
中学2年生から20年近くひきこもっている小川一平さん(33歳)。生きづらさを抱え、何度も自殺未遂をしたが、親に無視され続けたことで精神状態が悪化。
遺書『動くと、死にます。』
『動くと、死にます。』というショッキングなタイトルの本がある。書いたのは小川一平さん(33)。中学2年生から20年近く家にひきこもっていた当事者だ。
今から5年前、28歳のときに小川さんは「死にたい」衝動が抑えきれなくなり、精神科病院に1か月間、保護入院した。そのとき閉鎖病棟で書いた日記をもとに、両親にも理解されない生きづらさ、ひきこもり続けている自分の内面などを率直につづったものが本書だ。
「ひきこもっているのは甘えだ」と決めつける人に疑問を投げかけ、「動きたくても、動けない人がいる」とくり返し訴えている。
「僕としては、遺書のつもりで書いたんです。
真剣な眼差しに、一瞬、ドキッとしたが、小川さんはすぐに表情をゆるめると、「そんな心づもりで、実はやっているんです」と穏やかな口調で続ける。
「動けなさへの寛容さがもっと広がれば、僕以外のひきこもりや、ひきこもりじゃなくても持病や高齢で動けなさを抱えた人のためになるだろうと思うんですよ」
親が悩みを聞いてくれない
小川さんは1990年生まれ。埼玉県で生まれ育った。両親は共働きで、一人っ子の小川さんは保育園に通っているころから、生きづらさを感じていた。
「みんなが遊んでいる輪の中に入れない子どもでした。どういう風に話しかけたらいいのかもわからないし、人との接し方もわからなくて。小学校では友だちが全然いなかったわけでもなくて、一緒にゲームくらいはしたけど、ランドセルが一番キレイな子でした。
ランドセルを傷つけ合うような喧嘩も避けていたし、プロレスごっこもしたことがない。生まれつきアトピーで肌が弱くて触れると傷ついちゃうから、人と距離を取らざるを得なくて、それが精神的にも響いていたんじゃないかな。だから、喧嘩ありきの信頼関係って、いまだによくわからない。それがコンプレックスでもありましたね」
繊細で臆病。小川さんは自分の性格をそう表現する。
父親は人がよくて温厚だが、鈍感なところがある。幼いころは父親とブロックやソフビ人形で遊んだり一緒に出かけたりしていたが、心の問題についてはまるで理解できない人だったという。小川さんが成長するにしたがって、どんどん腫れ物を扱うような態度になっていったそうだ。
母親は怒ると、すぐヒステリーを起こす。何がスイッチなのか、わからないのがずっと怖かった。ヒステリーを起こすと、小川さんが泣こうが喚こうが、無視をされた。寒い日に玄関から放り出されたこともある。
両親は夫婦仲も悪かった。小川さんが幼いころは激しい夫婦喧嘩をくり返しており、その後は家庭内別居のような状態が続いている。親への不満や悩みを共有できるきょうだいもおらず、小川さんは1人ですべてを受け止めるしかなかった。
親の関心を引きたくて自殺未遂を重ねる
小学4年生のとき、小川さんは突拍子もない行動に出る。
母親と些細なことで言い争った後、「死んでやる」と泣きわめきながらベランダに出て、手すりに足をかけて身を乗り出したのだ。自宅はマンションの7階にある。落ちれば死んでしまうことはわかっていた。
なぜ、そんなことをしたのか。理由を聞くと、小川さんはポツリとつぶやく。
「親に振り向いてほしかったのかな……。子どもが自殺未遂みたいなことをしたら、抱きしめるっていうのが正常な反応じゃないですか」
ところが、両親は止めにも来ない。父親は見て見ないふりをし、母親はわざと大きな音を立てて家事をし始める。小川さんはそのまま泣き続けた。
1、2時間後、泣き疲れて部屋に戻ると父親が一言、「大丈夫か?」と声をかけてくれたが、それ以上は何も言わないし、聞いてもくれない。
「放っておけば、そのうち収まるだろうみたいに親は考えていたんじゃないかな。ヒステリーを起こしたときの母親がそうだから、僕もそうだろうと。
飛び降りようとしたのは、小学生のときだけでなく、中学生のときも、ひきこもり始めてからも、数えたらゆうに100回以上ありますけど、全部無視です。台所で包丁を自分に突き付けて、一晩中泣き叫んだときもそうでした」
息子をどう扱えばいいのかわからず、両親もお手上げだったのかもしれない。だが、自分たちが選んだ“無視する”という行為が、我が子の心に深い傷を残していることには気が付かなかった。そのときの気持ちを小川さんはこう言い表す。
「自分が真面目にどれだけ必死にやっても相手にされない。だから無力感みたいなものもあったし、自分に自信も持てなくなってしまって……。結局、その相手にしてもらえない積み重ねが、おそらくこう、パッカーンとなって、抑うつや適応障害につながったんじゃないかなと思います」
中2で家にひきこもり、暴れるように
不登校になったのは中学2年生のときだ。成長期を迎えてアトピー性皮膚炎が急激に悪化。運動をして汗をかくと、全身に水疱ができたり皮膚がはがれたりしてしまい、体育ができなくなったことがきっかけだった。
最初はスクールカウンセラー室に登校していたが、しだいにそこにも行けなくなり、家にひきこもった。しばらくすると、家庭内暴力が止まらなくなる。
「親に対してじゃなく、物に暴力をふるう感じですね。壁を蹴ったりとか。だいぶ精神的にも落ちてしまって、親としても家に置いておけないと思ったみたいですね」
そこまで追い込まれて、やっと親も動いたのだが、事態は改善されるどころか、悪くなる一方だった。
最初に、母親に連れて行かれたのは、素人が副業でやっているようなひきこもりの相談所だった。
「精神的に一番落ち込んでいるときに、『親の気持ちを考えたことあんのか』みたいな説教をコンコンとされて。しかも、向こうは説教する人とスタッフと母親だから、3対1ですよ。泣きながら帰った記憶があります」
次に、両親に車に乗せられて向かったのは、不登校児や精神疾患の子どもの治療にあたる精神科病院だった。最初から入院を前提に話が進んでいたのか、医師の診察を受けて、そのまま入院させられそうになった。
だが、小川さんは頑なに拒否。結局、入院はせず帰途に着いたが、自宅近くの警察署が見えると、母親がヒステリーを起こして怒鳴った。
「入院するか警察に行くか選んで! このまま家にいさせられない!」
警察署に向かってハンドルを切りそうになったので、小川さんは車のドアを開けて自ら飛び降り、家まで歩いて帰った。
「ああ、完全に見放されたって思いましたね。
自分の部屋に誰も入って来られないように、洋服ダンスやガムテープでバリケードを作って、立てこもったこともある。
「あのときは、ひきこもりを無理やり連れ出して施設などに収容する引き出し業者がニュースやワイドショーで話題になっていて、それを恐れていたんです。もし、自分も連れて行かれそうになったら、刺し違えるつもりで包丁を隠し持っていました」
3年生では1日も登校しないまま、中学を卒業した。
「他のひきこもりに会ってみたい」
その後、母親が不登校を専門にしている地元のクリニックを探して受診。親子でカウンセリングを受けるようになり、小川さんは少しずつ落ち着きを取り戻していった。
通信制高校に進んだが、時間はたっぷりある。家にひきこもった後は、ほぼ一日中、ゲームをやっている人も多いが、小川さんは逆に、ひきこもってからゲームができなくなったという。
「僕みたいにコミュニケーションが苦手な子は、流行りのゲームを一緒にすることによって友だちと共通の会話ができていたんです。だから、ひきこもって、共有する相手が周りにいなくなったら、ゲームが楽しくなくなったんですね。ひきこもりの中には、リアルでは会えなくてもオンラインゲームなら大丈夫みたいな人も結構いますけど、僕は、オンラインはダメですね」
その代わり、ほとんどの時間を読書に充てた。特に哲学書や思想系の古典が好きだと言い、『ヨブ記』、『神曲』、カント、ランシエール、マルクス、トーマス・マン、ジョイス、トルストイ、柳宗悦、鷲田清一など、古今東西の作家や哲学者、書物の名前が次々と出てきて驚いた。
通信制高校を卒業後、20歳のころから地元のひきこもり当事者会に参加するようになった。しかも、自分で保健所に電話をして近くでやっている当事者会を探したのだという。
ひきこもりの人は自分から動くことが苦手なイメージがある。どうして参加しようと思ったのかと聞くと、意外な返事が返ってきた。
「自分以外のひきこもりに会ってみたかったんです。行ってみたら、僕と同じような動けなさを抱えた人たちが来ていたので、なんか、安心できましたね」
あるとき、ひきこもり当事者が自分たちの声を発信するため『ひきこもり新聞』という媒体を作るので、「原稿を書いてみないか」と誘われた。小川さんが書いた原稿が2016年11月に発刊された創刊号に掲載されると、他の当事者団体でも話題になった。
だが、こうして動き始めたことで、新たな悩みも生じる。それが、後に再び「死にたい」衝動につながるとは、小川さん自身、予想もしていなかった――。
取材・文/萩原絹代