ワールドカップ戦士が語る(2)
清武弘嗣インタビュー@前編
「2014年・ブラジル」
サッカー王国で行なわれた2014年のブラジル・ワールドカップ。イタリア人指揮官のアルベルト・ザッケローニ監督に率いられた当時の日本代表は、香川真司(マンチェスター・ユナイテッド/当時・以下同)、本田圭佑(ミラン)、岡崎慎司(マインツ)らヨーロッパでプレーするスター選手を数多く揃え、「史上最強」の呼び声が高かった。
人気も実力も備えたチームに対する期待感は、それまでにないほど大きかった。しかし、ブラジルの地で待ち受けていたのは「グループリーグ敗退」という現実だった。
背番号8を託され、ゲームチェンジャーの役割を期待されていた清武弘嗣(ニュルンベルク)にとっても、悔しい大会となった。出番は最終戦の数分のみ。多くの時間をベンチで過ごすこととなった。
「優勝」を公言していた日本代表は、なぜブラジルの地でひとつも勝利を挙げられなかったのか。清武が言及した敗因とは──。
※ ※ ※ ※ ※
── 清武選手は2011年8月の韓国戦で日本代表デビューを果たしました。ブラジル・ワールドカップのアジア3次予選開幕の直前に行なわれた親善試合でしたが、その試合は覚えていますか。「そうですね。あのチームはアジアカップで優勝していたし、サブにも松井大輔さん(ディジョン)や家長くん(昭博/マジョルカ)がいて。あの時はまさか自分が出るとは思っていなかったんですよ。
でも、オカちゃん(岡崎慎司/2011年~2013年シュツットガルト)に代わって急遽出ることになりました。まだ前半の途中でしたから、アップもほどほどで、ちょっと焦りましたね」
── 韓国に快勝を収めた試合で2アシストを記録するなど、鮮やかなデビュー戦でした。
「思ったよりも緊張しなかったですね。右サイドだったんですけど、(内田)篤人くん(シャルケ)が全部、指示してくれたので助かりました。指示が的確だったので、めちゃくちゃやりやすかったです」
【ザックさんは守備も攻撃も細かかった】
── 当時はロンドンオリンピックを目指すチームでも主力を担っていましたが、代表でもやれる手応えを得られたのでは?
「そこまではなかったですね。調子はよかったですけど、当時はオリンピックのほうで精一杯で、自分がA代表でプレーするというイメージを描けなかったんですよ。
選ばれて代表に入ったら、周りはテレビで見ている人たちばかりで。しかも強烈な人たちだったから、ちょっと気圧される部分もありました。ただ、そこで一緒にやったことで、欲は出てきましたよ」
── アルベルト・ザッケローニ監督の指導はかなり緻密だったそうですね。
「細かかったですね。守備も細かかったし、攻撃も細かかった。僕は2列目の右も、左も、真ん中もやりましたけど、ポジションによって中に入るタイミングとか、下がりすぎないとか、そういう決まりごとがたくさんありました。
韓国戦の時は準備期間も少なかったので、ある程度、自分の感覚でやっていたんですけど、ちょっとずつ代表に関わっていくなかで、立ち位置だったり、タイミングだったり、サイドバックとの関係性とか、いろいろ細かい要求は増えていきましたね」
── ザックさんに一番求められていたことはなんですか?
「(香川)真司くんがいて、(本田)圭佑くんがいて、オカちゃんがいるなかで、基本的にスタメンで出ることはほとんどなかったですけど、左も右も真ん中もできたので、彼らの代わりという存在だったと思います。
── 当時は左で作って、右で仕留めるというような戦い方だったので、右で出た場合と左で出た場合とでは、役割は違ったのですか。
「そうですね。左の時はサイドで作って、最後に圭佑くんとかオカちゃんに仕留めてもらうような感じでした。だから僕も右で出た場合は、少しゴールに近い立ち位置だった感覚はあります。フォワード寄りでプレーすることを心がけていましたね」
【サッカー人生の大きな転機のひとつ】
── 3人のバックアップのような立場は受け入れられていたのでしょうか。
「そこがたぶん、自分の気持ちの弱さなんでしょうね。もう、3人が偉大すぎて、超えられなかったですし、一歩引いている部分もあったかもしれません。
だから、ポジションを奪ってやるというよりも、誰かがいない時に出るんだっていうことを勝手に思っていたんですよ。自分は3人のバックアップなんだって、そういう気持ちではありました」
── ワールドカップ予選では、アジア3次予選の初戦・北朝鮮戦で日本は苦戦を強いられましたが、清武選手は途中出場から後半アディショナルタイムにショートコーナーの流れからクロスを送り、吉田麻也選手(VVVフェンロー)の決勝ゴールをアシストしました。あのシーンを振り返ると?
「あれは今、振り返ると、自分のサッカー人生の大きな転機のひとつだったなと思います。苦しい試合でしたけど、決勝点に関与できましたし、興奮しましたね。
あれで僕のことを知ってくれた人も多かったと思います。あの瞬間を味わったことで、代表でプレーしたいという思いもさらに強くなっていきましたね」
── それでもまだ、自信はなかった?
「めちゃくちゃ必死でしたよ。
僕は主力ではなかったから、その危機感は常にありました。求められることができなければ、すぐに呼ばれなくなると思っていましたから」
── 予選全体を振り返ると、アジア3次予選では苦戦しましたが、最終予選は比較的余裕を持った戦いができたのではないでしょうか。
「いや、苦しかったですよ。アウェーでヨルダン(1-2)に負けましたし、ワールドカップを決めたオーストラリア戦(1-1)も、最後に圭佑くんのPKでなんとか追いつきましたけど、あそこで負けていたらどうなっていたかわからない。
やっぱりワールドカップに出るのは簡単じゃないんだなって思いましたし、勝ち上がることの大変さを実感しましたね。だから、今の代表チームを見ると、本当に強いなって思います。危なげなく出場権を手にしたので、すごい時代になったなと」
【欧州遠征後から立場が苦しくなった】
── ただ、ワールドカップを決めたあとに行なわれたコンフェデレーションズカップでは、日本はブラジル(0-3)、イタリア(3-4)、メキシコ(1-2)に3連敗を喫してしまいました。自信を打ち砕かれるような部分はありましたか。
「あの時くらいからですかね......迷いというか、チームとしてこのままでいいのかっていう空気感が生まれてきたのは。アジアでは勝てたけど、世界相手には勝てなかったわけなので、ワールドカップを見据えれば、ちょっとやばいなという危機感はありました」
── その後、国内組中心で臨んだ東アジアカップが行なわれ、そこで優勝したメンバーが徐々にチームに組み込まれていくようになりました。
「いや、別に監督と何かあったとかはないですね。ただチームとして、悩んでいた部分は正直あったと思います。コンフェデもそうですし、その後の東欧遠征でもセルビア(0-2)とベラルーシ(0-1)に負けてしまった。なかなか勝てなくなって、このままではやばいと思っていましたし、僕自身もやっていてうまくいっていないと感じていましたから」
── ただ、その後に行なわれたヨーロッパ遠征ではオランダ(2-2)と引き分け、ベルギーに勝利(3-2)します。何が変わったのでしょうか。
「大きな変化があったわけではないですが、(山口)蛍(セレッソ大阪)とか、サコ(大迫勇也/鹿島アントラーズ)とか、(柿谷)曜一朗(C大阪)とか、東アジア組のメンバーがけっこうチームにフィットしてきて、うまく形になっていったところはありますね。ただ逆に、僕はあのあたりから苦しくなりました」
── 具体的に言うと?
「当時はニュルンベルクでプレーしていたんですが、チームが不調で僕自身もなかなか結果を出せない状況でした。代表でもあまりいいパフォーマンスを出せず、オランダ戦でもベルギー戦でもスタメンで出たんですが、前半だけで変えられてしまいました。
いろいろ試されているなとは思っていたんですけど、結果を出せずに悔しかったですね。ただ、チームとしては結果を出せたので、あの2試合はすごくいいきっかけになったと思います」
(文中敬称略/つづく)
◆清武弘嗣・中編>>「4年間で一番日本らしさを出せなかった試合」
【profile】
清武弘嗣(きよたけ・ひろし)
1989年11月12日生まれ、大分県大分市出身。

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