1985年6月18日、大阪市北区天神橋のSマンション。逮捕情報を受けて集結していた大勢のマスコミの目の前で、豊田商事会長・永野一男(当時32歳)は2人の男によって刺殺された。

この凄惨(せいさん)な事件によって被害総額2000億円に上る巨額詐欺集団は終焉(しゅうえん)を迎え、永野の死からわずか2週間後の7月1日、豊田商事は大阪地裁から破産宣告を受けた。
刺殺された永野のポケットに残されていたのはわずか711円。巨額の富を吸い上げた稀代の詐欺師の最期は、衆人環視のフラッシュの中に落ちる空虚なものだった。
永野が築いた豊田商事という砂上の楼閣は「純金ファミリー証券」という金のペーパー商法によって作られた。高齢者をターゲットに、「豊田」というネームを用いたブランドイメージと、テレビCM、そして法律の専門家である顧問弁護士の存在を盾に「信頼感」を演出し、資金を根こそぎ吸い上げる巨大詐欺企業である。
豊田商事事件は「永野一男刺殺」というセンセーショナルな事件に注目が集まる傾向がある。しかし、巨大詐欺事件の全容を明らかにすべく、永野刺殺後も奮闘を続けた弁護士たちの存在があったことも忘れてはならない。
本記事では永野一男刺殺から40年の今、現代の特殊詐欺の源流ともなった豊田商事事件を取材し『ルポ豊田商事』を自主出版したライターが改めて解説する。(本文:岩田いく実)

豊田商事とは何だったのか

豊田商事は「金のペーパー商法」を核として、極めて短期間に巨大グループ企業となった詐欺集団である。
1978年、東京都中央区銀座に「豊田商事株式会社」として設立された。日本最大手の自動車メーカー「トヨタ」を模倣した商号と銀座という本店所在地でブランディングを図り、詐欺的営業を全国で展開。最盛期にはグループ企業と合わせて1万数千名にも上る従業員が在籍した。
豊田商事は、グループ会社と多数の従業員を動員し、「純金ファミリー証券」という在庫を持たないペーパー商法で、主に高齢者から巨額の資金(被害総額2000億円)を吸い上げた。

豊田商事の大きな特徴には、グループ会社の乱立が挙げられる。関連会社数は約120社にも上ったが、銀河計画株式会社がグループの中核を担い、「金融財務の船頭役」として資金の吸い上げと再分配を行っていた。
豊田商事破産管財人の報告によると約90社はペーパーカンパニーであり、実働していたのはわずか約30社程度だったとされる。
ロンドン、香港、タイなどに現地法人が設立され、ゴルフ場運営や海外事業への進出も見られたが、まともな収益を上げられる事業は育たたず永野の死とともに終焉を迎えた。

悪質な営業手法とは

豊田商事による強引かつ悪質な販売手法は、民事訴訟や破産管財事件、そして消費生活相談員の証言などから詳細が明らかとなっている。豊田商事の手法は、高齢者の孤独や心理的な弱みにつけ込み、組織的なマニュアルに基づいて実行された。
テレアポ部隊による徹底した情報収集と、営業社員による執拗(しつよう)で威圧的な訪問営業、そして顧問弁護士が作成したとされる問答集の存在が大きな支えとなった。
各店舗に配置されたテレフォンレディは電話帳や老人会、学校OB関係者などのリストを使用し、無差別に電話をかけた。電話口で「氏名・年齢・職業・家族構成・資産状況」などをヒアリングして、契約できそうな人を見つけ出し、営業職員が自宅へ訪問。
訪問を渋る客や、拒絶しない(あるいはできない)老人の情報は「追客ノート」に記録され、営業社員によるしつこい電話や訪問を繰り返し、強引に契約へと結びつけた。
営業マニュアルでは「最低でも5時間は居座るように」と指示されていた。客が根負けするまで家に居座り続けたとされる。
実物の金を見なければ契約しないという客には、イミテーションのゴールドを見せて信用させていた。
脳いっ血の重い後遺症がある方を営業職員2人がかりで強引に担いで銀行へ連れて行き、預金を強制的に引き出した事例も報告されている。
色恋営業、高齢者の手伝いなどをして孤独感を満たし、懐に入りこむ手法も多用された。 こうした悪質な営業は、単なる販売行為を超え、人間の尊厳を著しく踏みにじる非人道的なものだった。
この行為の極端な悪質さを示すものとして、後に豊田商事破産管財人によって、この営業を行う従業員の雇用契約そのものが「公序良俗に反する」と断言されるほどだったのだ。
決して永野1人だけが、巨悪な存在だったわけではない。豊田商事の詐欺手法を支えたのは、高額な報酬に惹かれて集まった約1万数千人の「普通の人々」であった。彼らは、永野と同じく「一獲千金」を夢見て集まり、厳しいノルマと暴力的なマニュアル教育によって、公序良俗に反する加害者へと変貌した。
豊田商事事件が社会に残した負の遺産には、その詐欺手法が事件後も「残党たち」によって受け継がれたことも挙げられる。豊田商事の複数の元従業員は、その後悪質な霊感商法や金融商品まがい取引で逮捕されている。一度詐欺で収入を得る快感を覚えた人々は、永野の死後も足を洗わずに詐欺行為を続けたのだ。

「飢餓感」が生んだ稀代の鬼っ子

永野は1952年、岐阜県に生まれた。母親が新興宗教にのめり込んだことをきっかけに父方の親族内に居場所を失い、青年期を母方の叔父が暮らす島根県浜田市で過ごした。永野は後に詐欺の天才的手腕から「鬼っ子」と呼ばれるようになるが、当時はギターを弾いている大人しい子だった。

15歳を迎えた時集団就職にて愛知県へ移住、トヨタ自動車系列のデンソーで働いていたとされる。この頃から強い金への執着を見せるようになり、ギャンブルに熱狂。大垣競馬場でスリをはたらき逮捕されている。消火器の訪問販売やダイヤモンドの販売などを転々とし、商品取引会社の岡地へ入社。小豆相場を覚えたことから、豊田商事の設立に至った。
当時、永野は客の預り金を使い込み、岐阜の実家が数名の男性に襲撃されている。悪事を働いている自覚はあったのだろう、この頃から身を隠すようにしながら暮らすクセがつき、刺殺されるまで住民票を何度も移動させていた。
認知した子がいるものの婚姻はしていない。最期を迎えた時もたった1人で庶民的なマンションに暮らしていた理由は、こうした経験があったからと推測される。

悪徳商法へ立ち向かった弁護士たち

豊田商事の被害が拡大し、弁護士への相談が相次ぐようになると、被害を食い止めるべく多くの弁護士が立ち上がった。全国約1000名が参加した全国被害者弁護団の結成である。彼らは、刑事告訴、損害賠償請求訴訟、そして国会への働きかけも行った。
全国被害者弁護団事務局長を務めた山口健一弁護士(大阪弁護士会)は、当時をこう振り返る。

「大阪には豊田商事の本店がありましたから、被害者からの相談が徐々に増えていった。早く何とかしなければと思い、僕と同じような期の若手弁護士を中心に『先物取引被害全国研究会』を立ち上げました。この事件を抜本的に解決するためには、法的規制と、救済されなかった被害者に対する国の補償・救済制度も必要だと考えていました」
被害者側の弁護士たちは豊田商事の破産直後から国へも責任を問うべく「国家賠償請求訴訟」も進めた。その理由として、豊田商事が破産よりも前から国会で追及がなされていたこと、被害者からの相談を受けていた弁護士たちが、通産省や警察庁へ規制や捜査を求めていたことが挙げられる。しかし、国賠訴訟では国の責任は認められなかった。
破産管財事件では豊田商事の財産が徹底的に回収され、約10%の配当を実施した。少額と評されることもあるが同種破産事件の中では高配当であり、管財人であった中坊公平・鬼追明夫・児玉憲夫の3人の弁護士の手腕は高く評価されている。

弁護士倫理を問う

この事件では当時全国の1割近くの弁護士が参加した被害者弁護団が活躍した一方で、一部の悪質な弁護士が、その知識と権威をもって豊田商事に加担していた側面もある。
豊田商事は巧妙な詐欺まがいスキームを構築し、多額の資金を集めるために社会的信頼を得ようと考え、複数の弁護士を顧問に迎えていた。
当時、一部の顧問弁護士へは月額500万円にも上る顧問料が支払われていた。もちろん、高額の顧問料は被害者から吸い上げられたお金である。当時のサラリーマンの平均月収をはるかに超える額であり、これが高齢者からだまし取られた「老後の生活資金」から支払われていた事実は、倫理的な観点からも許されざる行為であった。
豊田商事側の弁護団を率いた弁護士には商品取引の権威者である元検察官や、最高検検事・名古屋高検検事長・公安調査庁長官を歴任していた大御所が名を連ねており、顧客や当局に威圧感を与えていた。
最終的に、懲戒請求の対象となった顧問弁護士のうち、一部の弁護士が業務停止などの懲戒処分を受けた。
豊田商事事件で破産管財人常置代理人を務めた宇都宮健児弁護士に「なぜ顧問弁護士陣は豊田商事に歯止めをかける存在にならなかったのか」と質問したところ「弁護士にもいろんな弁護士がいる」と前置きした上で、このような返しがあった。
「弁護士のあるべき姿は法によって定められています。弁護士法第一条に書いてありますから。弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする、と」
豊田商事事件が単なる経済事件ではなく、弁護士の職業倫理に関わる重大な事件であったと言えるだろう。

豊田商事事件は本当に終わったのか

「私は永野一男はピエロだったと思う。詐欺的に金を集める術にはたけていただろう。その金をうまく使うことができなかった。(省略)結局、彼を祭りあげ、おだてた取り巻き連にいいように喰い物にされ、集めた金をタレ流してしまったのだろう」
「そして殺された。」
豊田商事を長きにわたり追及した国会議員の故・草川昭三(公明党参議院議員会長などを歴任)は1985年7月12日の週刊ポストでこのように語った。
ピエロは去ったものの、永野の残した詐欺の手腕は、現代の日本社会に特殊詐欺という形で亡霊のように漂っている。
豊田商事の組織的なマニュアル営業と、孤独な高齢者を狙い続ける手法は、現在のオレオレ詐欺や還付金詐欺といった消費者詐欺事件の直接的な源流となった。詐欺の手口はより巧妙化・匿名化され、その被害は今もなお日本をむしばみ続けている。

また、豊田商事事件で問われた「法律家の倫理の脆弱(ぜいじゃく)性」は今も解消されていない。詐欺に加担した顧問弁護士は懲戒請求という形で責任が追及されたが、現在も預り金の使い込みが相次ぐなど、法律家に対する信頼は根底から揺らいでしまっている。
しかし、豊田商事事件をきっかけに結成された「先物取引被害全国研究会」は今なお多くの弁護士によって支えられている。詐欺被害の撲滅に向け、この秋も第93回先物取引被害全国研究会大会が開催され、多くの弁護士が集う。
この事件から得た教訓を風化させず、社会全体が監視の目を緩めないことこそが、現代の消費者被害に対する最大の防衛線になるのではないか。
■岩田いく実
損害保険会社、法テラス、一般民事系法律事務所に勤務後、ライターに転身。パラリーガル経験を活かし、年間60人を超える弁護士・税理士を取材。相続や離婚、不動産売却、債務整理、損害保険などのテーマを中心に執筆。第一法規『弁護士のメンタルヘルスケアの心得』で記事執筆、自主出版に『ルポ豊田商事』がある。


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