田中健二朗インタビュー(後編)
田中健二朗がプロ生活においてターニングポイントと語る木塚敦志コーチとのマンツーマンでのトレーニングが行なわれたのは、プロ7年目の2014年だった。春先にファームで完膚なきまでに打ち込まれ、もうこの世界では通用しないと観念しそうになった時のことだ。
【すべてを変えた木塚コーチの熱血指導】
「あの時、木塚さんといろいろ話したんです。これはもう徹底的にやるのか、やらないのか。僕はやります、と返事をしました」
基礎を見直し、弱点を埋め、自分の特性を生かす作業。これまでのようにやらされるだけではなく、自ら考え、強い意志を貫き通した。木塚コーチの熱血指導は、まさに生き残りをかけたサバイバルであり、その期間はじつに3カ月にも及んだ。
「毎日、『絶対に投げ出さない。やり通すんだ』と意地になっていた部分もありましたね。以前の自分のなら、『今日はいいかな』って思うこともあったでしょうが、甘えを完全に排除してやることができました」
自分の原点はここにあると、田中は確信している。
「過去、あれほどしんどい思いをしたことはなかったし、本当にぐちゃぐちゃになりながらやったんです。根性見せられたし、成長もできた。あの経験によって自分なら何だってやれるって思えるようになったんです。その後、トミー・ジョン(TJ)手術をしましたが、きついリハビリ期間も木塚さんとのあの熱い時間が支えになっていました」
この年の後半戦で、それまで主に先発だった田中はリリーバーへ転身し、チームの勝利に貢献する活躍を見せた。
木塚コーチとの話をすると、田中の目は心なしか潤む。
「ダメなんですよねえ、木塚さんの話になると......」
現役引退することをベイスターズ関係者で最初に伝えたのは、現在アマチュアスカウトを務めている木塚氏だった。そして引退会見ではビデオレターが流れた。画面の向こうで木塚氏は優しく、時に感極まる様子で語りかける。
「健二朗、長い間、本当におつかれさまでした。思い出はたくさんありますけど、まだ二軍暮らしだった横須賀でのキャッチボール、甲子園優勝投手を感じさせる勇気を持ったあのスローカーブ、どんな場面でもマウンドに向かってくれるブルペンから見たあの後ろ姿、クライマックス・シリーズ(CS)でチームを救う一塁牽制......まだまだたくさんありますが、毎日、ブルペンで準備をしてもらって投げ抜いてくれて本当に感謝しています。ありがとう」
その映像を田中は、口を真一文字に結び見つめていた。瀬戸際を経験した11年前のあの日々のことを思い出していたのだろう。
【忘れられない2つのシーン】
田中にベイスターズ時代の忘れられないシーンを聞くと2つ挙げてくれた。
ひとつは、2021年9月21日での阪神戦(横浜スタジアム)だ。この試合はTJ手術からの復帰戦で、じつに1092日ぶりの一軍登板だった。
そしてもうひとつは2016年、ベイスターズが球団史上初めてCSに進出した時のことだ。木塚コーチ率いるブルペン陣は、田中のほかに砂田毅樹、三上朋也、山﨑康晃といった勢いのあるメンバーが揃っていた。
東京ドームを舞台とした巨人とのCSファーストステージで、田中は第1戦でホールドをマークし勝利に貢献。そして1勝1敗で迎えた第3戦、3対3の同点の9回裏に田中はマウンドに上がった。1点もあげられない場面だったが、先頭打者の村田修一に内野安打を打たれ出塁されてしまう。すると巨人の高橋由伸監督が動いた。足のスペシャリストである鈴木尚広を代走で送ったのだ。当時のことを田中は振り返る。
「巨人ベンチから鈴木さんが出てくるのを見て、正直終わった......と思ったんですよ。絶対に走るじゃんって。
対する打者は阿部慎之助。田中は初球のスライダーを外すと、2球目はストレートをファウルされた。3球目を投げる前、ここで田中は初めて牽制を入れたが、鈴木は余裕を持って帰塁した。そしてもう一度、セットポジションに入ると、今度は長めに間をおいた。ヒリつく時間。ここで再び瞬時の牽制を入れると、体重を二塁側に移していた鈴木は塁に戻りきれずタッチアウト。ベイスターズファンの絶叫が東京ドームに響き渡った。
「牽制は得意じゃないんですけど、自分が持っている最大限を出して刺すことができました。自分で言うのも何ですけど、本当にビッグプレーだったと思います。あの牽制を覚えていてくれるファンの方々は多くて、今でもその話になることがあるので、そういう意味では皆さんの記憶に残るプレーができてよかったと思っています」
ちなみにこのプレーは、田中にとってプロ入り初の牽制刺だった。
【ルーキー時代の自分に声をかけられるとしたら】
マウンドでしか味わえない緊張感と快感。投手にとってこれ以上ない心弾む瞬間であるが、田中にはもうあまり時間は残されていない。9月27日の広島戦(ちゅ~るスタジアム清水)で引退試合を行なう予定だ。
「寂しさはありますか」と尋ねると、田中は小さくうなずいた。
「本当に普段生活しているだけでは味わえない緊張感や勝負っていうのは、何物にも代えがたいものでしたし、欲を言えばもう一度、手に汗を握るというか、誰にも結果がわからない攻防みたいなものを経験したかった。思えば、あのなかでボールを投げるというのはすごく勇気がいることですし、それを長い間経験をさせてもらったのは本当にありがたかったですね」
プロ生活18年。もし、右も左もわからぬ「ハマの田舎」というニックネームがついていたルーキー時代の田中健二朗に声をかけられるとしたら、何と言ってあげたいだろうか。
「そうですね。『早く中継ぎやっておけよ』ってことですかね(笑)。若い時は変に『先発じゃなきゃダメだ』みたいな思いがあって、そんなことにこだわっていたら苦しくなっていくだけだよって。選手には適性というものがあるし、それを早く見つけること大事。
今後の去就は未定だそうだが、そういう意味で選手の特性を見極め、正しい道へ導くような指導者になることに興味はあるのだろうか。
「もちろんあります。やっぱり僕も若い時に木塚さんに指導してもらったことで、ここまでの野球人生があるので、今度はそれを若い子たちに返していきたいという思いはありますね」
いよいよ終わりの時が刻一刻と近づいている。引退の報告を木塚氏にした時、「シーズン最後の終わりまで田中健二朗でいてくれ」というメッセージをもらっている。田中は少しだけ感情を震わせ、静かに言うのだ。
「本当にその通りやりたいと思っていますし、田中健二朗をつくってくれたのは木塚さんなので、シーズンが終わるまで恩返しじゃないけど、自分らしく下半身で地面をつかんで、目いっぱい腕を振りたいと思います」
紆余曲折あった18年間。生来、恥ずかしがり屋なので野球愛を前面に出すタイプではなかったが、誰よりも野球を愛していた自負はある。だから何度窮地に追い込まれても耐えることができた。オラついた表情、ここ一発の勝負度胸、そして打者を抑えると淡々とマウンドを降りていくその勇ましい背中。いつまでも田中健二朗を忘れない──。
田中健二朗(たなか・けんじろう)/1989年9月18日生まれ。愛知県出身。