日本ボクシング世界王者列伝:辰吉丈一郎 果てない勝負への純真...の画像はこちら >>

井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち08:辰吉丈一郎

 日本にプロボクシングが伝来して、およそ100年になる。その長い歴史のなかで、辰吉丈一郎(大阪帝拳)ほど愛されたボクサーはいない。

わずか8戦目、圧倒的なハイパフォーマンスとともにWBC世界バンタム級タイトルを勝ち取った。そして、その直後の悲運によって大幅に戦力を失いながら、果てなき勝負への純真をリング上に編んだ。

 人々の感涙と哀哭を次々に誘う真のスーパースター、「浪速のジョー」として君臨し続けた。
<文中敬称略>

【「ウソだよな。これが8戦目なんて」】

 主にボクシングファン限定のメディアが中心ながら、私が辰吉丈一郎について書いたのは、記事の大小合わせ、おそらく数十回は下るまい。

 そのうち、1991年9月19日、大阪・守口市民体育館、敗者の控え室の描写から書き出すのは、たぶん、2度目になる。あえてそうしたのは、地鳴りのような『タツヨシ』コールがなお届く舞台裏、WBC世界バンタム級タイトルを失ったグレグ・リチャードソンのスタッフと交わした言葉にこそ、辰吉というボクサーのすごさが表されていると思うからだ。

 10ラウンド終了直前、左フックをきっかけに集中打を浴び、グロッギー状態に陥ったリチャードソンは、11ラウンド開始ゴングが鳴ってもコーナーの椅子を立たず、会場は爆発的な興奮に渦巻いた。人々の大音声に空気が波動するのか、ほおや耳たぶが揺れた。あるいは、ほかの誰とも同じ興奮状態にあった私の錯覚かもしれないが、ボクシング会場でそんな経験をしたのはあとにも先にもこの時だけだ。私はリングサイドの記者席をすぐに立った。

 一刻も早くドレッシングルームに行きたかった。

人の波をかき分けながら、ただ一点だけを確認したかった。今、戦い終えたばかりの対戦相手、あるいはそのスタッフが、辰吉丈一郎というボクサーを、どう感じたのか。

 行き着いた会議室に、ほどなく33歳の前チャンピオンはひとりで帰ってきた。椅子にどさりと座り込むと、長い足をソファーに投げ出した。動作、表情には疲労感がにじんで見えたが、戦いの余韻からなのか、目はぎらついたままだ。たやすくは声をかけられない。数分の間を置いて、セコンドたちが帰ってくる。彼らはわれわれの顔を見るなり、言った。

「ウソだよな。これが8戦目なんて。そんなことがあるはずがない」

 間違いなくプロ8戦目だ、と答えると、「じゃ、アマチュアで200戦300戦やっているのか」と聞き返してきた。

「20戦足らず」

「ウソだ。

ウソに決まっている。ヤツは(ボクシングの)何もかもを知っていた。アメリカに帰ったら、ビデオでもう一度検証する」

 日本のファンと同様、彼らにとっても、辰吉の戦力はまさしく常識外だったのだ。

 スピード、ハードパンチ、フットワーク、そういった戦力面でケタ外れなら、戦いの処方箋とも言うべき、ペースメイク、勝負の勘どころまで、21歳の辰吉はまるで百戦錬磨の手練れに思えた。

 辰吉は序盤からスパートをかけ、チャンピオンを圧倒した。どのパンチも速く、鋭く、タイミングもすばらしい。さらに多彩な角度でコンビネーションブローを打ち込む。しっかりと主導権を奪い取ると、中盤戦は少し自重して長丁場に備える。ようやく、得意のジャブが当たり出したリチャードソンがかすかな希望を抱いたとたん、8ラウンドから辰吉は再びロングスパートをかけた。あらためて強打の洗礼を浴び、意気を完全にくじかれたリチャードソンはたちどころに消耗していく。そして、迎えた10ラウンドの危機。完膚なきまでに打ち崩された。

 辰吉はまだ21歳。プロキャリアは2年に過ぎない。それでもこの強さ。これから、どこまで舞い上がっていくのか。

 だが、この世界タイトル獲得の一戦こそが、辰吉のベストファイトだったのかもしれない。実は、この試合の7ラウンドに負っていた目の負傷が、辰吉のキャリアに大きく影を落とすことになる。そのことは、この文の後半で書きたい。

【17歳。すでに無限の可能性がきらめいていた】

日本ボクシング世界王者列伝:辰吉丈一郎 果てない勝負への純真を貫き続けた「浪速 のジョー」
辰吉はデビュー2年、わずか8戦目で世界の頂点に立った photo by AFLO

 辰吉の前半生は「成り上がりストーリー」のどまんなかにある。

 岡山県の海辺の町に育った。父ひとり子ひとりの少年時代、経済的に厳しい状況にあったが、そのころから腕は立った。負け知らずのケンカ自慢だったという。

「倉敷、岡山の中学生で辰吉の名前を知らない者はいなかった」

 辰吉と同年代の岡山の高校生ボクサーが証言していたのを思い出す。そういう少年にとって、ボクサーこそが天職だった。子どものころから、住んでいた団地の砂場でボクシングの練習をする父子の姿もよく目撃されていた。

 中学を出ると、大阪に出てジムに入門する。JR京橋駅構内にあった立ち食いそば屋で働きながら、修行を重ねた。

 16歳でアマチュア・デビューすると、すぐに話題になった。今のようにSNSがない時代でも、「関西にすごい新人がいるらしい」という話は、東京の私にまで伝わってきた。

 うわさの新人を最初に見たのは1987年秋の沖縄だった。当時、都道府県のチーム戦トーナメントだった国民体育大会(現・国民スポーツ大会)、その少年の部で、大阪を3位入賞に導いた戦いだ。東京から沖縄にボクシング留学していた有力選手を左ボディブローで仕留めた。記者席で慄然とした。これで17歳か。

何というタイミングで、こんなすごいパンチを打ち込めるんだ----。

 直後の社会人選手権で全試合KO・RSC(プロのTKO)勝ちで優勝したのを確認し、月刊『ボクシング・マガジン』は辰吉のインタビュー記事を企画する。大阪帝拳に出向いてきた私を見て、17歳の少年はこう言った。

「なんで僕なんですか? ただのアマチュアですよ」

 やがて、辰吉少年は巨大なサンドバッグを叩き始める。すごいと思った。

 何がすごいのか。言葉にするのは難しい。あえて言うなら、人を倒すためにもっとも最善なタイミングは、1秒の百分の一、いや千分の一にある。平凡な感覚、肉眼では決して見極めることのできない、そんな一瞬をピタリピタリと探り当てるように、辰吉の拳がバッグにめり込んでいく。またしても感動した。

 すっかり呆けて立ちつくす私を横目で見やり、「なんでやねん」。ツンデレにまた惚れた。

 それから2年後、プロデビューしてから、辰吉は一気に突っ走る。

 戦力はケタ外れだった。すでにカリスマも見えていた。何をやっても絵になった。対戦者を倒したあと、腕をグルグル回すパフォーマンスは、ちょっとした"おいた"でも、この男なら許せた。さらにずば抜けた解釈能力があった。厳しい試合を強いられても、次戦でしっかり矯正し、ステップアップした。わずか8戦目の世界挑戦に対しても、私を含むファンには、もう期待感しかなかった。

【感動のドラマは奇跡の王座復活で完結----】

日本ボクシング世界王者列伝:辰吉丈一郎 果てない勝負への純真を貫き続けた「浪速 のジョー」
キャリア序盤に負った左目の負傷とも付き合い続けた photo by Jiji Press

 こと技術面に関する限り、無限の夢はあっさりと潰えた。

「リチャードソン戦の7ラウンド、バッティングされて、左目が見えなくなった」

 のちにそう明かした辰吉は、1991年12月、初防衛戦を前に網膜裂孔が発覚し、試合はキャンセルになった。1年後にカムバックを果たしたものの、1993年、今度は網膜剥離と診断される。当時、日本のルールでは網膜剥離に罹ると即座に引退を宣告される。日本の生んだ最大級のスターに対しても、日本ボクシングコミッションの判断は厳しかった。ファンの声の後押しを受けたプロモーターサイドは、コミッションと何度も折衝を重ね、「特別な試合に限り」と特例処置を取りつける。

 だが、辰吉の試合は厳しいものばかりだった。ケタ外れのタフネスと変則的なパンチで荒れ回るビクトル・ラバナレス(メキシコ)とは1勝1敗。1994年にWBC暫定王者として正規王者、薬師寺保栄(松田)と統一戦を行なったときは、両者計3億4000万円のファイトマネーも話題になり、テレビ視聴率も瞬間最高が50%を超えた。だが、戦いは判定負け。

 次々に多彩な攻撃を仕掛けてくるサウスポー、ダニエル・サラゴサ(メキシコ)とはスーパーバンタム級に上げて戦い、連敗。それでも、ファンが辰吉を見捨てることはなかった。勝ったら最高、負けても劇的。誰もかれもがこの男の"とりこ"になっていた。

 1997年11月22日、19歳のWBCバンタム級チャンピオン、シリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)に挑む。もともと防御面が不安視されてきたが、そのころにはあからさまに被弾することも多く、戦前の予想は芳しくなかった。しかし、辰吉丈一郎こそ、リングの千両役者たることを、この一戦で証明してみせる。

 厳しいボディ攻撃で追い込んだ。5ラウンドには右ストレートでダウンを奪う。その後はチャンピオンの猛反撃に足もとを揺らしながらも、7ラウンド、左ボディブローで2度目のダウン。直後の集中打でレフェリーストップを呼び込んだ。奇跡的な王座奪回に、会場の大阪城ホールは10分以上も「タツヨシ」コールが鳴り止まない。あのとき、会場で泣き崩れた友人も複数名知っている。

 取り返したタイトルは2度防衛した。ウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)に2度敗れ、一度はリングを離れたが、その3年後にはカムバックもした。

 だが、ボクサー・辰吉丈一郎の物語は、シリモンコン戦の劇的勝利の瞬間で完結したのではないか。個人的にはそう思っている。

PROFILE
たつよし・じょういちろう/1970年5月15日生まれ、岡山県倉敷市出身。中学卒業後、大阪帝拳ジムに入門。2年後には社会人選手権で優勝するなど、アマチュアで19戦18勝(18KO・RSC)1敗のレコードを残し、1989年9月29日にプロデビュー。その当初から圧倒的な人気を集めた。4戦目で日本バンタム級タイトルを獲得。さらに1991年9月19日、グレグ・リチャードソン(米国)を10回終了TKOで破って、8戦目でWBC世界バンタム級チャンピオンになった。この一戦の直後に眼疾が見つかり、その後は苦しいキャリアとなったが、暫定を含めてさらに2度、同王座に就いている。身長164cm、リーチは178cm。右のボクサーファイター。28戦20勝(14KO)7敗1分。ニックネームは「浪速のジョー」

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