この年に生まれた赤ちゃんの数は、前後の年よりも約50万人も少ない。計量社会学者・吉川徹教授(大阪大学)によると、前後の年への出産の前倒し・先送りを考慮しても、およそ16万4000人分の人口が日本から「失われた」と計算される。
背景にあるのが、戦後の日本で進んだ「受胎調節」だ。妊娠しない期間をつくる工夫で、現代でいう「避妊」にあたる。
ただし単に「子どもを産まない」という意味ではない。多くの家庭では、まず第一子を授かり、その後の出産は母親の体調や家計、育児の負担などを見ながら、少し間を空けるために産み控えを行うという形で、計画的な調節(家族計画)が実施されてきた。
本記事では吉川教授の著書『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』(2025年、光文社新書)から、「因習的な迷信」や「マスコミが煽ったパニック」という観点だけでは捉えられない、“史上最大の出生減”を引き起こした社会学的構造について考察した箇所を抜粋して紹介する。(本文:吉川徹)
出生数、合計特殊出産率の年次推移:1950年~2019年(厚労省作成)
出生減とともに起きていたこと
昭和のひのえうまの出生減は、なぜこれほど大規模になったのでしょうか?これまでに一般的な解説としていわれてきたのは、旧来の迷信が人びとの間に潜んでいて、それが突如息を吹き返し、多くの親たちが迷信を本来の意味で恐れて、出産を断念せざるをえなかったという、いわば因習抑圧説です。
例えば、最近の新聞論説においてさえ、昭和のひのえうまについて「丙午の迷信に惑わされ、妊娠・出産を前倒ししたり先延ばししたりした人が多かった」と説明されています(「迫る「令和ひのえうま」 迷信根絶なしに少子化対策なし」日本経済新聞2024(令和6)年6月26日)。
しかし因習的な迷信の力だけでは、すでに近代化が進んだ時代であったにもかかわらず、史上最大のインパクトがあったのはどういうわけなのかを説明しきれません。
『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』における資料の見直しは、従来の解釈や通説に修正すべき点があったことを明らかにしています。
江戸から明治までのひのえうまと昭和のひのえうまは、時代背景、社会状況、法制度、動機、情報流通の状態、出生抑制の方法などあらゆる点において、大きく異なるものでした。そして、大出生減の理由は単純明快ではなく、いくつかの背景と要因が重なって生じた事象であったことが示唆されます。
1966(昭和41)年に、大出生減とともに起きていたことを、箇条書きで振り返りましょう。
- 昭和のひのえうまの人口ピラミッドの切り欠きの深さは、前後の年に25万人の赤ちゃんが振り分けられたことにより「水増し」されていた。
- 過熱ぎみのメディア報道により、社会全体が「ひのえうま騒動」と呼びうる状態にあった。
- 寿命の延びから、前回のひのえうま女性が被った厄難を知る旧世代が多く生存していた。
- 親の社会階層や年齢には、この年に限った特別な傾向はみられない。
- この年は新生児における第一子比率が、史上最も高かった。
- 翌年の早生まれがたいへん多い。
- 過去のひのえうまとは異なり、女子の出生数は少なくない。
- ひのえうま出産を避けるために、結婚のタイミングがずらされることはなかった。
- 人工妊娠中絶や死産がこの年だけ増えた事実はない。
- 周産期保健制度と届出制度が整えられており、出生年月日の操作を行うことはほぼできなかった。
- 出生抑制の主たる手段は、政策として推進されていた受胎調節(避妊)であった。
- 新生児中に第一子割合が高い地域ほど、出生減が顕著であった。
新旧理念の奇跡のコラボ――「意識高い系」が産み控えた背景
1965(昭和40)年、東京オリンピックから半年を経た日本社会では、翌年がひのえうまにあたることは、メディア報道と、巷間(ちまた)に根強く記憶されていた明治のひのえうま女性の厄難が相まって、知らない人のほとんどいない騒動となっていました。妊娠出産をする/しないを決める当事者であった女性たち、およびその夫たちが、どれだけ迷信そのものに囚(とら)われていたのか、あるいは世間体や社会通念の影響をどれほど受けていたのか、生まれてくる(かもしれない)娘の将来に生じかねない社会的弊害をどれほど危惧したのか、はたまた、それらを懸念する親族の心情をどれほど考慮したのかは、推察するしかありません。
おそらく、複数の要素が入り混じったかたちで、当事者たちには、翌年の出産を避けるという、他の年であれば全く考慮する必要のない選択肢が、真摯(しんし)な検討の対象として「提示」されていたはずです。この年が、ひのえうま迷信の影響下にあったというのは、つまるところそういうことです。
しかしこの時点では、多くがその選択肢を選び、史上空前の出生減という帰結がもたらされ、ひいてはそれがその後60年間も日本社会に刻印を残そうとは、だれも想像していませんでした。
この年に出産をする可能性があったのは、昭和一ケタから終戦直後までの生まれの(既婚)女性たちで、その数は多く見積もって200万人ほどです。その内訳は、すでに子どもがいる女性たちが半数強、第一子出産を控えたいわゆる新婚女性が半数弱でした。
このうち、すでに子どもがいる女性たちには、助産婦たちによる受胎調節実地指導によって、明るい家族計画(※)が浸透していました。生殖科学の基礎的な知識と、手段としての避妊の方法が、水面下で育児期の若い母親たちに広まりをみせていたのです。
※1950年代に提唱された、避妊を普及するためのスローガン
おりしも、幸福な家族生活には、母体の健康、質の高い子育て環境の確保、家計負担軽減などの観点から、子どもは2人程度が適切であるという考え方が普及し始めており、多子世帯を減らす人口抑制政策の後押しも背景にありました。そのため第二子以降については、計画的に出産間隔を空けることが望ましいとされていたのです。
つまり、この年の第二子以降の受胎調節による出産回避は、近代的合理性に適(かな)った計画出産という意味合いを帯びていたのです。だとすれば、むやみに妊娠しないようにすることは、女性たちが、自らのリプロダクティブ・ヘルス/ライツ(※)を守った、新しく正しい選択であったということになります。
※妊娠・出産などに関する健康と権利
そのため、真に因習に従属的であるがゆえに、女児出生を危ぶんだ一部の母親たちに加えて、その正反対の、女性のクオリティ・オブ・ライフを守るための家族計画を知る、「意識高い系」の母親たちの多くも、「ひのえうま騒動」の偶発を契機に、次子にあたる赤ちゃんを産むことを控えるという選択をしがちだったのです。
迷信か、合理性か?第二子以降で進んだ「計画出産」
実際、昭和のひのえうまの翌年には、第二子の出生数は約40万人も増えて、史上最高の比率になっているのですから、乳幼児をもつ若い母親が何十万人という規模で、偶然ではなく計画的に、既存の子どもとの出産間隔を、1年多く空ける受胎調節をしたものと推定できます。となると、この年に次子が生まれてしまうというのは、「ひのえうま騒動」を知らないか、避妊による家族計画を知らないか、知っていても抑制できなかったか、というイノセントな夫婦だとみられかねない、という懸念さえ生じていたかもしれません。
けれども、20代半ばを平均年齢とする新婚女性たちには、受胎調節実地指導を受ける機会はほとんどありませんでした。他方で、新たにイエに入った嫁は、間を置かず嫡出第一子を授かるべし、という家父長制の金科玉条は、依然として生きていました。
さすがに「嫁して三年、子なきは去る」などとはいわれていなかったでしょうが、この時代の若年女性の職歴中断を表した言葉である「寿退社」には、結婚すればやがて妊娠するのだから、退職して専業主婦として家庭に入っておく、というライフステージの典型的な進み方が含意されています。
そのため第一子については、家父長制の本流ともいうべきこの社会的望ましさが、「ひのえうま騒動」による迷信の抑制力を凌駕(りょうが)しがちであり、出産回避は次子以降の場合ほど強くは期待されなかったものと考えられます。
要するに、第一子については妊娠の抑制は求められず、しかも受胎調節実地指導が行き届いていなかった半面、第二子以降については妊娠回避が強く期待・奨励されている、という状態だったわけです。ゆえに、この年の第一子比率の高さをもたらしたのは、このダブル・スタンダードの構造であったのだと解釈することができます。
とはいえ、第一子の出生数も前年より約16万人も少なかったのですから、およそ190万組の新婚夫婦のうちの9%ほどは、おそらくは新聞投書にあったような状況と心情のために、第一子出産を避ける選択をしたということを、統計データは物語っています(※)。
※参考記事:1966年、50万人の赤ちゃんが“消えた”… 「昭和のひのえうま」当時に起こったマスコミの“過熱報道”
しかし逆に、迷信など重んじない、あるいは因習的な旧弊に抗(あらが)うという、純粋にリベラルな考え方などから、この年に長子、次子にかかわらず子どもを授かることをためらわなかった夫婦も数多くいたでしょう。女児出生を期待してその名前まで考えて、第二子である私をもうけた両親はここに含まれます。
また、当時の雑誌記事には、もし同年人口が少なくなるのならば、先々の子どもの受験には好都合だ、という気の早い胸算用をしているものもあります。ひのえうまを気にしなかった夫婦、あえて好機とみた夫婦など、さまざまなケースがあって、結果的に、急減したといえども136万1000人の出生数が確保できたわけです。
動機がどうであったにせよ、そして長子次子にかかわらず、この年の出生を回避した夫婦がとったのは、子流し(中絶・堕胎)、間引き(嬰児密殺)、祭り替え(届出操作)のいずれでもなく、避妊(受胎回避)という、すぐれて近代的な手段であったのです。
理不尽で強引な方法による妊娠の回避や中絶が増えた事実がないことからも、それは裏付けられます。
生殖科学についてある程度の理解があれば、特定の期間だけ妊娠しないでおくことは、特定の期間内に子どもを産むことよりは容易に実践できます。結果としてそれが、出産断念ではなく、前後の年、とくに翌年の出生増をもたらしたのです。
ひのえうま学年に、1967(昭和42)年の早生まれが多いという特異傾向も、計画的な受胎調節によって精緻に「彫琢(ちょうたく)」された結果なのです。
ですから、昭和のひのえうまが想定外に大規模な出生減となったのは、決して歴代のひのえうま以上に迷信やその社会的弊害が恐れられたためではありません。過剰なメディア報道が煽動したパニック現象というのとも異なります。まして、コロナ禍のときの日本社会のように、社会規範に基づいて自粛を迫る、同調圧力が強かったためでもありません。
このときの想定を上回る大出生減は、計画出産の合理性と、受胎調節の正しい知識が秘かに浸透していたところに、それを試みる絶好の契機として、「ひのえうま」というメディアトレンドの注目キーワードが「降臨」したためにもたらされた現象だったのです。
これと類似した状況として想起されるのは、江戸期のひのえうまにおいて、子流し、間引きが秘かに常態化していたところに、ひのえうまの風説が流布したことが、それらの行為に正当性を与え、一段と数を増していた(と考えられる)ことです。
生殖科学の知識と、リプロダクティブ・ヘルス/ライツの普及という、公衆衛生上の近代化が、元来は家父長制を補強する因習であったひのえうま忌避を、かつてない規模で実態化させてしまった……。これが、この年に起こっていた実際のところでしょう。
伝統性と近代性がせめぎあいつつ成立した奇跡のコラボ、この和魂洋才の最後の一閃(いっせん)こそが、昭和のひのえうまの出生秘話に他ならないのです。
このことに、わたしたちが60年を経たこんにちまで思い至らなかったのは、たまたま二つのものごとが、時を同じくして転倒した動きをしていたためです。
それはすなわち、ひのえうま迷信というタブーが、倫理上の危うさを度外視して、国民的な騒動となっていた一方で、社会的望ましさが周知されるべきであった受胎調節のほうは、草の根レベルでは着実に浸透していながらも、表向きは語られることがなかったということです。
■吉川徹(きっかわ とおる)
1966年生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科博士課程修了。計量社会学を専攻。現在、大阪大学大学院人間科学研究科教授。同大学行動経済学研究センター教授(併任)。

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