プロ野球ブルペン史
潮崎哲也が語る西武必勝リレー「サンフレッチェ」誕生の軌跡(後編)

 1989年11月26日、東京・赤坂プリンスホテルで行なわれたドラフト会議。1位指名で新日鉄堺の野茂英雄に8球団が競合したなか、松下電器(現・パナソニック)の潮崎哲也は西武から単独1位指名を受けた。

その5日後、潮崎が憧れていた巨人・鹿取義隆の西武移籍が決定。外野手の西岡良洋と1対1の交換トレードだった。当時の心境を潮崎に聞く。

潮崎哲也が憧れの鹿取義隆から学んだ「適当でいい」という名の強...の画像はこちら >>

【オリックス打線から8連続奪三振】

「ドラフトと、トレードと、どっちが先か、わからないぐらい一緒のタイミングで決まったと思います。だから僕、年齢は一回り下ですけど、鹿取さんと同期入団なんですよ。すごくうれしかったですね」

 鹿取と同じサイドスローに転向したのが高校2年生の時。以来、潮崎は意識して鹿取を観察するようになり、巨人ではほかに斎藤雅樹にも注目していた。その斎藤は89年に21完投で20勝を挙げた完全な先発完投型。一方で鹿取は西武に不在の抑えとして期待された投手。潮崎自身、先発か、リリーフか、どちらで投げたいという願望はあったのか。

「僕はバリバリ先発のつもりで入ったんですよ。でも、後々聞いたら、『西武ライオンズになって、リリーフ投手をドラフト1位で獲ったのはおまえが初めてやな』って言われて。何か、騙されたような感覚でしたけどね(笑)。

でも『なんだよ!』っていうような気持ちはまったくなかった。やっぱり、必要とされるところで投げるのが、選手として一番の醍醐味だと思っているので」

 1年目の90年、開幕一軍入りを果たした潮崎だったが、登板機会はなかなか巡って来なかった。なぜなら、開幕投手の渡辺久信に始まって、郭泰源、渡辺智男、工藤公康と4試合連続の完投勝利。西武に限らず、当時はまだ投手は先発完投が基本であり、潮崎のデビューはチーム5試合目、4月14日のダイエー(現・ソフトバンク)戦だった。

 この試合は8対2と西武6点リードの6回、先発の渡辺久が6回につかまり一挙5失点。二番手が一死も取れずに降板したあと、潮崎に出番が回ってきた。半ば緊急の初登板となったが、2回1/3を2安打4奪三振で無失点。移籍後初マウンドの鹿取がセーブを挙げた。現在のセットアッパーと抑えとは違うが、「潮崎−鹿取」の継投がここに始まっている。

「チームが負けている場面で僕が投げて、打線が逆転して、最後、鹿取さんが締めるっていう試合がよくありました。勝っている試合の1イニングを投げる今とは全然違いますね」

 潮崎がプロ初勝利を挙げた同24日のオリックス戦は、6対6と同点の6回から登板。ソロ本塁打を浴びるも8回に味方打線が逆転。

最後は鹿取が1点差を守った。オリックス戦といえば、7月5日の試合で3回途中から登板した潮崎は武器のシンカーを生かし、8連続奪三振を記録。1回、2回と2打席連続本塁打の門田博光もいた打線相手に、怖さはなかったのだろうか。

「あの時、オリックスは一番いい打線と言われていて、ホームランもある打者が多かったですけど、怖さはないというか、自分の力を100%出すことしか考えてなかったです。打たれる、打たれないは監督の責任だと(笑)。切羽詰まって『打たれたらどうしよう......』とか考えるんじゃなくて、『そんなん知ったこっちゃない』っていう感覚でした。無責任の真骨頂かなっていう」

【憧れの先輩からの「適当でいいんだよ」】

 試合中のブルペンでいきなり抑えを任されたため、打たれて負けた時の責任を首脳陣に預けてマウンドに上がる──。そんな「無責任」で臨んだ投手は実在したが、それは新人ではない。

「いや、新人だから余計に許されるかな、っていうような感じで。それにうしろに鹿取さんもいらっしゃるので、もう打たれた時は『ごめんなさい。よろしくお願いします』と(笑)」

 鹿取は移籍1年目を振り返り、「ブルペンに潮崎がいなかったら、僕はきつかったと思う」と語っている。一回り下の新人を頼りにしていたわけだが、潮崎自身、それ以上にうしろにいる鹿取を頼りにしていた。信頼関係が築かれていたなか、憧れの先輩から学んだこともあっただろう。

「僕と鹿取さんの真っすぐを比べた時、僕のほうがちょっと速いんですよ。空振りを取れる変化球も、シンカーがあるので僕のほうが絶対いいんです。でも、トータルしてみたら、やっぱり鹿取さんのほうがいいんですよね。『なんでかなぁ......』ってずっと思っていました」

 90年の成績を見ると、鹿取は37登板で3勝1敗、24セーブ、45回を投げて防御率3.00。潮崎は43登板で7勝4敗、8セーブ、102回1/3を投げて防御率1.84。登板数に投球回数も違うし、そもそもプロ12年目の鹿取と新人の潮崎を比べられない。だが数字ではない部分、とくにコントロールに関しては、鹿取が数段上と見ていた。そこで潮崎は聞いてみた。

「鹿取さん、困った時、どうされるんですか? やっぱりコントロールに自信があるから、もうキチキチですか?」

「アホか、オレにそんなコントロールあるか」

「え~? そうですか」

「真ん中だけを狙って、ちょっと低めに投げるんだよ」

 まったく意外な鹿取の返答だった。困った時ほど、ストライクゾーンの四隅に狙いどおり投げているのかと思いきや、困ったら真ん中低めに投げているとのこと。じつは潮崎の考えと近しいところがあった。

「『打たれたらどうしよう』とか、『きっちり投げられなかったらどうしよう』とかじゃなくて、もっとアバウトでいいんだなって。

僕らから見たら完璧なようなピッチャーなのに、実際にはアバウトな感覚を持っている。『自分からキュウキュウするな。適当でいいんだよ』って教えていただきましたね。で、打たれたら、ハイ、次、次っていう(笑)」

 困った時というのは、たとえば、無死満塁でスリーボールになってしまうような、絶体絶命のピンチになった時だろうか。

「いや、もっとピンチじゃない時でも。1点リードしている時の先頭打者。先に2ボールになってしまった。どうしてもストライクがほしい。でも、打たれたらどうしよう、アウトローにきっちりいかなアカン、となるところを『いいんだよ、真ん中低めで』って。そんな、追い詰められて投げることはしなくなりましたね」

【リリーフで一番大事なこと】

"鹿取師匠"に金言を授かった潮崎は、以前よりも自由奔放に投げられるようになり、2年目の91年も10勝5セーブと活躍。92年は鹿取が10勝16セーブで潮崎が6勝10セーブと、チームの3連覇に大きく貢献した。

 ただ、4勝3敗でヤクルトを制した日本シリーズ

鹿取が第1戦で杉浦享にサヨナラ満塁弾を浴びると、潮崎は第5戦で池山隆寛に決勝弾、第6戦では秦真司にサヨナラ弾を打たれた。ふたりだけで3敗を喫し、短期決戦で痛打されたリリーフは次に起用しづらいとも言われる。第2戦と4戦ではセーブを挙げていた潮崎だが、心境はどうだったのか。

「別に落ち込むとかもなく、しゃあないなっていうのが一番で。ここでやられたらどうしよう、っていう考えは基本的になかったですね。打たれて悔しくて物壊すとかまったくないし、嫁さんに『今日、勝って帰ってきたのか、打たれて負けて帰ってきたのか、全然わからへんな』って、よく言われたんです(笑)。高校時代から変わらず、全然、血気盛んじゃないんで」

 抑えに失敗したら、勝ちを消してしまった先発投手に気遣いはした。だが、失敗を引きずらず、気持ちの切り替えも必要ないほどタフなメンタルの持ち主だった。

 93年に左の杉山賢人が入団。鹿取、潮崎、杉山の必勝リレーが"サンフレッチェ"と呼ばれたなか、対左打者は杉山が受け持ち、ほぼ右打者限定になった潮崎は苦になることが少なくなった。今のように3人で1イニングずつではなく、回またぎに走者を残しての交代は当たり前だった。

「一人ひとり、自分たちの仕事をしましょうよ、というような3人の助け合いでしたね。

要は絶対的に抑えるわけですから、厳しいといえば厳しい。でも、僕には鹿取さんがいて、途中から杉山が入ってくれて、本当に助かることばかりでした」

 プロ8年目の97年に先発に転向。12勝を挙げた潮崎だが、転向は「リリーフ失格」となったからでもあった。あらためて、それだけの難しさもあるリリーフで一番大事なことは何か。

「試合をぶっ壊さないってこと。リリーフって、どこまでいっても他人の仕事を請け負ってるみたいな感覚があるので。先発ピッチャーの勝ちを消さない、チームを勝たせたまま次の人に渡す、勝ったまま終わらせるっていうのが醍醐味であり、難しさであり、難しいからこそ喜びでありという経験ができて、僕自身は面白かったです」

(文中敬称略)


潮崎哲也(しおざき・てつや)/1968年11月26日生まれ。徳島県出身。鳴門高から松下電器に進むと才能が開花。19歳で全日本入りを果たし、野茂英雄や与田剛らと共にソウルオリンピックに出場。89年のドラフトで西武から1位指名を受け入団。魔球と称されたシンカーを武器におもにリリーフとして活躍し、西武黄金期を支えた。2004年限りで現役を引退。引退後は西武の球団編成、コーチ、二軍監督などを歴任し、現在はシニアアドバイザーとしてチームを陰で支えている

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