紅白司会の有吉弘行。芸能界の泥水をすすりながら「日本芸能界のてっぺん」をとった有吉の「あだ名」に救われ続けた芸人人生

第74回NHK紅白歌合戦の司会に選ばれた有吉弘行。彼の最初のブレイクとなった『進め!電波少年』のヒッチハイク企画「ユーラシア横断ヒッチハイク」はご存じだろうか? その番組だけでなく、旅の記録を収めたベストセラー『猿岩石日記』にも、無名時代の有吉が残した爪痕があった…。

テレビ番組に関する記事を多数執筆するライターの前川ヤスタカが、同書を熟読し今に繋がる才能の原点を考察する。

有吉弘行が上りつめた「日本芸能界のてっぺん」

みなさんは「日本芸能界のてっぺん」と言われると何を想像するだろうか。

人によっては東京ドームで連日超満員コンサートかもしれないし、年間興行収入ナンバーワンの映画の主演かもしれない。人によって想像する頂点はさまざまだ。

しかし「NHK紅白歌合戦の司会」が頂点の中の一つであることに異論はないだろう。

これまでに紅白の司会を経験した芸能人は100人に満たない。そんな限られた人しか上れない頂に、2023年、有吉弘行の名前が刻まれることとなった。



すでに各局で冠レギュラー番組を持つ有吉。NHKでも長く『有吉のお金発見 突撃!カネオくん』の司会を務めており、2022年にはゲストとして紅白出場した経緯も考えると、司会に選ばれてもまったくおかしくはなかった。

それでも多くの人がこの人選には驚いたことだろう。いくどとなく芸能界の泥水をすすりながら生き残ってきた彼が、ここまで上り詰めたということに。

ご存じのいる方もいるだろうが、有吉は日本テレビ『EXテレビ』の企画を通じて、オール巨人の弟子となり芸能生活をスタート。その後、地元の友人であった森脇和成とコンビ・猿岩石を結成し、現在も所属する事務所・太田プロに加入した。


そして1996年。人気番組『進め!電波少年』の企画「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」の挑戦者に選ばれ、一躍大人気となった。

今回は有吉のある種の原点、ヒッチハイク企画中の日記を本にまとめた『猿岩石日記』(日本テレビ放送網)を改めて読んでみようという話である。

公称250万部ともいわれる『猿岩石日記』の気になる裏表紙

当時の私は社会人2年目。テレビで電波少年は見ていたが、かぶりついて見ていたというほどではなく『猿岩石日記』も購入していなかった。

どちらかといえばその後の『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』目当てで日テレにチャンネルを合わせていたという感じだった。

したがってヒッチハイク企画自体はある程度見ていたが、本は初めて読む。

そんなステータスである。

以前本欄でも読んでみた松本人志『遺書』(記事はこちら)は今でも新刊で購入できたが、残念ながら『猿岩石日記』は絶版だったので仕方なく古書店で購入。当時「極限のアジア編」「怒涛のヨーロッパ編」の2冊セットで公称250万部売れたと言われている。

まず驚くのは「ヨーロッパ編」の裏表紙に猿岩石2人のパスポートの写真ページが何の墨塗りもモザイク処理もなく、そのまま掲載されていること。

1996年2月14日に発行されている10年期限パスポートで、この本が出たころはバリバリ有効期限内。記載されている個人情報は名前と国籍くらいだが、悪用されたりしなかったのだろうか。
おおらかな時代である。

土屋プロデューサーがオーディションで猿岩石を選んだ理由

早速に「アジア編」から読んでみる。

冒頭に土屋プロデューサー(『電波少年シリーズ』のプロデューサー)の前書きがあるが、このオーディションで猿岩石が選ばれた理由は、「さして深い理由があったわけではない」ということに驚く。

「猿岩石というコンビ名の由来が2人の昔の彼女のあだ名を合わせたものだという話が面白いと感じた」という何となくの理由で彼らは半年スケジュールが空いていた約30組の芸人の中から選ばれたのだ。

人気低迷後、有吉が復活したきっかけが「あだ名芸」だったことを考えると、彼は「あだ名」に何度か救われたわけだ。

当時のアジアは今以上に混沌としていた時代。スタート地点の香港も返還前だし、中国の深センも今の最先端シティぶりからは考えられないほど治安が悪い街だ。



野宿と空腹とヒッチハイクの繰り返しで、どんどん過酷度が上がっていくのが彼らの筆致からもよくわかる。タイではよくわからぬ理由で留置所に入れられ、インドではわけもわからずついて行ったお寺で出家。一文無しになっては、善意の人に助けられ、住み込みで働いて交流を深める。

彼らは日本でどんどんこの企画の人気が上がっていることも、日記の内容がオンエアに乗っていることもまったく知らずに書いているので、とにかく内容がストレート。

やれクソむかつく奴がいただの、やれホテルのテレビが全部おもしろくないだの、やれお節介ババアのせいで無駄な体力を使っただの、オブラートゼロの日記が続く。だがそれがリアルだ。

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すでに日記でもふざけていた。有吉が持つ「ふざけ芸」の片鱗

本の構成としては上段に有吉、下段に森脇の日記があるのだが、森脇が比較的真面目に事実を小学生の作文のように書くのに対し、有吉はほぼ感情にまかせて書いている。悪ふざけや下ネタも圧倒的に有吉が多い。

そもそも有吉はSNSなどで今もずっとふざけているし、番組においても隙があればどんどんふざける。

「ふざけ芸」とでも言えばいいだろうか。

そう言うと小学生の延長みたいに聞こえるが、有吉はただふざけているだけではない。物凄い瞬発力と頭の回転の速さでそのふざけの着地点を瞬時に見つけていく。

ヒッチハイクは彼が21歳から22歳にかけての旅だったが、その文章にも何となく今につながる片鱗が見えるのだ。

企画終了後のブレイクと低迷…。そして再ブレイクの道へ

続く「ヨーロッパ編」は欧州に入るまでのパキスタン・イランがとにかく過酷で日中は50℃になる砂漠地帯で何度も命の危険を感じる。

最後は船でドーバー海峡を渡るのに大苦戦したが何とか成功。深夜に港についてからロンドンまでの30Kmを寝ずに歩き、ついにゴールのトラファルガー広場へ。

190日間、半年以上の旅を終え感動のゴールを果たしたはずが、そこは電波少年。続いて「南北アメリカ横断ヒッチハイクの旅」のオファーが……というところで日記は幕を閉じる。

結局、猿岩石は南北アメリカヒッチハイクのオファーを断り、代わりにドロンズがそのオファーを受け旅立つことになった。その後、有吉と森脇は『白い雲のように』を歌い、100万枚を超える大ヒットを飛ばした。

しかしその後、人気は徐々に落ち、2004年に猿岩石は解散。森脇は職を転々とし、芸能界を引退したり戻ったり。一方の有吉はどん底に仕事がない状況から、テレビ朝日『内村プロデュース』などをきっかけに徐々に人気を回復。そして今や日本一のタレントまで上り詰めた。

紅白司会の有吉弘行。芸能界の泥水をすすりながら「日本芸能界のてっぺん」をとった有吉の「あだ名」に救われ続けた芸人人生

『白い雲のように』(日本コロムビア)のジャケット写真。1996年に発売され、翌1997年にはミリオンセラーになったが、その年の『NHK紅白歌合戦』には落選している

有吉の「芸」に感じられるヒッチハイクで得た優しさ

『猿岩石日記』の「あとがき」で、有吉はこう書いている。

「旅したことはスゴイけど、なんか人気がスゴイとか言われても僕達自身は何も変わっていない。変わったとすれば、旅でたくさんの人に優しくしてもらって、人に優しくしてもらうことがどんなに嬉しいかよく分かり、僕達も少し人に優しくなっただけだ」 『猿岩石日記〈Part2〉怒涛のヨーロッパ編―ユーラシア大陸横断ヒッチハイク』(日本テレビ放送網)より

有吉弘行は義理堅く、優しい人だ。今もバラエティ番組の中で、他の出演者を罵倒したり毒づいていたりするように見えて、他の出演者が輝くシチュエーションをさりげなく作っていたりする。

そもそも『有吉の壁』は、有吉自身が救われた『内村プロデュース』を、さらに若い世代のためにやっているとも言える。

極限のヒッチハイクや芸能界のどん底で人の優しさを経験しているからこそ、今、有吉弘行は人に優しくいられる。そういう考え方が、彼の芸能生活の根底に流れているのだなというのが今回『猿岩石日記』を読んで改めて感じたことだ。

有吉の最後のコメントは「最高の旅だった。またやってみようかな。いやつらいから。でも、うーん。よし、いつか必ずやろう!楽しいから」であった。

芸能界の頂の景色を見た有吉が、この過酷なルールの旅を再びすることはないかもしれない。そもそも190日も彼の時間を拘束することはもはやできない。

しかし同じルートであの時お世話になった人を探しにいく旅はおもしろそうだ。今度は高級車と飛行機ファーストクラスの旅でもいいから、ぜひ再び同じ道を旅してほしい。

文/前川ヤスタカ イラスト/Rica 編集協力/萩原圭太