蘇る名馬の真髄
連載第16回:マルゼンスキー
かつて日本の競馬界を席巻した競走馬をモチーフとした育成シミュレーションゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』(Cygames)。2021年のリリースと前後して、アニメ化や漫画連載もされるなど爆発的な人気を誇っている。
こうしたキャラクター設定は、モデルとなった競走馬のマルゼンスキーから想起されたものだ。同馬は、母馬が受胎している状態で海外から輸入され、日本で誕生した"持込馬"だった。
その母馬がお腹にマルゼンスキーを宿した状態で海外のセリ市に上場されたのは、1973年。世界的にも良血とされる血筋だったこともあり、セリ値はどんどん上がっていったが、30万ドル(当時のレートで約9000万円)で日本人オーナーが落札した。輸入に際しても当時では破格の金額がかかったが、無事に日本へと輸入されると、マルゼンスキーを産み落とした。
競走生活をスタートしたマルゼンスキーは、持込馬かつ母が高額落札された経緯から、当時「スーパーカー」と呼ばれた。『ウマ娘』で「スーパーカーを所持している」といったプロフィールは、そんな背景があってのことだろう。
また、競走馬のマルゼンスキーが活躍したのは、1976~1977年のこと。これは、『ウマ娘』のモデルとなった馬のなかでは最古参の部類で、「言葉使いが古い」という設定は、そこから来ているのかもしれない。
マルゼンスキーは1976年、3歳(現2歳。※2001年度から国際化の一環として、数え年から満年齢に変更。以下同)秋にデビュー。現役生活は翌年までのわずか2年足らずだった。
当時は内国産のサラブレッドを保護するため、持込馬には出走権のないレースが多く(1983年に撤廃)、日本ダービー(東京・芝2400m)をはじめ、競走馬が目指すビッグレースにはほとんど出られなかった。結果、マルゼンスキーは裏街道のレースを歩み続けることを余儀なくされた。
そんな状況下で、デビューから圧勝に次ぐ圧勝を重ね、8戦全勝の成績で引退した。10馬身差以上の大差勝ちをすることも多く、8戦合計で2着につけた着差は61馬身に及ぶとされている。
こうしたキャリアのなかでもたった一度だけ、現在のGⅠにあたる大レースでその強さを証明したことがある。1976年12月12日、デビュー4戦目で挑んだ朝日杯フューチュリティSの前身となる朝日杯3歳S(中山・芝1600m)だ。
この年にデビューしたばかりの3歳馬たちによる頂上決戦。3戦3勝でこの舞台に登場した"スーパーカー"は、単勝1.7倍の圧倒的1番人気でレースを迎えた。
ゲートが開くと、やや遅れ気味のスタートを切ったマルゼンスキーだったが、瞬時に加速して先頭を奪取。そのままレースを引っ張っていった。ちなみに、同馬はほとんどのレースでハナを切って軽快に飛ばし、後続を引き離して勝ってきた。ただこのスタイルは、作戦というより、他馬とはスピードの絶対値が違いすぎたことによるものだと言われる。
朝日杯でも同様だった。先頭で逃げたマルゼンスキーは4コーナーを抜けると、さらに加速。3~4馬身後方の2番手を追走していたヒシスピードもあっさりと突き放されてしまう。直線、鞍上はムチを軽く入れる程度だったが、後続をはるか彼方へと置き去りにし、最後は2着のヒシスピードに大差をつけて圧勝。走破タイムの1分34秒4は当時のレコードだった。
こうした走りを毎回のように繰り返したマルゼンスキー。
4歳の暮れになって、ようやく持込馬にも出走権のある大レース、有馬記念(中山・芝2500m)への参戦が発表されたが、不運にもその直前にケガを発症。そのまま引退することになった。
大舞台でのレースが少なかったゆえ、マルゼンスキーの偉業について「相手が弱かっただけでは?」と思う人もいるかもしれないが、そういった考えを覆す一戦もある。4歳6月に挑んだ日本短波賞(中山・芝1800m)。このレースでマルゼンスキーは、およそ5カ月後にクラシック三冠の最終戦を勝つプレストウコウを7馬身ちぎって勝利しているのだ。
文字どおり、異次元の走りを見せたマルゼンスキー。当時その走りを見た人のなかには、この馬を「史上最強馬」だと推す声も少なくない。