世界に魔法をかけたフットボール・ヒーローズ
【第27回】マルセル・デサイー(フランス)
サッカーシーンには突如として、たったひとつのプレーでファンの心を鷲掴みにする選手が現れる。選ばれし者にしかできない「魔法をかけた」瞬間だ。
第27回で紹介するヒーローは、突き抜けた守備力で列強のストライカーたちを封じ込めてきたマルセル・デサイーだ。マルセイユとミランで2年連続チャンピオンズリーグ制覇を成し遂げ、1998年ワールドカップと2000年ユーロではフランス代表を頂点に導いた。彼の登場によって、ディフェンダーの価値が高まったのは間違いない。
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アレックス・ファーガソン体制下のマンチェスター・ユナイテッドをスーパーサブとして支えたのは......「スールシャール?」「ソーシャー?」「ソルスキア?」。名前の聞こえ方は、人によりけりだ。目くじらを立てる必要はない。某民放キー局に「ドゥッサイー」と呼ばれ、老舗専門誌が「デサイイー」と表記していた男は、いつの間にか「マルセル・デサイー」に落ち着いた。フランス代表とマルセイユ、ミランで一世を風靡した屈強の守備的MFである。
いくつかの資料をひも解くと、もともとの名前はオデンケ・アペイだったという。実母がフランス領事館の外交官と再婚したことを契機に、マルセル・デサイーに改められたそうだ。
12歳でナントの下部組織に加入し、18歳を迎えた1986年にプロ契約。
当時のマルセイユは、ヨーロッパ屈指の強豪に数えられていた。フランスのディビジョン・アン(現リーグ・アン)4連覇中で、1989-90シーズンからチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)2年連続ベスト4。GKにファビアン・バルテズ、DFにはバジール・ボリ、中盤をディディエ・デシャンがコントロールし、前線はアレン・ボクシッチ、ルディ・フェラー、アベディ・ペレという強力なメンバーを揃えていた。
【ファン・バステンを圧倒】
この強者ぞろいのなかにおいて、デサイーは移籍初年度からセンターバックの定位置を奪取。そして1993年5月26日、ミランとのチャンピオンズリーグ(CL)決勝に臨んだ。
1990年代前期はミランの黄金期である。「インヴィンチービレ(イタリア語で無敵)」と恐れられ、1991‐92シーズンからセリエAを3連覇。ただ、少なからぬ不安も抱えていた。
33歳になったフランコ・バレージは体力的な衰えに抗えなかった。ルート・フリットは規律違反でチーム内の信頼を失い、マルコ・ファン・バステンは満身創痍。さらにフランク・ライカールトは「1992-93シーズンかぎりで退団する」と明らかにし、ジャン=ピエール・パパンは古巣との対戦に必要以上の緊張感に苛(さいな)まれていた。
誰がどう考えても、マルセイユが有利である。立ち上がりこそミランの試合巧者ぶりに圧倒されたが、徐々にマルセイユが主導権を奪い返す。激しいプレッシングを繰り返し、巧妙なオフサイドトラップをミランに仕掛けていった。
デサイーはファン・バステンを圧倒するだけではなく、パパンやダニエレ・マッサーロとの1対1でも無敵だった。スピードとパワーで見下ろすかのような対応だ。
仮にミラン攻撃陣が全員健在であっても、デサイーを簡単には崩せなかっただろう。体力的に落ちてきたイタリア王者にとって、難攻不落の砦(とりで)とも思えるほど厄介な存在だった。
マルセイユは前半終了間際、ペレのCKからボリがヘディングで決めて先制。後半はその1点を守りきり、フランスのクラブとして初のヨーロッパチャンピオンに輝いた。
しかしその後、マルセイユは上層部による八百長工作が発覚する。フランスリーグでの不祥事であるため、UEFAはインターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)への出場権を剥奪する程度のペナルティしか科していない。
ただしフランス国内では、タイトル剥奪と2部リーグ降格の重い処分が下された。
このスキャンダルさえなければ、マルセイユは世界的な強豪として今も尊敬されていたかもしれない。だが、上層部は世界中に恥をさらした。1993年11月、デサイーがミランに新天地を求めた(当時は移籍期限が設けられていない)のは、至極当然の決断である。
【CL史上初の快挙を成し遂げる】
ライカールトがアヤックスに復帰したあとの守備的MFのポジションに、フランス代表の猛者は見事にハマった。頑丈な肉体を武器に、相手の攻撃を弾き返す。試合の流れを瞬時に察知する戦術眼によって、広範囲をカバーする。また、中長距離のパスも精度が高かった。
「デサイーはインサイドキックでサイドチェンジする」とのメディア評は大げさだったとしても、決して的外れではない。しなやかで強靭な下半身から繰り出されるキックは、彼のストロングポイントだった。
この年、「セリエAはともかくCLは難しい」と各方面から疑問視されていたミランは、デサイーを軸にヨーロッパの舞台でも快進撃を見せる。1回戦のアーラウ戦こそ合計スコア1-0と苦戦したが、コパンハーゲンとの2回戦は7‐0、準々決勝リーグを2勝4分無敗・6得点・2失点で通過し、準決勝ではモナコを3-0で叩き潰した。
決勝では、ヨハン・クライフ監督率いるバルセロナが待っていた。
一方のミランは、DFの中心であるアレッサンドロ・コスタクルタと、衰えたとはいえチームに安心感をもたらすバレージが出場停止だった。どちらが有利だったか......あらためて言うまでもないだろう。
しかし、結果は4-0。CL決勝で、ここまで下馬評が完全に覆されたケースも珍しい。
「我々はまるでアマチュアだった」(クライフ)
「夢のような一戦。完璧なフットボール」(フランス・フットボール誌)
ミランは前半から勝利への飽くなき執念とボール奪取後の積極的なアプローチで、2‐0のスコアで折り返すことに成功する。そして後半開始早々にもリードを広げ、58分にトドメの4点目を突き刺したのが、デサイーである。
後方から果敢に攻め上がり、バルセロナのDFラインが仕掛けたオフサイドトラップを苦もなく突破。最後の作業はそれほど難しくなかった。こうしてデサイーは、異なるクラブで2年連続ヨーロッパチャンピオンになった。CL史上初の快挙である。
【名将エメ・ジャケも大絶賛】
1998年、デサイーはミランからチェルシーに移籍した。残念ながらプレミアリーグは制覇していない。しかし、出場した222試合のうち94試合でキャプテンを務めている。デニス・ワイズ、ジョン・テリー、ジミー・フロイド・ハッセルバインクといった個性派を束ねたリーダーシップは高く評価していいだろう。
また、フランス代表でも1998年に自国開催したワールドカップ、2年後のヨーロッパ選手権(オランダとベルギーの共同開催)で優勝に貢献。ジネディーヌ・ジダンやティエリ・アンリといった創造性豊かな攻撃だけに視線を奪われるなかれ。デサイーの強靭な守備力があってこその栄冠でもある。
「守備力、フィジカル、メンタル、テクニック、戦術眼のすべてで高い水準を維持し、責任感も申し分ない」
最強の名をほしいままにしていた当時のフランスを率いたエメ・ジャケも絶賛する。デサイーがより高く評価されてしかるべき名手であることに、疑いの余地は寸分もない。