学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざま部活動の楽しさや面白さは、今も昔も変わらない。
この連載では、学生時代に部活に打ち込んだトップアスリートや著名人に、部活の思い出、部活を通して得たこと、そして、今に生きていることを聞く──。部活やろうぜ!
連載「部活やろうぜ!」
【サッカー】小林悠インタビュー1回目(全3回)
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「部活やろうぜ!」──企画の主旨を聞いて真っ先に思い浮かんだのが、川崎フロンターレの小林悠だった。彼ほど稀有な経験をしていて、かつ、あきらめずに邁進してきた選手を知らなかったからだ。
高校時代は2度、選手権に出場しているが、大学時代はプロを目指しつつも4年間、アルバイトに勤しんだ。ただ、その日々がなければ、クラブ最多であり、J1リーグ歴代7位となる143得点(7月10日時点)を挙げることも、川崎フロンターレのユニフォームに7つの星が刻まれることもなかっただろう。
「すべては今につながっています」
成功も挫折も、若気の至りともいえる失敗も......学びに変えてきたから、今の彼がある──。
クラブチームである町田JFCで、小・中学生時代を過ごした小林は、麻布大学附属渕野辺高校(現・麻布大学附属高校)に進学する。
部活を選んだのは、母親の母校であり、サッカー部の石井孝良監督(当時)が母親の担任だったことがきっかけだった。恩師から「学校がスポーツに力を入れ、サッカー部を強化する」と聞いた母親の勧めもあって決断した。
「フロンターレと湘南ベルマーレのセレクションを受けたのですが、どっちも不合格で。そこで現実を突きつけられて、プロになるのは難しいかなと思い始めていました。
しかもその当時、ちょうど家で犬を飼い始めたこともあって、麻布大学には獣医学部があったので、サッカー選手になれないなら、動物が好きなので獣医になるのもいいかなとか思ったりして。
【当時のサッカー部の悪しき慣習】
サッカー部に入ると、同級生には小学生時代から選抜チームでともにプレーしていた太田宏介を筆頭に、町田市内で名の知られていた町田JFC、FC町田(現・FC町田ゼルビア)の有力選手たちが揃っていた。自分の母親と太田の母親が周囲に声をかけ、部員集めに一役買っていたのである。そのため、チームが強くなる下地は整っていた。
「サッカー部の選手たちは同じコースだったから、クラスも一緒で。クラブチームの時は学校もバラバラで、練習や試合の時だけ集まる感じでしたけど、高校では毎日の授業や休み時間もともに過ごして、授業が終わったら着替えて、同じメンバーで練習をしていたので、仲はよかったですし、チームワークもかなり高かったですね」
今季でプロ16年目の37歳。20年以上も前の話だから、当時のサッカー部には悪しき慣習も残ってはいた。
「先輩は優しかったけど、3年生が帰るまで、1年生は帰ってはいけないという変なルールがあったりして。練習後に先輩がひとり残って、ずっとスパイクを磨いていたりする(苦笑)。そのせいで僕ら1年生は帰ることができず、その時ばかりは心の中で『頼むから早く帰ってくれよ』と叫んでいました(笑)。
だから僕が、というわけではないですけど、同学年には(太田)宏介を中心にフレンドリーな選手が多かったので、自分たちがやられてイヤだったことは、みんなで相談して自分たちが最上級生になった時には変えました」
不用な慣習を改善したところも、チームワークのよさを示すひとつだ。ほかにもチームの絆(きずな)が感じられるエピソードはある。
「休み明けには必ずフィジカルトレーニングがあったのですが、それと夏の合宿は、とにかくきつかった。それは今もかなり覚えています」
フィジカルトレーニングでは、全員が設定された時間内に、指定の距離を走りきらなければならなかった。
過酷な12分間走では、少しでも走る距離を短くしようと、みんなでコーナーに置かれたマーカーを回るたびに、足でつついて内側にずらした。全員で共有した励まし合いも、ずる賢さも、すべてが団結力につながっていた。
【一番後ろを走っていたからこそ】
「やっぱりメンタルは鍛えられましたし、強くなったと思います」
それは、自らの行動や姿勢に表われている。
「僕、中学生まで走るトレーニングでは、一番後ろを走っているような選手だったんです。本当に走るのが大嫌いで、その時ばかりはサッカーが辞めたくなっていたくらい。
でも、高校に進学して、『ここで強くならなければ』と思って、とにかく前を走ろうと思ったんです。そう決意してからは、本当にみんなの前を走れるようになって。そこで知ったのは、まさにきつい練習や厳しい状況を乗り越えるのは、自分次第。気持ちが大切だということでした」
「だから」と、小林は言う。
「今、似たような思いや状況の子どもたちもたくさんいると思うんですけど、意外と『気持ちひとつで変わるぞ』って伝えたい。たしかに体力のある・ないというのも関係あるとは思いますけど、『イヤだな、イヤだな』って思って走るのと、『今日はがんばってみよう』と思って走るのでは、気持ちも結果も変わってくる。それは、自分が一番後ろを走っていたからこそわかります」
高校に入学した時から抜きん出た存在だったわけではない。
高校1年の時にCチームの夏合宿に参加してアピールすると認められて、Bチームの夏合宿に追加招集される。そこでも活躍して力を証明すると、Aチームの夏合宿への参加資格を勝ち取った。
「母親は『合宿に参加するのは1回って聞いていたのに』って笑っていましたけどね。でも、僕自身はうれしかった」
麻布大学附属渕野辺高は、小林が2年生の時に初めて全国高校サッカー選手権に出場する。ただ、当初は自信を手にしていたわけではなかった。
「当時は桐光学園高校が圧倒的に強くて、僕らは関東大会もインターハイも彼らに負けていた。だから、選手権の県予選で早々に対戦が決まった時は、先輩たちに冗談で『3年間、お疲れさまでした』と言っていたくらい(笑)。そのくらい、明らかな実力差がありました」
【自分たちの力を過信しすぎていた】
一発勝負のトーナメントは何が起こるかわからないとは、よく言ったもので、延長の末に桐光学園高に勝利すると、勢いに乗って準決勝、決勝も勝ち抜き、全国への切符を手にする。しかし、初めての選手権は、2004年12月31日に行なわれた1回戦で玉野光南高校(岡山)に0-2で敗れて、年を越すことはできなかった。
「試合の日は大雪が降っていて、数メートル先が見えないような状況で。条件は同じなので、天候を言い訳にするわけじゃないですけど、先輩たちにはいい環境、状況で試合をさせてあげたかったなって今でも思います」
失点のきっかけとなるファウルを与えた責任を感じて、泣きじゃくる小林に、先輩は「ここまで連れてきてくれてありがとうな」「ここまで来られたのはお前たちがいたからだ」と声をかけてくれた。感謝の言葉が余計に心に染みて、さらに嗚咽は止まらなかった。
「泣きじゃくる、という表現がぴったりなくらい泣きました。プロになってからも何度も、何度も泣いていますけど、またちょっと涙の種類が違うというか。だって、仕事じゃないし、お金も発生していないじゃないですか。それなのに、ひとつの目標に向かってみんなが一緒にがんばる。まさに青春、めっちゃ青春でした」
全国大会を経験して得た自信は、10代の選手たちにとって計り知れなかったのだろう。高校3年になった2005年、選手権の県予選決勝で桐光学園高に2-0で勝利すると、2年連続で出場権を獲得した。
「自分たちの代になった時は、絶対に勝てる自信がものすごくありました。試合に出場する半数近くが前年に選手権を経験していたし、ほかにもうまい選手はたくさんいたので。本当に、1年生の時からずっと苦楽をともにしてきたメンバーは心強かったし、信頼関係が築けていたことも大きかった」
県大会どころか、全国でも十分に戦える自信を携えていた。ところが、小林は「でも」と続ける。
「今、思えば、自信がありすぎて、自分たちの力を過信しすぎていたんです」
【悩んでいる時が一番成長している】
2回戦からの登場に、石井監督は対戦相手である高松商業高校(香川)の試合映像を見ておくように告げた。しかし、「調子に乗っていた」彼らは、途中まで映像を見ると、誰からともなく、3回戦で対戦するであろう野洲高校(滋賀)の試合映像に入れ替えたのだ。
実際、その年はのちに川崎でチームメイトになる楠神順平や、乾貴士(清水エスパルス)を擁する野洲高が優勝。小林たちは、目の前の相手ではなく、セクシーフットボールと呼ばれ世間を席巻していた野洲高と戦うことに意識が向いていた。
「ホント、若気の至りというか、情けないし、大バカですよね。目の前ではなく、先のことを考えて、自分たちの力を過信していた結果、高松商業高校との試合を2-2で終え、結果的にPK戦で負けました」
まさに、足もとをすくわれたのである。小林は1ゴールをマークしたものの、チームを次のステージに導くことはできなかった。
「本当に当時の自分たちに言ってやりたい。過信することなく、ちゃんとスカウティングしろって(苦笑)」
サッカー部の同級生たちとは今も集まると、必ずこの話題になるという。
「当時エースとして認められていた選手が『PK戦は蹴りたくない』って言って、その代わりにキッカーに選ばれた2年生が、結果的にPKを外して負けてしまったんです」
昔話に花を咲かせ、いつまでも笑い合える仲間こそが、彼が手にした財産だ。
プロになってから経験した幾多の悔しさやケガに見舞われるたびに、恩師である石井監督の言葉を思い出す。
「悩んでいる時が一番、成長しているんだからな」
その言葉を噛みしめ、乗り越えてきた。
「高校の時に、うまくいかないことが続いた時期があったんです。その時に石井監督から、結果が出ていないから、前に進んでいないように感じているかもしれないけど、実はその時期が一番伸びていると言ってもらって、この苦しみや悩みも無駄ではないと思うことができた。
プロになってからも、そういう時期を過ごすたびに、今、自分は成長しようとしているんだと思ってやってきました」
少し大きくなった自分の子どもにも、その言葉は伝えているという。なにより、小林悠の生き様が、恩師の言葉を示している。
(つづく)
◆小林悠・2回目>>先輩に向かって「ちゃんと部活やれよ!」と言った理由
【profile】
小林悠(こばやし・ゆう)
1987年9月23日生まれ、東京都町田市出身。麻布大学附属渕野辺高(現・麻布大学附属高)時代は2年連続で選手権に出場し、拓殖大では在学中に水戸ホーリーホックの特別指定選手としてJリーグデビューを果たす。大学卒業後の2010年から川崎フロンターレの一員となり今シーズンで16年目。2014年10月のジャマイカ戦で日本代表デビュー。国際Aマッチ出場14試合2得点。川崎に4度のJ1優勝をもたらし、2017年にはリーグ得点王とシーズンMVPを受賞する。ポジション=FW。177cm、72kg。