
京都市下京区鍵屋町。高瀬川と鴨川に挟まれ、歴史の面影が色濃く残る街並みが続く正面通の一角に、ゲームマニアにとって「聖地」といわれた任天堂<7974>の旧本社屋があった。
その旧本社屋が2022年4月、「丸福楼」という瀟洒なホテルに生まれ変わった。「丸福」とは任天堂の創業家である山内家が用いていた屋号「丸福」に由来し、丸に「福」のマークは、現在の任天堂でも花札などに使われている。
日本・世界のゲーム産業を支えた任天堂と山内家
まず、任天堂とその創業家である山内家の歴史を簡単に振り返っておきたい。任天堂は1889(明治22)年、山内房治郎氏が花札やかるたの製造販売を行う山内房治郎商店として創業した。当時は会社組織ではなく、個人事業でのスタートだった。
2代目の山内積良氏は1933年に合名会社山内任天堂(現株式会社山内)を設立し、創業の地に鉄筋コンクリート造りの本店を構えた。これがホテルとして再生した山内任天堂の旧本社である。
山内任天堂は第二次大戦後の1947年、丸福という株式会社を設立した。山内任天堂の卸専門の子会社という位置づけであったが、会社組織としては現在の任天堂の前身である。
丸福は創業後、丸福かるた販売、任天堂かるたなどと社名変更を重ね、業容を拡大した。そして設立2年後の1949年、丸福かるた販売の時代に任天堂中興の祖といわれた山内溥氏が3代目社長を継いだ。溥氏は積良氏の孫にあたる。
山内溥氏は約50年にわたり任天堂の経営に従事し、任天堂を日本を代表する玩具メーカーへと育てていく。ただ、同族経営は好んでいなかったようで、その後、任天堂の経営は岩田聡氏、君島辰己氏、古川俊太郎氏へと引き継がれた。任天堂の経営と所有は分離され、任天堂は世界を代表する玩具メーカーへと成長した。
2013年、溥氏が85歳で他界する。所有する任天堂の株式を相続したのは、長男の山内克仁氏、孫の山内万丈氏らであった。長男の克仁氏は現在、山内財団という財団法人の代表を務め、万丈氏はYamauchi-No.10 Family Officeという会社を経営している。ともに現在の任天堂の経営には直接的には関わっていないが、現在は創業家のファミリーカンパニーである株式会社山内を加えた3社を総称して「山内家」と呼ばれている。
当時の面影をいまに伝える小ぶりなホテル
その株式会社山内が任天堂旧本社屋をリフォームして開業したのがホテル「丸福楼」である。設計監修を任されたのは建築家の安藤忠雄氏。ホテル運営やプロデュースを任されたのはPlan・Do・See(東京都千代田区)という会社である。丸福楼は株式会社山内の所有であることは変わらぬまま、その経営をPlan・Do・Seeに任せたということになる。

任天堂旧本社屋は1930年代に建てられ、1950年代まで本社として使われていたという。
丸福楼の経営やプロデュースを任されたPlan・Do・Seeは、THE AOYAMA GRAND HOTEL(東京都港区)、THE GARDEN ORIENTAL OSAKA(大阪市)など日本各地の歴史的建造物のレストランやホテル、旅館などの運営を行ってきた会社である。山内家としても、任天堂の旧本社屋の再生事業を担うには適任と判断したのだろう。
ホテルの建物外観は山内家の住居や倉庫として使われていた時代もあっただけに、旧本社といっても決して大規模な造りでない。しかし、旧本社当時の風格と面影を残し、鍵屋町の街並みにしっくり溶け込んでいる。
時代は令和を迎え、資産を管理する山内家としても、保存したままの旧本社を今日的な発想で生かしていこうという気持ちがあったのだろう。ホテル再生事業が本格化し始めた2019年頃、この事業はかぶやまプロジェクトと呼ばれ、ホテルには客室のほかに常設のジムやスパを置くことも予定していた。ところが2020年初め、常設のジムやスパの設置を取りやめ、宿泊者以外も利用できるレストランを置くこととなった。
「丸福樓」の正面玄関脇には「かるた・トランプ 山内任天堂」のプレートがはめ込まれている。そのプレートは、まさに運を天に任せて突き進んできた山内溥氏の遺訓を表しているようにも感じられる。
文:文:菱田秀則(ライター)