この記事をまとめると
■トラックドライバーの労働環境は時代とともに大きく変化した
■昭和の時代のトラックドライバー事情を振り返る
■とくに水産便は血気盛んだったという
誰もが一番に到着することを目指した水産便
荷物を運ぶトラックに派手な装飾を施すことで知られる日本独自のデコトラ文化。令和となった現在では、派手なデコトラで仕事をすることが難しくなったが、デコトラ界は飾り方のスタイルを変えながら、現在でも大いに盛り上がっている。
そんなデコトラが世間に知られるようになったのは、1975年から1979年にかけて公開された映画『トラック野郎』の大ヒットによるもの。
映画には喧嘩のシーンがお決まりのように組み込まれていたが、仕事の内容自体も現実のトラックドライバーとは遠くかけ離れたものだった。むしろリアリティよりもバラエティ色を押し出した内容であったからこそ、大きくヒットしたのだろう。
とはいえ、威勢のいい、いわゆるトラック野郎たちによる喧嘩が多かったのは事実である。オイルショック後の当時の日本は景気が良かったため、物流業界も大いに盛り上がっていた。物量にトラックの数が追いついていなかったために、トラックドライバーの天下だったのである。個人所有の白ナンバートラックでも仕事ができ、荷物を積めば積むほど、そして走れば走るほど稼ぐことができた当時のトラック野郎たちは、文字通り体を張ってハンドルを握っていたのだ。
なかでも鮮魚を運ぶ水産便は血気盛んで、誰もが1番に目的地へ到着することを目指していた。もちろん、(鮮度が悪くなる前に届ければ届けるほど)稼げるからである。食事やトイレ休憩すらせず、一心不乱にトラックを走らせていたのだ。
「昔は本当に凄かったよ。関東と関西を走るトラック街道の某国道なんてさ、夜間に赤信号で止まると、なんで止まるんや! って後ろのトラックドライバーに怒られたんだもん。
そう話してくれたのは、昭和時代のトラック業界をリアルで駆け抜けた、Aさん。現在は、関東で運送業を営んでいる。
暴走族とのやりとりも印象的!?
そんなAさんは、暴走族とのやりとりが印象的だったとも話す。当時は暴走族も過激で活発だったが、先述の国道を横切る際はたとえ自分側の信号が青であっても、赤信号側の国道を爆走するトラックが途切れるまで待っていたというのだ。いくら喧嘩上等な彼らであっても、猛スピードで走ってくるトラックと事故を起こせばひとたまりもない。そこには根性論などは関係なく、暴走族が止まらざるをえないような異様な光景が実際に起こっていたのである。
「あの頃は、デコトラって呼び名はなかったけれど、映画の前から賑やかなトラックはちらほら見かけたよ。とくに青森や東北ナンバーの水産トラックはランプをたくさん付けたりしていたから、夜でも派手だったしな。サイドミラーで電気をつけた派手なトラックが見えてきたら、東北の魚屋だなってすぐにわかったもんだよ。彼らはなにせ急いでいるから、姿が見えた瞬間に道を譲ったもんだよ。素直に危ないし、邪魔をして絡まれたら厄介だしね。
なんともリアルなエピソードだ。

やがて平成の時代になると景気は停滞し、立場が逆転。荷主天下になってしまう。荷物よりも運送会社のほうが増えてしまったため、無理難題を押し付けられるようになったのだ。そのため賃金は安くなり、多くの規制や制限が課されるようになった。それも当然の流れなのかもしれないが、トラックドライバーの世界は大きく様変わりをしたのである。
誤解を招いているかもしれないが、無茶が通った昭和の時代のほうがよかったというような考えではない。どう考えても過積載運行や労働時間などに厳しい規制がある現代の方が、真っ当だからだ。ただ、反社会的な生き方がある程度許されていた時代で、かつ景気も良かった時期があったのは確かだし、人間も生き生きとしていたような気がしないでもない。
もちろん法を犯すのはご法度であるし、周囲に迷惑をかけるような行為はよろしくない。やや逆説的かもしれないが、綺麗ごとや正義感だけではなく、もっと人間らしく生きられる世の中になってくれることが、景気回復の近道であるようにも思えてならない。