井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち07:高橋ナオト
世界チャンピオンの戦いばかりが、プロボクシングでは無論ない。無冠であったとしても、偉大なボクサーは数えきれないほどにいる。
【鮮烈な日本王座奪取で一気にスターに。そして早すぎるスランプ】
19歳の才気がボクシングファンの熱狂を呼び寄せたのは1987年2月1日、日本バンタム級王座に挑んだ戦いだった。この日まで10戦10勝(6KO)。
相手のチャンピオンの今里光男(トーアファイティング)は、思いきりのいい攻撃を武器にこのタイトルを2度獲得、合計7度の防衛を果たしてきたベテラン。経験の浅いボクサーにとってはたやすく乗り越えられる壁ではなかった。だが、高橋の戦いは完璧だった。
体をのけぞらせてかわすスウェーバック、頭をかがめて頭上で相手のパンチを空振りさせるダッキング。鋭敏な守りでチャンピオンの強打を次々に空転させていく。さらに対戦者との位置関係をすばやく自分有利へと展開できるステップも見事。スムーズな動きに乗せて繰り出すパンチは、どれもこれもが鋭い。
5ラウンド、右アッパーカットでチャンスをつかむと、反撃してくる今里に右ストレートを決めてダウンを奪う。立ち上がり、戦闘意欲がなお旺盛な王者と臆することなく打ち合うと、最後は左フックで仕留めた。4カ月後のリターンマッチも、左フックでもっと豪快なフィニッシュを決める。
活きのいい俊英の出現に、ボクシング界は沸き立った。
ただし、そんな高橋のバンタム級王座は意外なほど短命に終わる。87年10月、伏兵とも言えた小林智昭(角海老宝石)に、カウンターにはやるところをうまく突かれて判定で敗れ、王座から陥落した。88年1月、小林が世界王座に挑むために返上した日本王座決定戦では、これも稀なる才能を謳われた島袋忠(石川)に、大の字に寝たままカウントアウトされる悲惨なKO負けも喫した。
スターダムへの入り口で直面した、大きなスランプだった。
原因は極度の減量苦だ。試合が近づくと、食べるのは焼いた椎茸だけだったという。まだ、二十歳のあたり。体は着実に大きくなっていた。試合直前まで、勤務先の弁当工場で製造ラインに入りながらの減量だけに、心身ともどもさぞやつらかったに違いない。
だが、スーパーバンタム級転向の意向が示されると、ボクシングファンはすぐさま新しい可能性を信じ始める。バンタム級とスーパーバンタム級の体重差は約1.8kgにすぎない。ギリギリまで無駄な肉を削り落として戦うボクサーの体は、たったそれだけでもまるで違う形に造形できる。そして高橋のボクシングには、すでに"カリスマ"の香りが匂い立っていた。階級を変えれば、さらにすごいナオトが見える、とファンのだれもが信じた。
【一瞬のカウンターを狙う激闘派へと変身】
高橋が高校生になってすぐに入門したアベジムは、東京都調布市にあった。阿部幸四郎会長は戦前、短い期間、プロで戦い、戦後、レフェリーになった。頑固一徹のレフェリング、採点で知られ、指導者としては技巧派をよく育てた。弟子たちは技巧的に有利な足場を作り、やがて自然な形でKOを作り出した。だが、どういうわけか、やがて攻防兼備の教え子が、激闘型へと姿を変えるもことも少なくなかった。
高橋もそうだった。しっかりとできていたはずの「打たせないで打つ」技術をはみ出して戦うようになっていく。ギリギリのタイミングでかわすディフェンスをやがて囮(おとり)に使い始め、一瞬のスキを狙うカウンターばかりが攻防の軸になっていった。
左フックで、あるいは右ストレートで、対戦者が壊滅的なダメージを被るノックアウトを何度も見た。ただし、自らも派手なノックダウンを何度も食らうようになっていった。このボクサーは危険な術の使い手だと知りながらも、私を含むボクシングファンのことごとくが、喝采を送った。
【逆転に次ぐ逆転――マーク堀越との史上最大の戦い】

そんな高橋の最高傑作が、89年1月22日の後楽園ホール、マーク堀越(八戸帝拳)との戦いだった。スーパーバンタム級に転向して3連勝し、はっきりと復調してきていた高橋が、黒人の日本チャンピオンに挑んだ。
青森県の三沢基地で働くマークは逆三角形の見事な肉体を持つ。基地のパーティーの余興では裸でポージングすると、女性たちがヤンヤの喝采を送り、10ドル紙幣のおひねりがビキニショーツに鈴なりになった。その体、見かけ倒しではない。とことんパワフルなパンチを生み出した。2年前の王座決定戦でKO勝ちして獲得したタイトルを6度、すべてKO・TKOで守っている。
マーク対高橋。
スリル満点のライヴ・ミュージアム本格的開演は3ラウンド終了間際。マークの左フックから右ストレートで高橋は棒立ちになる。ゴングに救われた高橋だが、4ラウンドにさらなる猛攻にさらされ、1分近くロープを背にした戦いを強いられた。だが、反撃の右ストレートで展開は一転した。足がもつれるチャンピオンに再び右を突き刺すと、背中からロープ最下段に叩きつけるダウン。マークはなんとか立ち上がるが、2度目のダウンも喫する。
だが、マークは負けてはいない。5ラウンド以降、そのパワーでじりじりと盛り返す。高橋ははっきりと追い込まれていく。
だが、勝負の軍神はまたしても新しい運命の杖を振った。
9ラウンド。足がもつれ、ロープ際に追い詰められた高橋の左フックで、マークの歩様が崩れる。右ストレートでダウン。さらに最後のワンツーストレート。激しく倒れたマークは立ってもふらつき、ヒザを落とす。それでもファイティングポーズをとるが、レフェリーのカウントはそのまま10に達した。9ラウンド2分42秒。予測不能のシナリオは大団円のうちに終了する。
ピンチとチャンスが激烈な形で、しかも何度も交錯した果ての信じられない結末。あの時の後楽園ホール、熱狂のるつぼというありきたりな言葉以外に表現の術を知らない。ファンが放つ歓喜の叫びは、長い間、鳴り止まなかった。
この日から高橋は「逆転の貴公子」と呼ばれるようになった。だが、一代の名作に対する苦い代償はやがてその戦いににじみ出てくる。
90年2月11日の東京ドームだった。マイク・タイソンがジェームス"バスター"・ダグラスに大番狂わせのKO負けを喫した同じリング、前座で登場した高橋は、半年前、これまたド派手な逆転で下したノーリー・ジョッキージム(タイ)に6度ものダウンを喫して大敗する(判定負け)。さらに91年1月12日、フェザー級に転じ、韓国チャンピオンの朴鍾弼(パク・ジョンフィル)との対戦では4度のダウンを奪われ、9ラウンドにKO負け。
自力で立ち上がれない高橋は担架で運び出された。あの時、後楽園ホールの大多数の観客は帰路につかず、沈黙の中にただ立ちつくし、高橋の姿を見送った。空前のドラマの主人公へ送られた無言のレクイエムだった。
高橋はそのまま引退した。25歳。キャリアは7年。"才能のありったけ"をノックアウトにつぎ込んだ名ボクサーとの、あまりにも短すぎ、若すぎる別れだった。