MLBのサムライたち~大谷翔平につながる道
連載07:佐々木主浩
届かぬ世界と思われていたメジャーリーグに飛び込み、既成概念を打ち破ってきたサムライたち。果敢なチャレンジの軌跡は今もなお、脈々と受け継がれている。
MLBの歴史に確かな足跡を残した日本人メジャーリーガーを綴る今連載。第7回は、クローザーとしてシアトル・マリナーズの最盛期を支えた佐々木主浩を紹介する。
【メジャー移籍1年目から活躍できた理由】
DAIMAJINという単語が、シアトルで見られるとは想像していなかった。
2000年、横浜ベイスターズの揺るぎのないクローザー、「大魔神」こと佐々木主浩がシアトル・マリナーズへと移籍した。この年はまだアレックス・ロドリゲス(ARod)も在籍しており、華やかな時代の真っ最中だった。
入団会見は、任天堂のおひざ元である京都で行なわれた。その席上で佐々木は、
「マリナーズは希望の球団だったので、非常にうれしい。シアトルの街も、すごく合うなと感じていた。筆頭オーナーが任天堂さんで、日本の企業というのも、いいかなと思い決めました」
と話した。
佐々木はスプリングトレーニングで、前年33セーブをマークしていたホセ・メサとクローザーを争う形となったが、開幕前にクローザーの地位を獲得し、シーズン開幕を迎えた。
途中、5月10日、12日と連続でサヨナラ本塁打を喫したこともあったが、前半戦だけで19セーブを挙げた。夏場以降は安定した投球を見せ、後半戦のセーブ機会失敗は、7月31日の一度だけ。チームからの信頼を勝ち得て、マリナーズのポストシーズン進出に大いに貢献し、アメリカン・リーグの新人王を獲得した。
当時は、メジャーリーグで対戦相手の強いゾーンと弱いゾーンがデータで示され始めた時代だったが、佐々木は、「もちろん、参考にはしますけど、基本的には自分のピッチングの組み立て優先かな」と話していた。
1年目から佐々木が成功した理由として、1990年代後半から2000年代前半のメジャーリーグでは、フォークボールを決め球とする投手が少なくなっていったことも影響していると思う。
当時、サイ・ヤング賞を獲得していた代表的な投手といえば、ロジャー・クレメンスやペドロ・マルチネスの名前が挙がってくる。
クレメンスは豪速球を投球の中心に置き、ハードスライダーで三振を取るスタイルだった。一方のペドロは、チェンジアップを武器に、緩急で三振を奪った。
つまり、当時はスピードを軸とした「横軸」か、チェンジアップを織り交ぜた「時間軸」が幅を利かせていた。そのトレンドにあって、佐々木の「縦軸」は極めて有効で、コントロールがよく、ストライクゾーンからボールゾーンへと落ちていく落差の大きいフォークボールに対応できる選手は、少なかった。
【「諸刃の剣」の濃密なメジャー4年間】
そして佐々木が大魔神としての真骨頂を発揮したのは、イチローが移籍してきた2001年のシーズンだった。
この年、マリナーズはメジャーリーグ記録に並ぶシーズン116勝を挙げた。この年は開幕前にホセ・メサがチームから放出されていたこともあり、佐々木はクローザーの地位を約束されていたが、とにかくマリナーズが強いので、登板機会が多かった。前半戦だけで29セーブを挙げ、地元シアトルで行なわれたオールスターゲームのメンバーにも選出された。2年目で内容が向上した理由は、経験が大きかったと話している。
「1年目は本当に余裕がなくて、いっぱいいっぱいでした。1年目37セーブを挙げて、メジャーリーグでの戦い方がわかってきたというのが大きかったかな」
チームは116勝に到達し、佐々木も47セーブをマークする。ただし、勝ち過ぎた弊害があったと佐々木は振り返る。
「リリーフ陣が疲れていたのでプレーオフまで調整させてくれと、監督のルー(ピネラ)に言いにいったら、ダメだと言われました(笑)。監督も記録を残したかったんでしょうね」
おそらく、このシーズンはマリナーズが最もワールドシリーズに近づいたシーズンだったが、リーグチャンピオンシップシリーズでニューヨーク・ヤンキースに敗れてしまう。佐々木自身も、1勝2敗で迎えたヤンキー・スタジアムでの第4戦でアルフォンソ・ソリアーノにサヨナラ本塁打を喫してしまう。
「ウチも強かったけど、あの年はヤンキースが強かったな。(デレク・)ジーターがいて、キャッチャーは(ホルヘ・)ポサダで、センターにはバーニー(・ウィリアムズ)がいて......。残念だったけどね」
佐々木は2002年もすばらしいシーズンを送った。マリナーズはあと一歩、地区優勝に手が届かなかったが(次にポストシーズンに進出するのは2022年まで待たなければならなかった)、佐々木自身は37セーブをマークした。また、メジャー史上最速となる160試合目での通算100セーブに到達している。クローザーという経験が必要なポジションを任され、充実期を迎えていたことが分かる。
もったいなかったのは、ここからだ。ケガの影響が出てきており、シーズンオフに「ねずみ」と呼ばれる遊離軟骨除去の手術を受け、2003年のシーズンは初登板でセーブに失敗し、故障者リスト入り。その後も、自宅でスーツケースを運んでいた時に転倒して2カ月ほどの戦線離脱。その間にクローザーを長谷川滋利が務め、その座に復帰することはなかった。
本来は2004年まで契約が残っていたが、「日本で家族と一緒に暮らしたい」とマリナーズに伝え、球団もそれを了承。自由契約となって古巣の横浜へ帰った。
プライムタイムは2000年から2002年の3年間だったが、この時期はマリナーズの充実期でもあった。記憶に残るチームを支えたのは、大魔神・佐々木主浩だった。
【Profile】ささき・かずひろ/1968年2月22日生まれ、宮城県出身。東北高(宮城)−東北福祉大。1989年NPBドラフト1位(横浜大洋)。1999年12月にシアトル・マリナーズと契約。
●NPB所属歴(12年):横浜大洋(1990~99/横浜93~)―横浜(2004~05)
●NPB通算成績:43勝38敗252セーブ(439試合)/防御率2.41/投球回627.2/奪三振851
●MLB所属歴(4年):シアトル・マリナーズ(ア/2000~03) *ア=アメリカン・リーグ
●MLB通算成績:7勝16敗129セーブ(228試合)/防御率3.14/投球回223.1/奪三振242
●MLBタイトル受賞&偉業歴:ア・リーグ新人王(2000)、オールスター出場2回(2001、02)