杉本和陽六段インタビュー後編

(前編:藤井聡太棋聖との初タイトル戦 師匠の形見を羽織って挑み、「一番好きな瞬間」を体感した>>)

 ヒューリック杯第96期棋聖戦で藤井聡太棋聖に挑んだ杉本和陽(すぎもと・かずお/33歳)六段は、各局で奮闘するもストレートで敗れ、初のタイトル獲得とはならなかった。

 故・米長邦雄氏の「最後の弟子」と言われ、その師匠が永世称号を持つ棋聖戦に挑んだ杉本六段に、米長永世棋聖との思い出や、継承している思いを伺った。

【将棋】米長邦雄永世棋聖の「最後の弟子」杉本和陽六段が語る、...の画像はこちら >>

【記憶に残る、師匠の張り詰めた空気と威圧感】

 三段リーグの年齢制限が迫る25歳で棋士になり、棋士9年目で厳しい予選を勝ち上がって棋聖戦への挑戦権を獲得した杉本六段。藤井棋聖との対局には、師匠である米長永世棋聖の形見である和服を羽織って、初の晴れ舞台に挑んだ。

 2003年、12歳の時に小学生将棋名人戦で優勝し、その年の9月に棋士の養成機関にあたる奨励会に入会。そして、米長将棋連盟会長(当時)に弟子入りを志願した。厳しい選考の末に入門を果たした後に目にしたのは、師匠の「ある時は人間味に溢れ、勝負にはとことん厳格に向き合う姿」だったという。

「私がまだ奨励会で過ごしていた10代の頃、師匠に対局を見ていただいた時に厳しい目で将棋盤を見つめている姿や、極限まで張り詰めた空気感や威圧感がとても印象に残っています」

 米長永世棋聖の勝負に対する厳しさは、道場を離れた家庭内でも見られたという。杉本六段は「以前、師匠の奥様が私に話してくださったエピソードですが......」と前置きした上で、こう続けた。

「タイトル戦を戦っている時期は、老人のように痩せこけた姿で自宅に戻られるので、心労が垣間見える背中を見て、ご家族は心配されていたようです。対局に向けて、師匠が自宅の一室にこもって研究を続けるようになると、師匠の部屋には張り詰めた空気が漂っていて、奥様すらも踏み入れることができなかったとお聞きしました」

 かつて発表された「米長理論」でも勝利に対する並々ならぬ執着心が見受けられたが、師匠の信念と努力の積み重ねを知った杉本六段は、さらなる精進の必要性を痛感したという。

【米長永世棋聖の勝負への執着】

 杉本六段が、師匠の勝負に対する執着心を実際に目にしたのは、2012年1月に行なわれた最強将棋ソフト「ボンクラーズ」との将棋電王戦を控えた時期だった。

【将棋】米長邦雄永世棋聖の「最後の弟子」杉本和陽六段が語る、勝負に厳しかった師匠から受け継いだもの
杉本和陽六段の師匠、米長邦雄永世棋聖 photo by Sankei Visual

 ガンの病魔に侵されるなかで対局に臨んだ米長永世棋聖は、自宅にさまざまな年齢の棋士を招き、自身の将棋ノートにペンを走らせながら必死に勝利の糸口を探っていた。古くから米長永世棋聖を知る者にとって、その様子は7度目の挑戦で中原誠十六世名人を下した第51期名人戦(1993年)に臨む姿と重なるものがあったという。

 そして、その頃を知らない杉本六段にとっても、世紀の一戦を控えた師匠の姿は強烈に印象に残っている。

「師匠と過ごす日々のなかで、ノートの中身を偶然目にしたことがあるんですけど、そこには書ききれないくらいの文字量で、将棋の戦法や、その時に感じていた思いが記されていました。

師匠の勝負師としての執念を感じずにはいられませんでしたね」

 さまざまな解析を重ねてソフトとの対局に臨んだ米長永世棋聖は、2手目に「△6二玉」という奇策を披露し、見るものを驚かせた。

「おそらく『ソフトのプログラムが役に立たなくなるのではないか?』と考え、この手を打ったのかなと推測されます。どんな相手でも勝負にこだわり、勝利を目指す。師匠らしさが垣間見えた瞬間だったと思います」

 その後、中盤までは接戦を繰り広げたが、終盤にわずかな隙をつかれて敗戦。この対局からおよそ1年後の2012年12月、闘病の末にこの世を去った。

【「厳しい時代がやってきた」。AIが将棋に与える影響】

 その対局からAIは進化を続け、対局中継でAIによる優勢・劣勢の数値が登場する光景も一般的になっている。

 杉本六段は「近年の将棋は、棋士が『AIが考える最善の手にどのように近づくか』を考えることが主流になりつつあり、盤上も自分の個性や哲学を投影しにくくなっているような印象もあります。純粋に盤上の技術が評価されることになり、ある種の"将棋の真理"に近づいたのかもしれませんが......。棋士にとって厳しい時代が到来したのかなと思っています」と、私見を述べた。

 遡ること30年ほど前、まだ年号が平成だった1990年代は、杉本六段のような"振り飛車党"の棋士たちは「いかに相手の穴熊を組ませないか」を考え、勝利を積み重ねてきた。藤井猛九段は、四間飛車の一種である「藤井システム」を採用して第11期竜王戦(1998年)を制し、同タイトル初の3連覇を成し遂げた。

 対する"居飛車党"も、崩されない穴熊を組む方法を模索し続けた。代表格の羽生善治九段は「組んだら勝率9割以上」と言われる穴熊を武器にして、1995年に七冠を獲得。圧倒的な強さを誇ったが、いずれの戦法も近年はAIによる研究が進められ、かつてほどの威力は薄れつつあるという。

 そして、杉本六段が戦法に用いる「振り飛車」も、飛車を右翼に残したまま戦う「居飛車」と比べて、AI最盛期の現代においては洗礼を受けやすい傾向にある。

「私がかつて愛用していた『ゴキゲン中飛車』(飛車を5筋に振る中飛車戦法)は、特に厳しい評価を下されています。一方では、AIの高評価を背景に『ノーマル振り飛車』に再び注目が集まっていたりもする。総合的に見ると、AIの登場によってさまざまな戦法の研究が進み、将棋がより面白くなっているように感じます」

 そのように将棋界の現状を語る杉本は、自身の思いを続けた。

「私も使う『振り飛車』は、まだまだ研究の余地が残されていて、個性的な手も出しやすい。将棋の魅力が詰まっている戦法だと思っているので、これからも将棋を楽しみながら技を磨いていきたいです」

【米長永世棋聖の「最後の弟子」が師匠から受け継いだもの】

 杉本六段は、高校生だった17歳(2008年)で三段リーグに参戦を果たしたものの、後一歩でのところで昇格を逃すシーズンが続き、プロ棋士として認められる四段昇格を成し遂げたのは25歳で迎えた2016年だった。この時、「昇格できずに心配していた」という師匠はすでに鬼籍に入っており、活躍する姿を見せることは叶わなかった。

「対局では決して引かず、勢いのある将棋を指しなさい。そして、対局には絶対に迷いを持ち込まないようにしなさい」

 そんな米長永世棋聖の教えを胸に、プロ棋士のキャリアを歩み始めた杉本六段は、時に対局の勝敗に一喜一憂しながらも勉強を続け、今回の棋聖戦で初タイトル挑戦の機会を掴んだ。

 遅咲きの棋士がなぜ飛躍を遂げることができたのか。その一因には、杉本六段の勝負に対する向き合い方の変化が挙げられる。

「棋士である以上、日々勉強を続けなければならない立場にあることは承知していますが、目先の対局の結果に一喜一憂し、卑屈な感情を引きずってしまうような場面も少なからずありました。ですが、それでもできる限り早めに気持ちを切り替えて、いつでも穏やかに過ごすことを心がけるようにしてきました。

 生前の師匠がおっしゃられていた『日常生活では笑いが大切だ』という言葉を胸に刻みながら、師匠のような気品とユーモアを備えた棋士として、これからも歩み続けていきたいです」

 棋聖戦では、初の大舞台とは思えぬほどの粘り強い将棋で存在感を見せたが、藤井棋聖の前に勝利を手にすることはできなかった。

 それでも、「またこの舞台に戻ってこられるように精進したい」とカムバックを誓った33歳は、どのように実力に磨きをかけていくのか。米長永世棋聖の思いを受け継ぐ杉本六段の巻き返しに期待したい。

●杉本和陽(すぎもと・かずお)

1991年9月1日生まれ、東京都出身。米長邦雄永世棋聖門下。2003年9月に奨励会入会。2017年4月、年齢制限ギリギリの25歳で棋士に。棋風は終盤巧者で、劣勢になっても粘り強く、師匠譲りの"泥沼流"とも言われている。

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