苑や代々木公園で走った。
「その頃、監督に『2年後(の1980年)にモスクワ五輪があるから。逆算して練習していくぞ』と言われたんです。最初は全然ピンとこなくて、『五輪? えっ?』って感じでした。でも、監督がそう言うならついていくしかないなと、ちょっと軽く考えていました」
そうして迎えた12月の福岡国際マラソンは5位。ようやく走れる体になってきた感覚をつかめた。だが、この時はまだモスクワ五輪をはるか遠くに感じていた。「いける」と思ったのは、3年の夏だった。ヨーロッパ遠征中に5000mのレースで優勝し、自分の現在地を確認することができた。その流れで再び福岡国際マラソンに出て、宗茂やソ連の星といわれたレオニード・モイセーエフに勝って、マラソン初優勝を果たした。
【ライバルである宗兄弟との激闘】
この時、五輪への道がはっきりと見えてきたが、ライバルも強かった。中村監督から聞かされた、1976年モントリオール五輪前に双子の宗兄弟(茂、猛)が行なっていた練習はとんでもないものだった。40km走を1日に2本走ったり、5000mのインターバル走を8本やったり、きつい合宿の最終日に42kmのタイムトライアルをしたりといった具合だ。
「監督からは『お前はこういう選手と戦わないといけないんだ』と言われて。私も宗さんに勝てば世界一になれると思ったので、頭の中にはずっと宗兄弟がいました。強い彼らふたりと戦うために、僕も中村監督とふたりで戦う覚悟でいました」
そこまで監督を信頼し、ついていこうと思えたのはなぜなのか。
「中村監督は予言者なんです(笑)。監督の言うことをしっかりやっていたら、結果が出るんです。無理だなって思っても、やり続けることでできるようになっていく。そう信じられるようになる。でも、監督からすれば私を手玉にとることなんて簡単なんですよ。もともと軍人(陸軍士官)だったので、私みたいな若い隊員を大勢束ねていたわけですから」
中村監督は、瀬古の宗兄弟へのライバル心をたきつけた。冷たい雨が降るある日、瀬古が「(予定していた)40km走を翌日にしたい」と弱気な言葉を漏らせば、監督からは「宗兄弟は宮崎で40kmを走っているぞ」と言われた。そうして地獄のような練習を継続して迎えた大学4年時の福岡国際マラソン(1979年)は、翌年のモスクワ五輪の代表選考を兼ねていた。
瀬古vs宗兄弟の対決がクローズアップされたレースは、35km過ぎに宗兄弟と瀬古の3人になり、40kmで宗猛がスパートし、宗茂が続いた。
「離されたとき、(自分がゴールするのは)3番かなと思ったんです。でも、思ったほど離れず、ある時、ふたりとも後ろを振り返ったんですよ。ということは、脚に疲れがきているはずだと直感し、そこからはもう絶対に勝つぞと思って前を追いました」
土壇場でふたりを抜き、大接戦を制した瀬古は2年連続での優勝と、モスクワ五輪の男子マラソン代表の座を射止めた。そして、その激闘から1カ月も経たないうちに、瀬古は箱根駅伝の2区を走り、自身が前年に出した区間記録を更新しての区間賞を獲得した。
「マラソンの後の箱根は、なんとも思わなかったですね。むしろマラソンの半分でいいんだ、ラクだなと思っていました。正直なところ、私にとっての箱根はマラソンのための練習でした。監督からは『(早大の)他の選手にとっては箱根しかないんだから、お前は彼らをちゃんと助けないといけない』と言われていました。私としても、相手が宗兄弟ではなく、学生なので勝てなかったからおかしいですし、練習としてしっかり走ろうと思っていました」
【「日本がノーと言ったら、お前もそれに従いなさい」】
だが、その最後の箱根を終えた頃から、モスクワ五輪への日本代表選手の派遣の雲行きが怪しくなる。5月24日、日本のモスクワ五輪のボイコットが決定。JOC(日本オリンピック委員会)総会の場には、柔道の山下泰裕をはじめ多くの日本代表選手が駆けつけ、撤回を涙ながらに訴えた。
「私も行って自分の思いを伝えたかったんですけど、監督には『お前は行くな。
早大を卒業し、エスビー食品に入社直後の瀬古は、大学時代に決めた「五輪を走る」という目標を理不尽とも言える、思いがけない理由で奪われた。この日のために1日も休まず、厳しい練習をこなしてきた。やりきれない思いを抱え、4年後のロサンゼルス五輪に目標を切り替えたものの、またあの苦しい4年間が続くのかと思うと、少し休みたいという気持ちも生まれてきた。
そして、それは意外な形で実現することになった。
(つづく。文中敬称略)
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瀬古利彦(せこ・としひこ)/1956年生まれ、三重県桑名市出身。四日市工業高校から本格的に陸上を始め、インターハイでは800m、1500mで2年連続二冠を達成。早稲田大学へ進み、箱根駅伝では4年連続「花の2区」を走り、3、4年時には区間新記録を更新。トラック、駅伝のみならず、大学時代からマラソンで活躍し、エスビー食品時代を含めて、福岡国際、ボストン、ロンドン、シカゴなど国内外の大会での戦績は15戦10勝。無類の強さを誇った。五輪には1984年ロサンゼルス大会(14位)、1988年ソウル大会(9位)と二度出場。引退後は指導者の道に進み、2016年より日本陸上競技連盟の強化委員会マラソン強化戦略プロジェクトリーダー(マラソンリーダー)に就任。MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)を設立し、成功に導いた。自己ベスト記録は2時間08分27秒(1986年シカゴ)