この記事をまとめると
■ケータハム・セブンは運転の概念を変える衝撃的なクルマだ■「軽さこそ正義」を体現し、常に純粋なドライビング体験を提供しつづけている
■エンジンの種類を問わず一貫して走る楽しさを追求した一台だ
「走る」ということだけを追求した究極のクルマ
もし、初めて乗ったときにもっとも大きな衝撃を受けたクルマは何だった? と問われたら、僕は「そりゃケータハム・セブンでしょ!」と答えるだろう。スーパーカーブームの頃に憧れたイオタ──正確にはミウラSVJも強烈だった。F1ドライバーですら畏れを抱いたというフェラーリF40も強烈だった。
そのときステアリングを握ったのは、先輩の所有していた1980年式の1600GTスプリントという比較的スタンダードといえたモデル。たった110馬力の1.6リッターOHVでリヤサスペンションはリジッドアクスルと、あの当時にしてもメカニズム的には古めかしく、スペックだってほかのスポーツカーたちよりだいぶ見劣りしてた。

なのに、だ。蹴飛ばされたサッカーボールにでもなったかのような瞬間的に弾ける加速。何かに足を取られてつんのめったかのように速度を削る減速。心のなかで“曲がれ!”と唱えただけでコーナーを素早く置き去りにしていくハンドリング。全身が暴風のなかに放り込まれたかのような激しいオープンエアドライブ。それらが渾然一体となって襲ってきてるときの“快感”に、僕は一発で叩きのめされた。
スポーツカーにとって、たしかに馬力やトルクというのも重要ではあるのだけど、“軽さ”というものにまさる正義はないのだな、と心に身体に激しく叩き込まれた。当時、僕はまだ20代の前半。
セブンっていうのはホントに凄いスポーツカーだな、とそれ以来ずっと思い続けてる。何しろロータスがマーク6の流れを汲むクラブマンレーサーでありロードカーでもある最初のセブンを発表したのは、1957年。あと2年で生誕70年だ。悠久ともいうべき長い時間を経たいまも、ずっと基本設計を変えず、生産が続けられ、新車で販売され、しかも年々進化し続けてすらいる。

写真を御覧になってわかるとおり、フツーとはいえないクルマだ。極端に低い、1950年代の葉巻型フォーミュラマシンのようなスタイル。ドアをもたないばかりかフロントのウインドウスクリーンすらない仕様だってある。
剥き出しの室内を覗けば、ステアリングとシフトスティックとシートとシートベルトとメーター類とペダル類はあるけれど、ほかに装備らしい装備は何も目に入ってこない。エアコン? インフォテインメントシステム? 何じゃそりゃ? で、ヒーターすらオプション設定というモデルもある。現代のロードカーなら備えていて当然の“おもてなし”系エクイップメントなんて端から眼中になく、走るために必要なモノ以外はひとつももってないのだ。

とくればあえていうまでもないのだが、ドライバーエイドやドライビングアシストのための電子デバイスだって、もちろん何ひとつない。
こういう原始的なスポーツカーが70年近くずっとエンスージャストから熱愛され続けているのは、とても驚異的なことではあるのだけど、紛うことなき事実なのだ。
その理由は、セブンというクルマを一度でも走らせたことがあるドライバーなら、誰もが理解してる。何もないからこそ軽い。何もないからこそ操縦に没入できる。何もないことがこのクルマの魅力を作り上げてるのだ、ということを。

セブンはただ“走る”という一点のみにフォーカスしたクルマだ。いうなれば“操縦専用車”。A地点からB地点まで人と荷物を乗せて快適に移動するための乗り物ではなく、A地点を出発してひたすらドライビングを楽しんでA地点に戻る、あるいはA地点から出発して特定のB地点で思うがままにパフォーマンスを堪能してA地点に戻る、という乗り方こそが相応しい。
サーキットまで自走して、コンマ1秒を競って、また走って帰るという1950年代の英国式クラブマンレーサーが原点なのだ。

走りのために必要なモノ以外には何ももたないのも当たり前。
すべてのセブンに共通する魅力の源はその基本的構造にある
その構造は、極めてシンプル。鋼管で組んだフレームにアルミパネルを貼り付けることで一種のセミモノコック構造とし、その車体にサスペンションやブレーキなどを組み付け、パワートレインをマウントするというのが、まぁざっくりではあるのだけど、基本的な作りだ。

1950年代から変わらない手法ではあるのだが、けれど鋼管の太さも組み方も補強の入れ方も、サスペンションのアーム類の長さも太さもバネの硬さもダンパーの減衰も……と、あらゆる部分が時代とともに延々と磨き上げられてきている。それどころか、いつの時代もそうだったのだけど、搭載エンジンが違えばシャシーその他もそれぞれにマッチしたチューンがなされていて、ディテールだって違う。何が重要なのか、ケータハムは完全に把握してるのだ。

だからセブンは、旧いモデルであっても最新のモデルであっても、どのモデルに乗っても間違いなく楽しい。
素晴らしく気もちいい。アクセルペダルを踏み込むやいなや、重量の束縛の代わりにハッキリしたGを感じさせながらパカーン! と前に突き進んでいく加速感。レース用のカーボンブレーキでもないのに、巨人の手で後ろから掴まれたかのようにグッと速度を削り取っていく減速力。ステアリングを切り込んだ次の瞬間にはコーナーをスパッとクリアしてるかのような、鋭いハンドリングと素早いコーナリング。

僕たちステアリングを握る者は、走りに対して徹頭徹尾ピュアに作られた原始的なスポーツカーが与えてくれるそうしたテイストを、ただただ貪り尽くすのみ。それだけで日々の暮らしのなかでイヤでも生まれてくる淀みのような何かだって、あっさり置き去りにできてしまう。爽快? 痛快? それ以上に相応しい言葉を探すとしたら、いったい何なのだろう?
そうした歓びは搭載エンジンが何であるかということに依存せず味わえる。ただし、搭載エンジンによる違いというのも少なからずある。たとえば現行ラインアップでもっともマイルドな“セブン170”は、660ccでたった85馬力に過ぎないけれど、車重は驚異的に軽い440kg。どこまでも軽やかでしなやかなフィールと、クルマの動きを自分で自在に制御していける充足感を得ることができる。ライトウエイト・スポーツカーの真髄を味わいたいなら、コレだ。

もっとも強力な“セブン480”は、2リッター4気筒の240馬力で、車重は525kg。このレベルのセブンになると、頭蓋骨が瞬間的に後ろへもっていかれて慣れない人だと視界がグニャリと歪んでくるほどの強烈極まりない加速力と、コーナーでペダル操作をミスしたら一瞬にしてテールが弾け飛んじゃうかも……とドキドキするようなスリリングな走りを堪能できる。
完全に御したいなら、ペダルを踏む自分の足をトラクションコントロール並みに育て上げる必要がある。第一級の劇物を欲してるなら、コレだ。

というか、ロータスの時代からケータハムの現在までの間にさまざまな個性をもったさまざまなエンジンが積まれ、シャシーその他も毎年のように改良の手が加えられてきてるから、世に送り出されたセブンの種類は数え切れないほど多彩。厳密にいうなら、それぞれのテイストもすべて異なっている。
けれど、素晴らしいことに、すべてがセブンなのだ。日本の軽自動車用をベースにしたエンジンでも、車重1トンあたり換算なら620馬力に相当するエンジンでも、トルク型ユニットでも高回転型ユニットでも、乗り手に贈られる楽しさや気もちよさは、セブンの世界観からは微塵も外れていないのだ。仮にもっとも速いセブンからもっともマイルドなセブンに乗り換えたとしても、だからつまらないと感じることがない。

クルマの楽しさってどういうことだ? というのを濾過していくと、最後に残るのは間違いなく“走る”こと。セブンはその真実を、余すことなく教えてくれるのだ。強制的に。
だから僕は、この“走る”ということ以外にできることのないこのとんでもないクルマに、ずっと惹かれ続けてる。きっと、これからも。