大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから~平尾奎太(全4回/3回目)
高校卒業後の進路について、平尾奎太は通院のことも考えて関西圏の大学を検討。最終的に同志社大学への進学が決まった。
【大学4年秋にベストナイン】
大阪桐蔭監督の西谷浩一が振り返る。
「平尾のご両親にも、岩田の話はしました。僕としては、1年は体を休めて、2年目で戻して、3年で大学デビュー。そして残り2年間でしっかり投げて、うまくいけば社会人までつなげられるかどうか。そんな見立てでした。勉強ができる子だったので、卒業の心配はまったくしていませんでしたし、たとえ野球が思うようにいかなかったとしても、きちんと就職できる。そういう信頼はありました。実際に教員免許も取得して、野球以外のことにも真剣に取り組んでくれました」
医師と相談のうえ、入学後の1年間は運動を控え、その間に数値が安定すれば、2年目からグラウンド復帰を目指すというプランを立てた。大学の野球部関係者も平尾の事情を理解し、1年目はチームの試合時にスタンドから声援を送るのみで、練習には参加しなかった。
ただ、本人は自覚症状がなく、漠然とした不安を抱えながらも、次第に「早く体を動かしたい」という衝動を抑えきれなくなっていった。
「いつになったら野球ができるんかなっていう気持ちがどんどん強くなって。だから先生には『まだ歩きしかやっていません』『指示どおりにやっています』って言いながら、実際にはジョギングをしたり、坂道を自転車で上ったりして、指示より一歩先のことをやっていました。
でも、そうした途端にいくつかの数値が下がらなくなってしまって......。通院の回数も増えて、結局、グラウンドに復帰できるまでに、当初の予定の倍、丸2年もかかってしまったんです」
それでも「また投げられる時が来る」と信じて耐え抜き、2年のオフから練習に参加。徐々に感覚を取り戻し、3年春には公式戦で初登板を果たした。リリーフで3試合、計2回1/3を投げ、そして本格復帰した秋には初勝利を挙げた。
4年になると、春に3勝(3敗)、秋は4勝(1敗)をマーク。特に秋は、45回2/3を投げて防御率1.38、43奪三振という堂々たる成績を残し、ベストナインにも輝いた。
これが春の活躍であれば、プロのスカウトの目にも留まっていたかもしれない。しかしドラフト候補の絞り込みが進む秋の時期だった。それでも、4年時の結果で自信を取り戻し、一度は遠のいたプロへの夢を再び抱きながら、社会人のホンダ鈴鹿へと進んだ。
「もちろん、ドラフト解禁となる2年後でのプロ入りを目標にしていました。澤ちゃん(澤田圭佑)が高校3年の夏を終えた時に、『いまプロに行けるとしても、藤浪(晋太郎)の2番手と言われて行くより、大学でエースになって、みんなに力を認められてから行きたい』って言ってたんです。そのとおり、立教大でエースになって、しっかり結果(東京六大学通算21勝)を残してプロへ行きましたよね。
【充実の社会人野球1年目】
1年目から主戦として起用され、社会人野球の最高峰の大会である都市対抗でも完封勝利を挙げるなど、計14イニングを無失点。上々の滑り出しを見せた。
長身から投げ下ろすストレートは140キロ台半ばを計測し、キレも一段と増していた。そこにチェンジアップ、スライダー、スクリューを織り交ぜたコンビネーションで、社会人の舞台でも堂々たるピッチングを披露した。
そんな教え子の活躍を、西谷もある時、耳にした。
「社会人1年目の6月に、ウチが中京大中京(愛知)と練習試合をしたんです。その時、顔なじみのプロのスカウトに会ったんですが、『昨日、平尾が投げた試合を見てきたけど、めちゃくちゃよかった。今年がドラフト解禁なら上位候補になりますよ』って絶賛してくれて。苦労してきたヤツなんで、社会人でいいスタートをきれて本当によかったな、とうれしくなってね。思わず本人に電話したのを覚えています」
10月には台湾で行なわれたBFAアジア選手権に日本代表として出場。リリーフで3試合に登板し、いずれも無失点に抑えて日本の優勝に貢献した。
この頃には最速も146キロまで上がり、その年の終わりには6年間続いた服薬も終了。
【ある球団からの指名内定の知らせ】
しかしドラフト解禁のシーズン、1年目のような投球ができなかった。あの試合が......今も平尾の脳裏に残る一戦がある。
シーズン開幕直後、3月上旬に行なわれたオリックス二軍とのオープン戦。プロへのアピールには絶好の舞台で、平尾は先発を任された。4回まで無失点と完璧な立ち上がりを見せ、自信に満ちた投球は、前年の好調を彷彿とさせるものだった。
しかし5回、二死二塁からセンター前へ打球が抜け、ホームカバーへ走り出した瞬間、軸足の左太腿裏に痛みが走った。走者は三塁でストップ。次打者を一塁ゴロに打ちとり、何とかいい形でこの回を終えた。ベンチ裏に戻り、足の状態を確かめていたその時、「6回もいくぞ」と声がかかった。
まだ社会人2年目。自ら交代を申し出ることは憚(はばか)られ、マウンドへ上がった。
以降2カ月、実戦のマウンドから離れ、コンディション調整に努めた。都市対抗予選で復帰し、初戦と3回戦で先発勝利を挙げるも、第2・第5代表決定戦では勝ちきれず。第6代表決定戦で完封し、チームはようやく本戦出場の切符をつかんだ。
しかし、かつてのような球威は戻らなかった。都市対抗本戦では三菱日立パワーシステムズ戦に先発したが、初戦敗退。ストレートの勢いもキレも1年前とは何かが違っていた。
「コーチからは『左足の蹴りが弱い』と言われたこともありました。無意識に左足をかばう投げ方が身についてしまったのか、ボールの勢いが戻ってこなかったんです」
調子が上がらないままシーズンは進み、ドラフトが迫ってきた。それでも「状態さえ戻れば」と期待を込めて、足繁く練習場に姿を見せるスカウトが複数いた。秋口にはホンダ鈴鹿のチーム関係者に対し、NPBのある球団がドラフト指名の意思を伝えてきた。
その翌日、平尾が練習に顔を出すと、指導者たちが笑顔で声をかけてきた。
「よかったな。厳しい世界だけど頑張れよ」
まるで実感は湧かなかったが、和やかな空気は"プロ入り内定"を伝えていた。
しばらくすると、今度はドラフト当日の生放送を恒例としているテレビ番組の制作担当者が訪れ、指名後に生出演することまで決まった。病を乗り越え、社会人で大きなチャンスをつかんだサウスポー。しかも大阪桐蔭出身で、藤浪晋太郎の同期でもある。テレビ関係者が飛びつかない理由はなかった。流れは完全にできあがっていた。
【テレビ番組出演予定もまさかの指名漏れ】
ドラフト当日。午前の練習を終え寮へ帰ると、番組担当者が明るく声をかけてきた。
「4位か5位で指名されるようですね。
会見場にはテレビカメラが2台、新聞記者やカメラマンがずらりと並んでいた。指名が進むにつれ、平尾とチーム関係者も席に着き、その瞬間を静かに待った。
ところが、濃厚と見られていたある球団からの指名がない。なんともいえない重たい空気が流れ、やがて12球団の選手選択が終了。その時、一転して神妙な表情を浮かべた番組担当者が、平尾のもとへ歩み寄ってきた。
「しんどいとは思いますが、1時間後に出演していただきますのでよろしくお願いします」
まじか......。番組恒例の"お母さんへの手紙"も事前に平尾が書き、準備されていた。さすがにこれはカットとなったが、出演は時間を短縮し予定どおり行なわれた。
「たぶん僕の出演時間が減った分、吉田輝星の尺が長くなったと思います(笑)」
まさかの指名漏れ──よく耳にするドラフト話だが、その当事者となってしまったわけだ。
「プロ側としたら、『絶対大丈夫』と思えなかったんでしょう」
当日の記憶をたどると、指名が進むなかで苛立ちを募らせていたチーム関係者とは違い、平尾自身は意外に冷静だった。
「あの状態でプロに行くことに不安があったんだと思います」
万全でない状態で、勝負できるほど甘い世界ではない。どこがホッとした気分もあったのだろう。
その一方で、「状態を整えて、来年もう一度」という思いも確かにあった。ただ、3年目、4年目とシーズンを重ねても、周囲の目を再び引きつけるような、あの1年目の投球は戻ってこなかった。
文中敬称略
つづく>>










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