世界に魔法をかけたフットボール・ヒーローズ
【第28回】ユルゲン・クリンスマン(ドイツ)

 サッカーシーンには突如として、たったひとつのプレーでファンの心を鷲掴みにする選手が現れる。選ばれし者にしかできない「魔法をかけた」瞬間だ。

世界を魅了した古今東西のフットボール・ヒーローたちを、『ワールドサッカーダイジェスト』初代編集長の粕谷秀樹氏が紹介する。

 第28回は1990年代に圧倒的な強さを誇ったドイツ代表において、最前線で仕事を完璧にこなしたストライカー「ユルゲン・クリンスマン」を紹介したい。現役時代は「黄金の隼」の愛称でゴールを量産した男は、指導者となった第2のサッカー人生をどう歩んできたのか。

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【欧州サッカー】クリンスマンは「名選手、名監督にあらず」なの...の画像はこちら >>
 2004年、ユルゲン・クリンスマンはドイツ代表監督に就任した。2年後に地元ドイツで開催したワールドカップでは、下馬評を覆す3位の好成績を収めている。しかし、大会終了後にあっさり辞任した。

 2008−09シーズンからはバイエルンの監督を務めながら、2009年4月27日に解任。大胆な改革は空回りし、ブンデスリーガもチャンピオンズリーグも散々の成績だった。

 また、2011年7月に就任したアメリカ代表監督も、2014年のブラジルワールドカップでベスト16に導き期待に応えたが、2016年秋のロシアワールドカップ予選で開幕から連敗。志半ばでその座を追われている。

「メディアの前で公然と選手を批判する」「戦術があまりにも不可解だ」「チームの輪を乱す典型的なタイプ」。アメリカのメディアは手厳しかった。

 アメリカ代表監督を解任されてから3年後の2019年11月、ヘルタ・ベルリンの監督に就任することになった。しかし、方向の違いを理由にわずか10週間で辞任している。

 そして直近では、韓国代表監督に2023年2月27日就任、2024年2月16日解任と、またも早すぎる憂き目に遭っている。

【クリンスマンの嗅覚は特別】

「関係が悪化していた孫興民(ソン・フンミン)と李康仁(イ・ガンイン)を仲裁しようともしなかった」「Kリーグはまったくチェックしていない」「指導力が著しく欠如している」

 クリンスマンはまたしても、メディアの集中砲火にさらされた。韓国に定住せず、アメリカを基本としたライフスタイルも嫌われたようだ。

 指導者には向いていないのかもしれない。

 ただ、「選手」のクリンスマンはすばらしかった。ドイツ代表では歴代4位タイの47ゴール。大舞台でも強かった。ワールドカップで11ゴール、ヨーロッパ選手権では5ゴールを決めている。

 最大のストロングポイントは、群を抜くシュート精度だろう。右足も左足も正確だった。ボレーシュートも巧みで、難しい角度のボールでもひざをかぶせながら上から叩いていた。

 さらにヘディングも得意だった。181cmと長身ではなかったものの、クロスに合わせるタイミングが秀逸で、大型センターバックの前に入ったり、簡単に背後を取ったりしていた。ニアポストに飛び込み角度を変えてファーサイドに突き刺す技術は、彼の真骨頂と言っていい。

 だからこそ、セリエAでも活躍できたのだろう。シュツットガルトからインテルに移籍した1989-90シーズンは13 ゴール。カルチョ・イタリアーノ初チャレンジとしては上々のスタッツである。守備意識が過剰に高かった当時のイタリアでも、クリンスマンの嗅覚は特別だった。

 まして30年以上も前のインテルは、雰囲気がギスギスしていた。クラブ内に複数の派閥があり、一体感がまったくない。しかもジョバンニ・トラパットーニ監督は神経質だ。

 それでもクリンスマンは各派閥と談笑し、のちに犬猿の仲となるローター・マテウスとも一定の距離を取りながらうまく付き合っていた。「チームの輪を乱すタイプ(先述)」ではなかったのだが......。

【マテウスが怒り狂ったきっかけ】

 インテルで自信を深めたクリンスマンは、1990年イタリアワールドカップでドイツ代表の優勝に尽力する。往年の切れ味が失せたピエール・リトバルスキー、オランダ戦の退場以降は精彩を欠いたルディ・フェラーに代わり、ドイツの攻撃を牽引した。

 特にドリブルが効果的だった。細かなテクニックを用いず鋭い縦の突破で各国ディフェンダーを圧倒する。オランダ戦でも単騎で再三チャンスを作っていた。

 大会全体を通じて安定していたマテウス、決勝でPKを決めたアンドレアス・ブレーメがクローズアップされるが、クリンスマンの存在も見逃せない。

「あまり自己主張するタイプではないので大舞台ではどうか......と疑いもしたけれど、ユルゲンにはかなり助けられたな」

 フランツ・ベッケンバウアー監督も合格点を与えていた。このドイツ代表でも、クリンスマンはチームの一員に徹している。

 1992-93シーズンからプレーしたモナコでもトラブルは起こさず、フランスリーグ1年目は19ゴール。翌シーズンはチャンピオンズリーグ準決勝進出の原動力になっている。

 1994-95シーズン、30歳で挑んだプレミアリーグでも出来は悪くなかった。トッテナム・ホットスパーでは1シーズンしかプレーしなかったが、41試合に出場して20ゴール・11アシスト。FKを誘発するようなダイブがメディアの不評を買ったとはいえ、この動きをゴールセレブレーションに採り入れるシニカルな感覚は、多くのサポーターに受け入れられた。

 そしてイングランドでも、監督や選手と諍いは起こしていない。問題発言の記録も残っていない。ケチがつくようになったのは、1995年にバイエルンへ移籍してからだろうか。

「あの男が元凶だ。あることないことを口走り、俺を追放しようと図っている」

 マテウスの怒りがクリンスマンに向けられた。1996-97シーズンに生じたバイエルンの内紛は、あまりにも一方的なものだったという。

【サッカーの世界に戻ってくるのか】

 単なる誤解なのか、誰かに吹き込まれたのか、マテウスは語気を荒げてクリンスマン批判を繰り返した。主力の確執はバイエルンだけではなく、ドイツ代表にも悪影響を及ぼしかねない。

 この一件が大事に至らなかったのは、クリンスマンが過剰に反応しなかったからだ。いわゆる「大人の対応」である。「目には目を、歯には歯を」で迎撃していれば、前代未聞の内紛として脚色されながら語り継がれていたかもしれない。

 メディアが喜ぶような大言壮語は口にせず、契約でも揉めなかった。

優等生タイプで面白みには欠けるかもしれない。しかし、現役時代はトラブルとほど遠く、チームプレーヤーに徹してきた。

 マテウスの自己中心的な怒りも受け流した男が、なぜ指導者として失敗続きなのだろうか。

「名選手、名監督にあらず」という言葉は、みずからの哲学を正解と信じ、他者を拒絶することの愚かさを意味している。

 ただ、選手時代のクリンスマンは少なくとも頑(かたく)なではなかった。上から目線で他人をおとしめるようなタイプにも見えなかった。

 韓国代表監督の座から降りたあと、クリンスマンはフットボールの世界から離れている。この先、どこへ行くのだろうか。正確なミートとヘディングの技術は、多くの若者が吸収すべきエッセンスだ。活用しない手はない。

 61歳、最後のひと花を──。

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