
東証のPBR1倍割れ改善要請と自己株買い
東京証券取引所によるPBR(株価純資産倍率)1倍割れ企業に対する資本効率の改善要請以降、自己株買いの実施を公表する企業が相次いでいる。
マーケットで話題となっているのが大日本印刷。同社は3月9日、発行済み株式数の15%に当たる1,000億円が上限の自己株買いを実施すると発表した。
2023年から2027年の5年間で、7,500億円以上のキャッシュを創出し、うち3,900億円以上を事業投資し、3,000億円程度を株主還元するという。

出所:大日本印刷「新中期経営計画骨子説明資料」(2023年3月9日)7頁
将来キャッシュの源泉である投資については、成長が見込まれるデジタルインターフェイス関連、半導体関連、モビリティ・産業用高機能材関連に集中し、設備投資、M&A、そしてアライアンスによりナンバーワン戦略を推進するという。

出所:大日本印刷「新中期経営計画骨子説明資料」(2023年3月9日)6頁
このようなキャピタルアロケーション戦略を明示した背景には、上記東証の要請のほか、2022年末に約3億ドル(約390億円)で同社の株式を取得したアクティビストであるエリオット・マネジメントの存在があったようである。同社のPBRはエリオットの株式保有が明らかになった1月24日時点で0.64倍であった。
マーケットでは自己株買いがクローズアップされているが、注目に値するのは政策保有株式の売却。なぜなら、事業投資や株主還元の原資である7,500億円以上のキャッシュのうち、2,200億円以上は、政策保有株式の売却で捻出するからである。
政策保有株式売却のキャッシュとその用途
政策保有株式の保有は、日本特有の市場慣行の1つであるといわれている。
ロンドン大学ビジネススクールのJulian Franks教授は、2022年11月10日に開催された早稲田大学と経済産業研究所(RIETI)の共催シンポジウムで、2001年から2018年を対象とした調査によると、日本の企業は、買い付けた自己株の約30%を第三者に割当て(Private placement)、その割当先の大部分は事業会社(Business corporations)であり、これが欧米の企業にはない日本企業の特徴であると指摘した。

出所:Julian Franks, Managing Ownership: Evidence from Japan, Waseda-RIETI SymposiumCorporate Control and ESG under “New Capitalism”, November 10, 2022.
しかし、この政策保有株式については、2015年6月に施行されたコーポレートガバナンス・コードで、その「政策保有に関する方針を開示すべき」とし、「毎年、取締役会で、個別の政策保有株式について、保有目的が適切か、保有に伴う便益やリスクが資本コストに見合っているか等を具体的に精査し、保有の適否を検証するとともに、そうした検証の内容について開示すべき」と明示されたため、それ以降、売却確率が上昇している。

出所:金融庁「スチュワードシップ・コード及びコーポレートガバナンス・コードのフォローアップ会議 (第27回)」事務局説明資料(2022年5月16日)11頁
もっとも、政策保有株式の売却で捻出したキャッシュをどのようにアロケーションしたかは必ずしも明らかではなかった。
そこで、早稲田大学商学学術院の宮島英明教授と慶応大学ビジネススクールの齋藤卓爾准教授は、SMBC日興証券の協力を得て、東証1部上場企業(金融業に属する企業を除く)の2011年度から2019年度にわたる政策保有株式に関する包括的なデータベースを作成し、これを検証した。
その結果、2011年度から2019年度の9年間に政策保有株式の売却額を総計すると、約6兆円となり、同期間に増資により得た収入の合計の約8割、配当として支払った額の合計約1割、自己株買いの合計額の約2割に達していることが分かった。

(単位:百万円)
出所:齋藤卓爾「近時の政策保有株の売却動向」監査役744号(2023年)27頁に基づき筆者作成
しかし、そのキャッシュは、専ら「自己株買い」に利用され、「設備投資」、「R&D」、「M&A」に利用された傾向はみられなかった。
キャッシュの用途とM&A制度の見直し
世界の議決権行使アドバイザー市場を寡占している1社であるGLASS LEWIS(グラスルイス)は、2022年12月末に公表した「2023 Policy Guidelines」で、「日本は、貸借対照表に過剰なキャッシュが存在すること、株式の持合いが多いこと、ROEが低いことなど、キャピタルアロケーションの問題から、資本効率や株主還元が十分でない場合がある」と指摘した。
その上で、政策保有株式については、「貸借対照表上額の合計額」が連結純資産と比較して10%以上の場合は原則として反対し、①明確な縮減目標値と時期の開示がある場合と、②連結純資産額に対して10%以上から20%未満の政策保有株式の保有が認められた場合で、5事業年度の平均ROEが5%以上の場合には、反対しないとしている。
大日本印刷グループも、現状の政策保有株式は2022年12月末時点で純資産の約30%(3,599億円)を占めていたが、これを10%未満に縮減するという。
今後も明確な縮減目標値と時期の開示ができない場合には、政策保有株式の売却が進むものと思われる。しかし、常に課題となるのはキャッシュの用途である。
日本企業からは、「PBRを改善したい。政策保有株式は売却する。事業投資も株主還元も考えている。しかし、M&Aが思うようにできない。」という声をよく聞く。
奇しくも大日本印刷グループがキャピタルアロケーション戦略を含む新中期経営計画の骨子を公表した3月9日の1週間前の3月2日、金融審議会(首相の諮問機関)は総会を開き、M&A制度の要ともいえるTOB(株式公開買い付け)制度を見直す議論を17年ぶりにスタートさせた。また、2022年11月18日よりスタートした経済産業省の「公正な買収の在り方に関する研究会」の議論も3月15日締め切りのパブリックコンサルテーションを経て、大詰めを迎えている。
2015年から2020年にかけての日本のM&A総額は、平均して日本のGDPの2%程度であり、米国などの先進国に比べて大きく後れをとっている。
M&A制度の見直しがM&Aの増加につながるかは必ずしも明らかではないが、欧米のように、会社支配権市場(market for corporate control)が発展しないのはなぜか、真剣に考える時期にきているように思われる。(「M&A法制を考える M&A市場発展への3つのハードル」参照)
そして、少なくとも、投資家から調達した資金を投資して創造したキャッシュや政策保有株式や非事業用資産の売却によって捻出したキャッシュが行き場を失い、自己株買いに向かい、自己株が再び事業会社に割り当てられ、政策保有株式の保有が増加することがないことを祈るばかりである。
文:吉村一男