Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第1回】ウーベ・バイン(浦和レッズ)

 Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。

Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。

 記念すべき第1回は、1994年から1995年まで浦和レッズに在籍したウーベ・バインを紹介する。旧西ドイツ代表としてワールドカップ優勝を経験した寡黙なレフティは、福田正博と強烈なホットラインを形成したのだった。

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浦和レッズの草創期を支えた「寡黙なレフティ」ウーベ・バイン ...の画像はこちら >>
 1993年の開幕直後のJリーグには、数多くのワールドカッププレーヤーが日本にやってきた。ワールドカップに出場したことがあるだけでなく、世界チャンピオンになった選手も。

 そのひとりが、ウーベ・バインである。1994年4月に同胞ギド・ブッッフバルトとの同時加入が発表され、バインは6月末に来日して記者会見に臨んだ。

 チームに合流した当初の肌感覚では、ブッッフバルトにより多くの注目が集まっていた気がする。ふたりとも1990年のイタリアワールドカップの優勝メンバーだが、ブッフバルトはレギュラーで、バインは控えのMFだったからだ。

 ブッフバルトはユーロ92でも主力を担い、来日直前の1994年のアメリカワールドカップにも出場していた。それに対してバインは、イタリアワールドカップが唯一の国際大会である。

 ただ、バインが浦和加入前に在籍したフランクフルトは、ブンデスリーガで4シーズン連続トップ3に食い込んでいた強豪だった。

さらには、ガーナ人ストライカーのアンソニー・イエボアが1992-93と1993-94シーズンに連続して得点王の座を射止めていた。

 フランクフルトのゲームメーカーだったバインは、イエボアのよきパートナーだった。そのことは当時、ドイツの専門誌『Kicker』から読み取ることができた。勤めていたサッカー専門誌の編集部が『Kicker』を定期購読して、記事を作る際の貴重な情報源としていたからだ。

【バインと福田のホットラインが完成】

 イエボアを得点王にしたこのレフティは、いったいどんな選手なのか──。

 当時はまだ海外サッカーを日常的に見ることができず、僕自身のバインの記憶は1990年のイタリアワールドカップがいまだ色濃い。「左利きでパスセンスに優れる」という定型のセンテンスにもっと多くの情報を書き込みたくて、バインの実戦デビューを楽しみにしていた。

 ところが、1994年のセカンドステージ開幕節でリーグ戦デビューを飾ったものの、スタメンには定着しなかったのである。小さなケガに悩まされた。

 本領を発揮したのは、翌1995年シーズンだ。浦和のシンボルにして日本代表の福田正博と、ホットラインを開通するのである。

 ふたりのやり取りは、シンプルそのものだった。シーズン開幕前のキャンプで、福田はこんなやり取りをしたと記憶している。

「足もとで受けるのが好きなのか、スペースでほしいのか、どっちなんだ?」

「俺はスペースで受けたいんだ」

「分かった」

 浦和を離れた数年後、ドイツにバインを訪ねた。このやり取りについては、バインにも聞いておきたかった。

 現役時代のトレードマークだった口ひげを落としたバインは、「まあ、そんな感じだっただろうね」とうなずいた。表情は柔らかい。福田とのホットラインは、彼にとって邂逅(かいこう)と言っていいものだったのだろう。

「自分のパスからゴールを決めてくれる。それが、うれしくないはずがないでしょう」

 難しいプレーはしていない。DFの背中を鮮やかに奪うスルーパスも、ゴールへパスをするようなシュートも、どちらかと言えば簡単に見えたものだ。

「難しいことはやっていません」とバインも言う。「出すべきところへパスを出す。意識したのはそれだけです」と話した。

 彼がこだわったのは、精度である。

そのパスはミリ単位と言っていいぐらいだった。1994年から在籍する野人・岡野雅行は、「俺と目が合ったら走れって言われて、ホントにそのとおりにパスが出てくるんです。僕はディフェンスの裏へ走るだけでいいんですよ」と、興奮気味に話した。

【お荷物チームが過去最高の3位】

 福田の声も聞く。そのパスを誰よりも受けた男の声は、言うまでもなく核心を突く。

「ウーベは裏に出すのが速い。その感覚に最初は合わせられなかったんだけど、彼のタイミングで動き出せば必ずそこにパスが出てくる、ということがわかっていった。

 で、そのタイミングならDFラインを破ることができる。彼とはベタベタとした関係ではなかったけれど、ピッチ上では常に僕を見てくれていた」

 印象的なアシストは多い。

 たとえば、1995年4月15日の柏レイソル戦だ。福田にワンタッチパスを通すと、背番号9はボールを頭で前へ押し出し、右足でゴールネットを揺らした。左サイドからドリブルでえぐっていくのは、福田が得意とする突破のパターンである。

 バインがフル稼働した1995年のファーストステージで、浦和は残り2試合まで優勝争いに加わった。

このシーズンから監督に就任したホルガー・オジェックのチームマネジメントや、ブッフバルトの存在も大きかっただろう。前年まで「Jリーグのお荷物」と揶揄されたチームは、ファーストステージで過去最高の3位に食い込むのである。

 セカンドステージは8位に終わったものの、年間順位では4位にジャンプアップした。そして福田は32ゴールを叩き出して、ラモン・ディアス(横浜マリノス)、フランク・オルデネビッツ(ジェフユナイテッド市原)に続くJリーグ得点王となる。

 11月15日の名古屋グランパス戦で決めたバインのアシストは、多くのレッズサポーターの記憶に刻まれているのではないだろうか。

 自陣右サイドでパスを受けたバインは、すぐに敵陣やや左サイドへパスを通した。この1本のパスで、カウンターが成立した。最前線の福田は、パスを受けた瞬間にDFの背後を取って抜け出す。1秒のズレもない連係から、福田がゴールネットを揺らしたのだった。

「福田が得点王を取ってくれたことは、もちろんうれしかったですよ。それと同じくらいに、チームの成績がよくなったことがうれしかったですね。

 1994年は1試合勝ったら3試合負けて、やっと1試合勝ったら次は4試合負けたり......最初の半年間は『プレーしていて楽しい』と思ったことが一度もありませんでした。

その状況をみんなで立て直して、オジェックが監督になってからチームはよくなり、僕たちは目に見えて成長することができました」

【浦和の応援はすばらしかった】

 彼自身も数字を残している。38試合に出場して18ゴールをマークした。福田の得点を多く生み出したが、背番号9のアシストから決めた得点もある。一方的なホットラインではなかったのだ。

 1996年は20試合5得点に終わった。福田はシーズンを通してケガに悩まされ、わずか4試合の出場に終わっている。バインはオジェック監督らとともに、天皇杯準決勝で敗退したあとの国立競技場でサポーターに別れを告げた。2年半の冒険が終わった。

 日本で過ごした時間について、のちに彼はこう語っている。

「日本では誰もが、非常に親切で温かみのある対応をしてくれました。とても楽しくて、ドイツに戻るのがつらかった。特にサポーターの応援はすばらしかった。

ドイツでもいろいろなチームでやりましたが、比較にならないほどの大きな熱狂でした。

 僕の最後の試合は天皇杯準決勝のヴェルディ川崎戦で、0-3で敗れてしまったんですが、試合終了後1時間以上もサポーターがスタジアムに残ってくれたのは、強く印象に残っています。その試合の写真は自宅に飾ってありますし、2年半の思い出を今でも思い返しますよ」

 バインは福田を信じて、パスを出し続けた。

 福田はバインを信じて、スペースへ走り続けた。

 Jリーグ30数年の歴史でも、とびきりのホットラインである。

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