
オンライン環境が整ったことで劇的に変化を遂げている教育現場。進学塾VAMOSを経営する富永雄輔氏も、子どもたちと接する中でその影響をひしひしと感じているというが、AI時代における子どもの教育で考えるべきこととは何か?
『AIに潰されない 「頭のいい子」の育て方』(幻冬舎新書)より、一部抜粋・再構成してお届けする。
AI禁止には意味がない、と言えるこれだけの理由
教育界は変化への抵抗感が低く、社会すなわち親たちの認識よりもずっと速く変革が進んでいます。
その変革を推し進めてきた要因は、大きく二つあります。
一つは、これからの時代に通用するグローバルな子どもを育てようという、教育現場の強く前向きな意志によって。
もう一つは、AIが子どもたちの世界にも入り込んできたことで、変わらざるを得ないといった、やや後ろ向きな動機によって。
ただ、理由はどうあれ、大事なのは「変わるべきものは変える」ことです。それが達成されるのなら、結果オーライでいいのだと私は思っています。
とはいえ、現場はまだまだ揺れており、まさに模索中という感じです。
たとえば、小学校も変わってきていて、対面で授業をするという昭和からのスタイルは続いているものの、そこで教えられている内容自体はAI時代を意識したものとなっています。
一方で、夏休みの自由研究や日々の宿題について、たいていの小学校では「生成AIの使用禁止」を掲げています。わざわざそんな注意をしなければならないということは、利用してくる子どもがいるのが前提となっているわけです。
しかし、私は、AIの使用を禁止すること自体ナンセンスだと思っています。それよりも、自由研究や宿題といったものの概念自体を変える時期に来ているのではないでしょうか。
今、読書感想文の課題を出せば、ちゃんと本を読んで自分で考えて書いてくる子も、もちろんたくさんいます。
大人たちは、AI時代の教育のあり方について、本気で考えないといけません。
立派な感想文を提出することが大事なのではなく、本を読んでいろいろ考えること自体が楽しいと思える子どもに育てる。
チャットGPTでズルをするのではなく、使いこなしてなにか新しい価値をつくり出そうと思える子どもに育てる。
そのために必要なのは、AIを使わせない方法を模索することではないはずです。
一人一タブレットはもう普通。学校に広がるDX化
私立の多くの学校では、DX化がすごいスピードで進んでおり、小学校ですら、タブレットが使用されています。
一人一台タブレットが支給される学校も増えてきました。動画を用いることでわかりやすく説明したり、資料やプリント類をダウンロードさせたりと、授業で使用するのはもちろんのこと、宿題もタブレットでやりとりします。
また、ある私立中学校では、教師も参加するクラスのチャットが設けられ、子どもたちは、そこで勉強を教え合ったり、ときには愚痴をこぼし合ったりしています。
学校を欠席している子どもにも、タブレットを使うことでコンタクトがとれますし、教師の目が届いているため、問題も起きにくいようです。
もちろん、最初はタブレットを使いこなせない子もいるものの、やがてみんな教師の技量を凌いでいきます。「教えるほうも大変そうだな」と同情心すら湧きますが、これも「AI時代に生き残れよ」という学校側のメッセージなのではないかと思っています。自ら新しい壁を越えていかねばならないということでしょう。
ましてや高校生ともなれば、さらにDX化は進みます。
そもそも、今の高校生向けの問題集や参考書は、スマートフォンを持っている前提でつくられています。色や動く図形を使うものや、文字だけで説明するのが困難なものに関しては、QRコードが添付されており、それを読み込むと動画で説明してくれるのです。
ただし、学習の広がりを考えれば、スマホよりもiPadなどのタブレットやパソコンの使用が望まれます。その点、これらの機器を保護者負担で持たせることもできる学校を選べば、さらに先を行くことができるわけです。
計算の速さなど、もう、なんの売りにもならない?
このようにDX化が進んだ学校を中心に、試験に電卓や参考書などの持ち込みをOKとしているところが増えています。とくに電卓に関しては、今後あらゆる試験の場で持ち込みが前提となると私は踏んでいます。
電卓を持ち込めば、計算の速い子どもの優位性が失われます。これまでの試験では、数学でも理科でも計算の速い子どもはいい成績が取れたのに、これからは計算が遅い子どもに差を縮められてしまいます。
でも、それでいいのです。
ビジネス界より進んでいる教育現場は、おそらく、みなさんが考えているよりずっとレベルの高い子どもを欲しがっています。電卓の「あり・なし」などとうに超えて、「ここは自分で考えて、ここは電卓に計算させればいい」という判断ができる子どもを求めているのです。
とはいえ、現入試において計算をしっかりやることはまだまだ大切です。一部の学校では変化が起きていると言いましたが、「計算力を武器にできる子」はゼロにはなりません。突出したスピードで正しく計算ができる子は、どこかで絶対に必要とされます。その数は減るでしょうが、むしろ強みは増すかもしれません。
要するに、「戦い方が多様化している」ということです。
結果的に勝てればいいのであって、その方法は多様。ただし、結果が問われるからこそ、その方法が自分に適しているかどうかを見極めることが、非常に大事になってきます。
Jリーグで成績を残しているあるサッカーチームは、その典型です。
試合での戦い方も泥臭く、汚く見えるプレイもするけれど、結果的に勝っている。まさに明確なポリシーがあるわけで、そのようなやり方に適していると思える選手にとっては、いいチームとなるわけです。
灘中学校の入試は2日間にわたって行われますが、その初日の国語試験は、難しい漢字やことわざなど、徹底的に知識を問うものです。インターネットで調べれば事足りる知識について出題する学校が減っている中で、灘中学校はまったくブレることなく国語の知識を問い続けています。読解力や思考力はもちろん大事ではあるけれど、それ以前に、「日本人であるならば日本語の知識は必須である」というポリシーが貫かれているのです。
このように、学校や企業といった受け入れサイドが多様化しているのに対し、そのポリシーが自分と合っているかどうかを見誤れば能力は生かせません。親として、我が子の適性を見極めることが、以前にも増して大事になってくるのです。
これからの子どもを問う「試験」とは
中学受験に批判的な人の多くは、「子どもの頃から詰め込み学習をするのは良くない」と考えているようです。しかし、それは今の中学受験の現実をまったく理解していない意見と言わざるを得ません。
中学受験に限ったことではありませんが、教育現場では「知識合戦はやめよう」という方向に舵を取っており、それぞれの学校が独自のカラーを打ち出しています。そこでは、詰め込み学習をしてきただけの知識偏重の子どもは歓迎されません。
それに、一口に私立中学校と言ってもさまざまで、お行儀のいい伝統的な教育に重きを置くところもある一方、枠を超えた新しい試みをどんどん取り入れているところもあります。
子どもたちの個性に合わせ、受け皿はいろいろ用意されているのです。ただ、いずれにしても、AIに潰されない子どもを育てようとする意識は共通しています。あとは、親が我が子に最適な場を見つけられるかどうかです。
これからの時代に重要なのは、AI時代に生き抜ける子どもを育てる教育環境を選ぶことで、単純に高い学歴を持たせることではありません。
それがよくわかっている親は、これまでのように偏差値だけに注目し、「我が子の学力内で最も偏差値の高いところを狙わせる」という方法に絞ることはしなくなっています。新しく到来する社会における我が子の可能性を見極めた上で、考え得る最良かつ最大限の学びを与えているのが、今の中学受験の姿なのです。
中学校側の教師たちも、大学ですらゴールではあり得ず、通過点として捉えているようです。社会に出てからも転職するのがあたりまえの時代ですから、そうした前提に立った上で「この子たちが25歳になったとき、30歳になったときどうなっていてほしいか」を考えて教えているのが伝わってきます。
大学も同じです。少子化で存続が問われる中、どこの大学も「自分たちらしさとはなにか」を模索しています。そして、そこに合う学生を求めています。
当然、入試の問題についてもそれにかなう設定をしてきます。だから、東大に合格してもMARCHに落ちる人も出てきます。
それが、これからの時代。少なくとも、東大を出ただけで生き残れるという時代ではありません。
文/富永雄輔 写真/Shutterstock
『AIに潰されない 「頭のいい子」の育て方』 (幻冬舎新書)
富永雄輔
「一つのことを極めろ!」はNG
「英語を使いこなせ」はNG
あなたの成功体験が子どもを不幸に陥れる!
生成AIの台頭により、5年後には今ある職業の2割が消えると言われる。まず淘汰されるのは、ホワイトカラーの中のエリート層だ。そんな時代の「頭のよさ」とは何なのか。親は何を目指して子どもを育てればいいのか。「親自身の成功体験を忘れろ」「〝一つを極めろ〟より、〝あれもこれも〟の選択肢を」「いつも勝てる場より、競争を」など、親の価値観転換を迫る緊急提言とともに、「愛嬌がある」「負けた回数が多い」など、伸び伸びと強く生きていける子どもの特徴も解説。子どもの未来への不安を払拭する、きれいごと抜きの実践的子育て論。