神村学園・小田大介監督インタビュー(前編)
2023年、2024年と2年連続で夏の甲子園ベスト4に進出し、今や鹿児島県内にとどまらず、九州の高校野球をけん引する存在となっている神村学園。チームを率いる小田大介監督(43歳)は熱血指導で知られ、選手との適度な距離感を保ちながら、試合ではベンチで喜びを分かち合う姿が印象的だ。
【教育実習で指導の面白さを実感】
選手との距離が近く、同じ目線で言葉を交わし、喜びを分かち合う場面ではグータッチを交わすこともある。甲子園の取材でも、これまで数々の"名言"を残してきた。これほど熱意にあふれる小田監督だけに、大学......いや高校時代から指導者を志していたのではないかと思いきや、返ってきたのは意外な答えだった。
「じつは大学の途中まで、指導者になることはまったく考えていなかったんです」
福岡県宮若市出身。東筑紫学園から亜細亜大へ進学し、おもに投手としてプレーした。夢はプロ野球選手だったが、ハイレベルなチームのなかで自身の限界を感じる。大学卒業後は社会人野球で現役続行の道を模索したものの、肩のケガなどもあり断念した。
だが、大学4年時の教育実習で高校生と触れ合うなかで、それまで抱いたことのない思いが芽生えた。
「生徒の練習につき合い、その成長の瞬間に立ち会えることに、感動というか喜びを覚え、大きな生きがいを感じたんです。そんな時間を共有できる人生も、いいのではないかと思うようになりました」
そんな矢先、知人を通じて、ある高校がコーチを探しているという話を聞いた。それが神村学園だった。ただ、九州で生まれ育ったとはいえ、当時は鹿児島には一度も足を運んだことがなかった。
「鹿児島は縁もゆかりもない土地でした。
【31歳で神村学園野球部監督に就任】
野球部の寮で選手と寝食を共にしながら、必死に練習に打ち込む彼らと時間を共有する日々が続いた。当時はレギュラーではない、いわゆるBチームの選手を見る機会が多く、22歳だった小田は兄貴分のような存在だった。
1年目の年明けとなる1月からは、中等部を強化するという学校の方針もあり、中等部のコーチに就任。2年間コーチとして指導したあと、6年間は中等部の監督を務めた。その後2013年、31歳の時に高等部の監督に就任した。
ただ、当時はこんな葛藤もあった。
「高校野球の監督になると、どうしてもグラウンド優先の生活となり、家族と過ごす時間が限られてしまうでしょう。当時は子どももまだ小さかったので、正直なところ、もう少し中等部で指導しながら経験を積んでから、(高等部の)監督をまかせてもらえたら......という思いはありました。でも、学校の方針でもありますし、いずれは高校野球の監督をやりたいという思いもありました。このチャンスを逃したら、もう二度とないかもしれないとも考え、引き受けさせていただきました」
ちょうど新チームがスタートした頃だった。グラウンドに顔を出すと、当時の選手たちから「僕たちは史上最弱と言われているんです」と声をかけられたという。だがその時、小田監督はこう返した。
「僕はまだチームのことを何も知らないし、見てもいないので、本当に史上最弱なのかはわからない。
会話などで選手たちとコミュニケーションも重ね、選手個々の情報も徐々に把握していった。そしてある時に「練習試合はどことしたいの?」と小田は選手に尋ねた。
「そうしたら、九州国際大付さんとしたいって言っていたんですね。それで知り合いを通じて、練習試合をさせてもらえることになったんです」
神村学園のある鹿児島県いちき串木野市から九州国際大付のある北九州市まで、車で4時間以上を要する。そのため、試合前日に寮を午前3時半に出発することを選手たちに伝えた。
ところが、バスが出発したのは3時45分だった。3時半出発と伝えていたにもかかわらず、選手たちの行動の遅さは目に余るものがあった。そこで、時間をきちんと意識しているのかと選手に尋ねると、一部から「こういうことはよくあるので......」という言葉が返ってきた。
「その言葉に、ものすごく腹が立ったんです。現地に着いてバスを降りたあと、『時間が遅れることはよくある』と言っていたけれど、それは当たり前ではないんだと。そんなことはあり得ないと、厳しく伝えました」
【鹿児島で応援されるチームをつくる】
そこから掃除やあいさつ、整理整頓といった基本を徹底し、当たり前のことを当たり前にできるチームを目指すことにした。
「(学校創立者でもある)神村勲先生から、『鹿児島で応援されるチームをつくってくれ』と言われていたんです。『何年かかっても、甲子園に行けなくてもいいから』とも。まずは日常生活をきちんとすることが、応援されるチームに一歩でも二歩でも近づけると思ったんです」
ただ、野球をするため、試合に勝つために来た選手のなかには、その取り組みに疑問を抱く者もいた。ある選手からは、「僕たちは勝てるようになるんですか」と問いかけられた。それでも小田監督は信念を曲げなかった。
「当たり前のこともやらずに結果が出ていないのに、俺にそんなことを聞くのは筋違いじゃないのかと。やって結果が出ないなら俺に言ってこい、とその選手に伝えたら、『じゃあやります』と。それがチームのスタートでした」
するとチームは、直後の秋の県大会を制し、九州大会でもベスト4まで勝ち進んだ。わずか2カ月ほどで見違えるように変わったチームの姿に、指揮官は「選手たちが、やるべきことを素直にきちんと実行してくれたから」と手放しで喜んだ。
とはいえ、九州はもちろん、鹿児島で勝つことが容易ではないことは常に覚悟してきた。鹿児島には、鹿児島実、樟南、鹿児島商などの古豪がひしめき、毎年上位に進出してくる。コーチ時代から感じてきた伝統校の存在の大きさを、大会のたびに痛感してきた。
「伝統校の力というか、圧力ですかね。試合前のノックから、その雰囲気に押されそうになることは今でもよくあります。中等部を指導していた頃も、鹿屋中央やれいめいといった中学野球の強豪校が県大会では常に上位にいて、勝つことに苦労しました。九州大会に出ても、各県の強豪校や伝統校ばかりで、勝つことは簡単ではありません」
つづく>>










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