
世界最高の知性の一人とされる、エマニュエル・トッド氏が、ウクライナ戦争から生じた世界の変化について解説した書籍『人類の終着点 戦争、AI、ヒューマニティの未来』。ここでは書籍の中からアメリカが直面している困難な現実について、一部抜粋・再構成して解説する。
アメリカは「ニヒリズム」に支配されている
アメリカで起こっていることを理解するために、私が導入しなければならなかった概念
が一つあります。
それは「ニヒリズム(虚無主義)」という概念です。この言葉は、スペルで正確に理解しておきましょう。ニヒリズムとは「NIHILISM」と書きます。
この言葉は、1930年代にドイツが陥った狂気を理解するために使われた概念です。もちろん、今のアメリカで起きていることは同じではありません。このニヒリズムが意味するように、戦争や破壊に魅了され、現実の破壊や否定を始めることは、本当に危険なことです。
たとえば今、西側諸国がウクライナでの戦争に勝てないことは明らかです。すでに決着がついていると私は考えます。ロシアは時間をかけて、できる限りのことをするでしょう。
私の予測では、この戦争の終息には5年かかると考えています。5年というのはわれわれにとっては長い時間です。
私たちはあらゆる事態を覚悟しなければいけません。ワシントンの人々は、もはや1950年から1980年にかけて政権を担っていたような伝統的なエリートではありません。当時のアメリカには、かなり首尾一貫した白人プロテスタント、つまりアングロサクソンのエリートがいました。人々がジョークや批判を込めて、WASP(ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタントの略称)と呼んでいた人たちです。
WASPのエリートは、いろいろな意味で馬鹿げていましたが、大統領としてルーズベルトとアイゼンハワーを輩出するなどしました。
今のアメリカに典型的なのは、プロテスタントという中核の完全な崩壊です。現在、アメリカで起こっていることを理解するためには、プロテスタント文化がアメリカやイギリスにおいて「いかに重要であったか」を理解する必要があります。
イギリスでも、プロテスタントの崩壊は並行して進んでいます。これは、最終的に、プロテスタント的価値観の完全な消滅という災厄にまで行きつくでしょう。つまり、それは「労働倫理」の消滅です。経済学における道徳の基本概念の消滅を意味します。そしてこのことが、すべての経済的機能不全の理解を可能にします。
これにより、アメリカを支える宗教的な核が消滅したため、過去に戻ることはないと予測することが可能になります。これが、一般的な歴史であり、経済史です。
裁判や司法制度における不平等が
経済主体となりうるシステム
しかし今、支配者層、ワシントンの人々、この世界をリードする人々、ジョー・バイデン、彼の安全保障顧問のジェイク・サリバン、トニー・ブリンケン、ヴィクトリア・ヌーランド、そして彼女の夫であるロバート・ケーガンといった人々は無責任であり、恐ろしい存在です。
私にとっては、西側がウクライナ戦争に勝つか、ロシアが戦争に勝つかというのはどうでも良いのです。もっと一般的に言うと、西側のネガティブな動きを考慮すれば、ウクライナ戦争とは関係なく、アメリカのさらなる悪化に備えなければならないということです。
無責任なインテリやケンブリッジの学者のようなことを言って申し訳ないですが、私はフランス市民として、そして世界市民として、私たちの前にある歴史の動向に、心から怯えているのです。
――そのお答えは次の質問につながるのですが、2024年以降の世界についてお尋ねします。リベラルな寡頭制の次に来る世界システムについてどのように考えていますか。
ここ数年で、アメリカを分析する際にある言葉が頻繁に登場するようになりました。
これは、私が考えた言葉でも、個人的に導入した新しい概念でもないのですが、かなり多くの本で目にする概念です。それを「封建主義」と言います。
封建主義とは何かと言うと、二つの側面がある社会状態のことです。これは私にとって新しい研究分野です。
一つは、国家の中枢が弱体化し、国家の各部門が互いに独立して行動するようになることです。そして、もちろん体制内の富裕層、つまり以前の時代の寡頭支配者たちは、自分たちの望むように国家の断片を利用したり、行動したり、影響を与えたりする傾向がますます強くなっています。
ローマ帝国が崩壊した後にも、このようなことが起こりました。これは、社会の上層から見た封建制だと言えるでしょう。
封建主義とは一種の「権力の崩壊」をもたらし、超富裕層が真の寡頭支配者になるような権力システムです。寡頭支配の本当の意味は、少数者の権力です。富裕層が権力を持つ金権政治とは異なります。つまり、寡頭制から封建制への移行は、非常に小さな動きとなるのです。
もう一つの側面は、「人を買う」ことができるところにあります。まず資本主義とは、基本的にお金でモノを買うことができるシステムです。
資本主義では、少しのお金なら小さなものを、たくさんのお金があれば大きなものを買うことができます。
アメリカの寡頭支配者は、シンクタンクに資金を提供することで、必要とするイデオロギーやプログラムを作ったり、発言したりします。これはすでに完成しています。私が言う「人を買う」とはもっと悪い状態です。
「人を買う」段階とは、裁判や司法制度における不平等が経済主体となりうるシステムが完成した段階です。
「最悪の事態」はまさにこれから起こる
現在のアメリカはある意味、基本的自由が国家によって衰退させられている状況とも言えます。ただアメリカに関して言うと、私は学資ローンをとくに心配しています。
長い間、アメリカで経済的に生き抜くということは、「何らかの高等教育を受ける」ということでした。高等教育を受けることで、グローバル化の最悪の影響から逃れることが可能になっていました。
しかし、もちろん、アメリカでは教育機関がますます私立化されています。多くのお金がかかり、大半の学生は銀行からお金を借りて勉強しなければならず、借金を背負っています。
この問題をバイデンが何とかしようとしているのは知っています。しかし、そう簡単に負債を背負わせる動きが止まったり、覆されたりするとは思いません。
もちろん、私は歴史を研究しているので、多少は歴史の知識があります。古代史の知識はあまりありませんが、借金に走ることは――とくに大規模な個人的借金は――借金の奴隷のようなものへと、人々を導く最初の一手であることを知っています。
就職して働き始める前に、個人的な借金を背負ったアメリカの現在の学生は、19世紀の政治思想家たちが、「市民の自由」などと言っていたような状態とは程遠いのです。
これが、私が恐れている、暗い未来の一部です。
私たちの世代にとってはとくにですが、これ以上悪いことが起きると想像するのは難しいことです。
1951年生まれの私は、人生の大半で、生活水準の驚異的な向上を経験してきました。かつては南仏にある私の村から電話をかけるのさえ難しかったころもありましたが、今は携帯電話を持っていて、どこでも誰にでも電話をかけることができます。
市民の積極的な政治参加があったころはまだ、民主主義の時代でした。これはフランスにもイギリスにもアメリカにも当てはまりますが、当時の歴史は同じような傾向がありました。
しかし、グローバル化などによって、産業システムが崩壊していくのを目の当たりにします。そして、物質的な困難を抱えるようになります。
コロナ禍の時期、西洋には、必要な医療品や機械、マスクなどを作ることができないことがわかり、私は本当に驚きました。
アメリカでは状況がもっと悪く、バイデンが当選した後、銃乱射事件や連邦議会議事堂の襲撃事件が起きました。
私たちは、最悪の事態をすでに目の当たりにし、今こそ回復し始めるときだという考えを持っています。しかし、状況はまったくそうなってはいない。私たちにとっての最悪の事態はまだ来ていないのです。
これこそ、私が恐れていることです。最悪の事態についての意識の欠如こそ、恐れるべきです。
写真/shutterstock
人類の終着点 戦争、AI、ヒューマニティの未来(朝日新聞出版)
エマニュエル・トッド, マルクス・ガブリエル , フランシス・フクヤマ,メレディス・ウィテカー , スティーブ・ロー , 安宅 和人 , 岩間 陽子 , 手塚 眞 , 中島 隆博
