阪神ドラフト1位・立石正広の原点(前編)

 10月23日。ドラフト会議で最大の目玉選手として注目された立石正広(創価大)は、阪神、広島、日本ハムの3球団が競合し、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得した。

 大学2年春に打率.500、5本塁打、14打点で東京新大学リーグの3冠王に輝いたプロ垂涎の右の強打者は山口県で生まれ育ち、中学・高校の6年間を過ごした高川学園で、その土台を築いていった。

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【毎朝の打撃練習が日課】

 高川学園高の松本祐一郎監督は、教え子がこれほどまでの注目選手へと成長を遂げたことに驚きを隠せない。

「高卒でプロに行けたのかもしれませんが、体も細く、通用するのかという印象もありましたので、指導者としても行かせる勇気はありませんでした。内に秘めた闘志や、負けず嫌いな一面もありますが、リーダーシップを取れるような子ではなかったので、大学でキャプテンをやると聞いた時には大丈夫かなと思ったぐらいです」

 松本監督は、立石が中学2年の5月から高川学園シニアを率いることになった。中学2年の13~14歳と言えば、10代のなかで最も多感な時期。斜に構え、大人に反発する子どもも少なくないが、立石に関しては、「性格的におとなしく、反抗期や、擦れている感じはありませんでした」と振り返る。

 印象に残るのは、黙々と自主練をこなす姿だ。高川学園シニアでは毎朝ミーティングを行なってから登校するが、立石はジャージー姿で大量の汗を流しながら参加してくる。朝起きたら顔を洗い、歯を磨くのと同じように、室内練習場で打撃練習を行なうのが当然の日課だった。

「とにかく早い段階から自分の目標を明確に持って頑張ることができる子でした。その日の気分ではなく毎日、時期も関係なく汗を流してから朝礼に出てくるので、今時にしては珍しい子だなという印象がありました。プロという目標はまだ先で、とりあえず目先の大会に勝ちたいとか、うまくなりたいということが楽しさにつながって、夢中になっていたんでしょうね」

【親から譲り受けた抜群の身体能力】

 中学を卒業後は高川学園高へと内部進学。松本監督はその約半年後、高校で指揮を執ることになり、再び立石を指導することになる。

 うれしかったのは「変化を感じなかったこと」だ。

全体練習後、本塁後方のカーテンネットに向かってティー打撃を繰り返す姿は、日々努力を怠らなかった中学時代と何ら変わりはなかった。

「いい素材であることは間違いなかったので、高校に入ることで、心の部分で変わっていなければいいなと思っていました。私が高校の監督になってからも、野球に対しての取り組み方は変わっておらず、自分で決めたことは必ずやり通すという、中学の時に感じた立石のままだったことが一番よかったなと思います。だから、練習しろとか、礼儀、立ち居振る舞いで彼を注意したことは一度もありません」

 最後まで決めたことをやり通す芯の強さ、そして抜群の身体能力は、元バレーボール選手の両親から受け継がれた天賦の才でもある。母の郁代さん(旧姓・苗村)は日本代表として1992年バルセロナ五輪に出場し、父の和広さんも強豪の宇部商(山口)、法大で活躍。2人の姉(沙樹さん、優華さん)は誠英高(山口)で春高バレーに出場し、今も現役でプレーしている。

「お母さんがオリンピアンなので、見れば見るほど可能性は感じていました。私は頑張れる能力があるかないかが、いい選手になるための条件だと思っていますが、ちゃんと頑張れる心がある子だったので、ご両親に感謝ですね」

 立石が高校入学時の監督だった西岡大輔部長は、2017年から高川学園シニアで指導者として接した際の第一印象を「バレーボールのアタックのような投げ方でした」と振り返る。

「スローイングのリストの使い方が、バレーボールをパチンと叩くような感じなんです。ただ、手足は長いのですが、体格が華奢で、ぎこちない動きだったので、中学時代はファーストしかやらせていないです」

【一心不乱にバットを振る姿】

 脳裏に焼きついて離れないシーンがある。立石が中学3年の冬、高校の練習に参加している時だ。ケガでほかの選手たちと一緒にとランニングメニューがこなせないなか、脇目も振らず一心不乱にティー打撃をこなしていた。

「ふつうの子なら、自分が走れないと、少し引け目を感じながらティー打撃をすると思うんです。でも、その表情、取り組む姿勢が、いま自分ができる精一杯のことを淡々とやるという感じがにじみ出ていて、黙々とバットを振っていた印象があります」

 雨の日も風の日もバットを振り続けた日々は嘘をつかない。日を追うにつれ、フォロースルーが大きくなっていくのが見て取れた。
 
「高校に入学した時の身長は172、3センチでしたが、背丈に合っていないフォロースルーなんです。まだ当時は力がなかったので、打球はそこまで速くはありませんでしたが、長い物干し竿を振っているような感じで、ヘッドが効く子だなと思っていました」

 ゆくゆくはプロのステージに上がれる素材だと思い、一塁だけでなく、二塁や三塁の守備も練習させた。イメージは、2018年に大阪桐蔭の主力として春夏連覇を果たした山田健太(立教大→日本生命)だ。
 
「山田選手は大阪桐蔭でセカンドやサードを守っていて、彼のようになってほしいなという思いがあったので、目先というより、将来を見据えて挑戦させました。まさかドラ1の選手にまでなるとは思っていませんでしたが、プロにはいけるだろうという感じはしていました」

 西岡部長はそんな大器を、高校1年の春から「2番・一塁」に抜擢した。同年夏は背番号14でベンチ入りすると、秋の新チームから背番号5を獲得。調子を落とし、中国大会準々決勝の広島新庄戦ではスタメンを外れたが、同学年の左腕・秋山恭平(中央大)から右翼フェンスまで豪快な当たりを放った瞬間、将来の中心選手になることを確信した。

「2年春からクリーンアップ、そして最高学年では4番を打たないといけない素材であることは間違いありませんでした」

 コロナ禍の影響で2年春夏の公式戦は軒並み中止となったが、バットを振る手を止めることはなく、最高学年を迎える頃には、プロのスカウトの注目を浴びる存在となっていた。

つづく>>

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