井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち10:畑中清詞
1980年代半ば、日本のプロボクシングは、どこかに憂鬱を湛(たた)えていた。世界チャンピオンが生まれてもポツポツと。
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【あまりに過酷だった世界初挑戦】
ボクシングは筋書きのないドラマと言われる。ただし、このスポーツの歴史を丹念に調べれば、ただの偶然が結果を支配したのはごくごく稀なケースに過ぎないことがわかる。あとで勝敗の成り行きをきちんと精算すると、より力のある者が戦いの勝者になる確率は、全試合の9割以上にも及ぼうか。
この一戦もそうだ。畑中清詞がついに念願の世界一の栄冠に輝いた1991年2月3日、WBC世界スーパーバンタム級タイトルマッチ。地元のヒーローは再三の危機に見舞われながら、最後は劇的に決着をつけた。偶発的な勝利では決してない。苦い経験を生かし、自らの闘志の在処に呼びかけ続けた結果である。だからこそ、勝利した畑中こそが、文句なしにより強い戦士だった。
畑中の劇的な勝利の前に、あまりに不本意な敗戦のほうを語りたい。遡ること2年半前(1988年9月)、同じく名古屋市笠寺のレインボーホール(現・日本ガイシホール)での世界初挑戦だ。21歳のボクサーはとことんまで"痛い"思いを味合わされた。
その時に挑んだ相手はWBC世界スーパーフライ級チャンピオンのヒルベルト・ローマン(メキシコ)。その後、交通事故によって28歳の若さで亡くなっているが、オールタイム最強のスーパーフライ級を選ぶとすれば、今でも上位にランクされるスーパーテクニシャンだ。前後、左右、その動きは寸暇のよどみもなく、あらゆる角度から、攻撃を仕掛け続ける。なおかつ、畑中はそのローマンの本領に直面する以前に、大きなハンディを負うことになる。
オープニングラウンドのことだ。背丈では劣るローマンが鋭く切れ込むと同時に右ストレート。畑中は面食らって背中からキャンバスに叩きつけられた。ダメージはさしてなかったが、痛かったのは、その直後。もみ合いからメキシカンの左フックが、トランクスのベルトライン下をえぐる。
いずれの時も5分間のインターバルが与えられる。だが、2度までも危険なローブローにさらされたわけだ。身も心も大きく消耗したに違いない。さらに、この痛みの対価として反則勝ちはなかった。遠い昔、ローブローによる反則決着は少なくなかったが、男子の下腹部を守るノーファウルカップの改良が進み、あからさまに意図的な反則打と判断されない限り、5分間の休憩後に試合再開に応じなければ、そのままTKO負けになる。畑中は初世界戦のプレッシャー、ハンディとともに戦うことを余儀なくされた。
しかし、畑中はローマンのすばやい攻防、考え抜かれた戦術に、打つ手が見つからない。
畑中は文字どおり、踏んだり蹴ったりの敗戦だったのだ。
【じっくりと力を整え、2度目の挑戦に】
畑中にとって、一度の挫折くらいで引き下がれるはずもない。自分の望みと等しいほどの周囲の期待があった。ずっとボクシング界をリードする東京、有力選手を間断なく輩出する大阪、その間、名古屋地区はいまひとつ、盛り上がらない。そんななかに登場した畑中こそが唯一の希望の星だった。
小学校に入ってまもなく空手を習い始めた。その格闘センスは生まれながらのものだったようで、小学生、中学生の大会で全国大会優勝の実績をつくる。
やがて、格闘技で身を立てようと思うようになる。その頃はキックボクシングが低調で、ボクシングに目が向いたのも当然の道筋だったろう。
空手の実績が認められ、推薦枠でアマチュアボクシングの名門、享栄高校に進んだ。
不敗の快進撃は続く。同期の新人王で天性のKOアーティストと評された高橋ナオト(アベ)とともに、早々とクローズアップされた。閃光のスピードというわけではなかったが、169cmと軽量級としては長身で、力強いジャブ、ストレート、タイムリーな左フックと、一見するだけで非凡な才能が見て取れた。
1987年2月、一撃強打には定評のあった丸尾忠(ワールドスポーツクラブ)が持っていた日本スーパーフライ級タイトルに挑み、3ラウンド、右ストレートを皮切りに3度のスタンディングカウントを奪ってKO勝ちし、初のタイトルを手にした。
畑中にはボクサーとしての魅力はもちろん、その立ち居振る舞いに華やかさがあった。だからなのか、ニックネームには、ボクシングスターの定番「尾張のロッキー」のほかに「東海のカマチョ」というのもあった。(ヘクター・)カマチョとはプエルトリコ出身の3階級制覇の世界チャンピオンで、変幻自在のトリックを織り込むスピードボクシングと、派手な私生活が伝えられた大スターだ。
急坂を駆け上がるように盛りつけられる実力、さらに人気を携えて、畑中はローマンに挑み、敗れた。じっくりと2度目の世界挑戦に備えることを余儀なくされる。無理な減量を避け、バンタム級に転向、さらにスーパーバンタム級に進出。世界挑戦経験を持ち、加えて、しぶとい戦いを持ち味にする李東春(グレート金山)、呉張均と2人の韓国選手と対戦し、地力を育んだ。1991年2月の2度目の世界アタックは、まさしく満を持してものだった。
【ワイルドな打撃戦の末に悲願の世界王座獲得】
チャンピオンはペドロ・デシマ(アルゼンチン)。1984年のロサンゼルス五輪バンタム級代表としてベスト8に入賞している。もともと技巧派が多いアルゼンチンでキャリアを積み、1988年からは米国でプロの技に磨きをかけた。ジャブを基軸にテンポよく攻防を組み立てるテクニカルなパンチャーだ。つい3ヵ月前、タフで鳴るポール・バンキ(米国)をTKOで破ってベルトを獲得したばかり。年齢的にも26歳と、これから充実の時を迎える。
ゴングが鳴ってから、いきなり試合を支配したのはデシマだった。細かいステップ、上体の動きに乗せて、ジャブ、ストレート、フックと的確なコンビネーションパンチで攻め立ててくる。立ち後れた畑中は、初回の終盤には右ストレートを被せられてダウンを喫してしまう。ローマン戦の嫌な記憶が蘇る。さらに2ラウンドからも、デシマのハイテンポな攻めが戦いの流れを占拠した。畑中がなかなか手を出せないのが、もどかしい。
4ラウンド、大きなヤマ場がやってくる。畑中の右ストレートが効いて、足もとがおぼつかなくなったデシマが大きく崩れる。追撃の連打で4度ものダウンを奪った。だが、倒れても、すぐに立ち上がってくるチャンピオンは5ラウンド以降もよく攻めてくる。激闘のラウンドは続く。
再び、戦いが動いたのは7ラウンド。畑中のタイムリーな左ジャブで、デシマはあっけなく倒れる。続く8ラウンド。再び左ジャブが打ち抜かれると、合計6度目のダウン。今度はレフェリーも続行を許さなかった。
驚くべき打撃戦の末に世界タイトルを手に入れた畑中だったが、栄華は長く続かない。4カ月後の1991年6月14日、ダニエル・サラゴサ(メキシコ)に判定負け。のちに辰吉丈一郎と熱闘シリーズを演じるサウスポーの巧技に、畑中は空回りした。判定こそ1−2と割れたが、完敗の内容だった。
試合後に右目眼筋麻痺が判明し、畑中はリングを去った。24歳。華のあるスターだっただけに惜しむ声も少なくなかったが、余分なリスクを背負わなかったのは、きわめて正しい判断だった。
引退後は指導者に転じ、畑中ジムの会長として、田中恒成を4階級制覇世界チャンピオンに導いた。さらに息子の元WBOアジアパシフィック・フライ級王者、畑中建人を親子世界制覇に向けてじっくりと育成中だ。自分自身の夢に執着することなく、新たな拳の野心に心を添える。ボクサーとして見事な第2の人生である。
Profile
はたなか・きよし/1967年3月7日生まれ、愛知県北名古屋市(旧・西春町)出身。少年期、空手の全国選手権で優勝し、ごく自然な成り行きでボクサーを目指す。享栄高校でインターハイ、国体に出場。全国制覇こそならなかったが、26勝(21KO・RSC)5敗の好成績を残す。1984年、高校在学中にプロ転向。87年に不敗のまま日本スーパーフライ級王座を獲得。翌年に15戦全勝(10KO)のレコードとともにWBC世界同級王座に挑むが、名うてのテクニシャン、ヒルベルト・ローマン(メキシコ)に判定負けを喫した。1991年、ペドロ・デシマ(アルゼンチン)との激烈なダウン応酬の末に8回TKO勝ちでついに世界王座(WBCスーパーバンタム級)にたどり着いた。初防衛戦に敗れた後、眼疾が判明して引退。身長169cmのボクサータイプ。25戦22勝(15KO)2敗1分。現在は畑中ボクシングジム会長。